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	<title>昭和時代｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>本田宗一郎は何をした人？どんな人？逸話やエピソードをまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 21 Nov 2020 00:41:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[本田宗一郎といえば、本田技研工業の創業者であることは有名ですね。 そう、多くの人が乗っている車やバイクの「HONDA」の父なのです。 いつもチャレンジ精神で事業を進めていった人らしいのですが実際のところはどうだったのでし]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>本田宗一郎といえば、本田技研工業の創業者であることは有名ですね。</p>
<p>そう、多くの人が乗っている車やバイクの「HONDA」の父なのです。</p>
<p>いつもチャレンジ精神で事業を進めていった人らしいのですが実際のところはどうだったのでしょうか。</p>
<p>この記事では、本田宗一郎はどういう人だったのかその生涯を見ていくことにしましょう。</p>
<h2>本田宗一郎のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1906年11月17日</li>
<li>生誕地：静岡県磐田郡光明村（現在の浜松市天竜区）</li>
<li>名前：本田宗一郎</li>
<li>死没：1991年8月5日（84歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>本田宗一郎は何をした人？</h2>
<h3>出生から丁稚奉公まで</h3>
<p>宗一郎は鍛冶屋を営む本田儀平と妻みかの間に長男として生まれました。</p>
<p>1913年光明村立東尋常小学校（現在の浜松市立光明小学校）に入学した宗一郎は、在学中に自転車を初めて見ました。</p>
<p>また浜松町和知山練兵場まで飛行機を見にいくなど、とても行動的な子供でした。</p>
<p>1922年に二俣町立二俣尋常高等学校（現在の浜松市立二俣小学校）を卒業すると、宗一郎は東京市本郷区湯島（現在の東京都文京区湯島）の自動車修理工町の「アート商会（現在のアート金属工業）」に丁稚奉公として勤めることになりました。</p>
<h3>レースと独立</h3>
<p>アート商会では1923年には榊原社長をリーダーにしてレーシングカーの製作が始まりました。</p>
<p>1台目は中古のダイムラーエンジンを載せたアート・ダイムラーで、2台目はアート・カーチスでした。</p>
<p>このとき最も熱心にマシン作りを手伝ったのは宗一郎でした。</p>
<p>翌年には日本自動車競争大会で、カーチス号が優勝しています。</p>
<p>アート商会の社長は1928年に暖簾分けの形で浜松市に支店を出し、それを宗一郎に任せました。</p>
<p>暖簾分けを受けたのは宗一郎はだけでした。</p>
<p>宗一郎は若さと才能で修理の腕だけではなく、「浜松のエンジン」と呼ばれる発明をし活躍していったのでした。</p>
<p>1935年小学校の教員だった磯部さちという女性と結婚し、二男一女をもうけています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">のちに長男の本田博俊さんはあの「株式会社 無限」の創設者となります。</div>
</div></div>
<p>1936年に第1回全国自動車競争大会（多摩川スピートウェイ）に弟の弁二郎と共に参加します。</p>
<p>車はフォードに自作のターボチャージャーをつけたものでした。</p>
<p>しかし残念なことに事故のため負傷しレースもリタイアすることになりました。</p>
<h3>新しい会社へ</h3>
<p>1937年には「東海精機重工業株式会社（現在の東海精機株式会社）」の社長に就任しました。</p>
<p>宗一郎はエンジンに欠かせない部品としてピストンリングに目をつけますが、経験だけでは難解で、学問的に知識を必要として浜松高等工業学校（現在の静岡大学工学部）機械科の聴講生となり3年間も金属工学の研究をしました。</p>
<p>1939年にはアート商会浜松支店を従業員の川島末男に託し、東海精機重工業の経営に専念することにします。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この間宗一郎は東海精機重工業の社長をしながら、アート商会も経営し、その上金属工学の勉強までしていたのですね。</p>
<p>すごい行動力です。</p></div>
</div></div>
<p>1941年に太平洋戦争が始まり、東海精機重工業も軍需省の管轄下に置かれました。</p>
<p>その上、翌年にはトヨタ自動織機が東海精機重工業に出資をし、経営権を奪われる形で宗一郎は専務に退きます。</p>
<p>1945年に起きた三河地震により会社の浜松工場が倒壊し、宗一郎は会社の株を全て豊田自動織機に売却して退社しました。</p>
<p>「人間休業」といって1年間の休養に入ったのでした。</p>
<h3>本田技研へ</h3>
<p>そして翌年1946年には浜松市に本田技術研究所を設立し、39歳で宗一郎は所長に就任しました。</p>
<p>1948年には<span class="marker">本田技研工業株式会社を設立し、代表取締役に就任</span>しています。</p>
<p>資本金は100万円で従業員は20人からのスタートでした。</p>
<p>ここで二輪車の研究を始めました。</p>
<p>1949年宗一郎は後の副社長となる藤沢武夫と出会います。</p>
<p>藤沢はすぐに頭角を現し、開発は主に宗一郎が、経営は藤沢が担当するという強力な関係が築かれていったのでした。</p>
<p>この2人のタッグでその後の『HONDA』が成長していったのでした。</p>
<p>1957年には東京証券取引所一部上場となり、翌年にはスーパーカブを発売しています。</p>
<p>1961年藤沢と共に「作行会」を設立し、若手研究者や学生に匿名で奨学金を交付しました。</p>
<p>やがて1973年には本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任。研究所所長は続けました。</p>
<p>1981年勲一等瑞宝章を受章した宗一郎は、2年後取締役も退き終身最高顧問となります。</p>
<p>そして1989年には<span class="marker">アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした</span>のです。</p>
<p>それから2年後の1991年宗一郎は肝不全のためこの世を去ります。</p>
<p>84年間の生涯でした。</p>
<h2>本田宗一郎のエピソード・逸話</h2>
<h3>水冷エンジンか空冷エンジンか</h3>
<p>エンジンを空冷にするか、水冷にするかという論争がホンダの中で起こった時、若い社員たちは公害規制をクリアするために、水冷がいいと主張しましたが、宗一郎は「砂漠の真ん中でエンストした時に水なんかあるか！空冷だ」と主張したそうです。</p>
<p>一時は宗一郎の意見が通り空冷の車ホンダ・1300が発売されましたが、これは若手のエンジニアの反発を招きました。</p>
<p>様々な実験の結果、最終的に水冷の方が優れていることがわかりホンダは水冷エンジン路線に変更します。</p>
<p>宗一郎は「自分には技術がわからなくなったのかもしれない」と考え、社長を退いたと言います。</p>
<h3>潔い引き際</h3>
<p>四輪自動車の技術についていけなくなっている宗一郎は、自分が天才技術者であった過去の実績からワンマンな性格が出始めてきました。</p>
<p>これは若い社員たちから煙たがられる存在となっていきます。</p>
<p>それを察した藤沢が、自分が退く旨を宗一郎に伝えます。</p>
<p>宗一郎はそれで全てを察し、「辞める時は2人一緒だよ」といい、揃って1973年に引退したのでした。</p>
<p>後継者は当時45歳の川島喜好でした。</p>
<p>経営者も世襲ではなく実力のあるものを登用するそれも宗一郎の考えでした。</p>
<p>若い世代に跡を継いでゆく、この宗一郎の思いもホンダの伝統となりました。</p>
<h3>社長としての顔</h3>
<p>従業員は宗一郎のことを「オヤジさん」と親しみを込めて読んでいました。</p>
<p>しかし一方では「オヤジさんは怖かった」と言われています。</p>
<p>中途半端な仕事をした時などは容赦なく怒鳴り、物が飛んできたりもしたそうです。</p>
<p>しかし怒った方の宗一郎が泣いていたこともあったと言います。</p>
<p>宗一郎は従業員をとても大切に考えていました。</p>
<p>だから怒鳴らなければならないことが辛かったのでしょう。</p>
<p>「俺たちの作る商品は人命に関わるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言っていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">ものを作るだけではなく、それを使う人の命を考えていつも宗一郎は仕事をしていたんですね。</p>
<p>それを従業員みんなにわかって欲しかったのでしょう。</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる本田宗一郎のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>ホンダの創始者</li>
<li>従業員をとても大切にし、世襲ではなく実力のある者を登用した</li>
<li>レースが好きだった</li>
</ul>
</div>
<p>自転車から始まり、自動車まで一躍発展させた本田宗一郎の生涯を見てきました。</p>
<p>彼はいつも車の技術について考えてきた人でしたね。</p>
<p>時には間違ったこともあるけれど、それをきちんと受け止めていました。</p>
<p>時代とともに自分の力が劣っていくのを認めることは辛かったことでしょう。</p>
<p>しかしそんなことでめげる宗一郎ではなかったようで、引退後も講演会など様々な活躍をしています。</p>
<p>生涯挑戦的で前向きな本田宗一郎に拍手を送りたいですね。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>松下幸之助は何をした人？どんな人？エピソードをまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kounosuke/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/kounosuke/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 18 Nov 2020 02:45:28 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[日本の電気メーカー・パナソニックの創始者といえば松下幸之助だということはみなさんご存知だと思います。 では彼はどういう人だったのかと言われてもよく知らない人が多いのではないでしょうか。 ここでは松下幸之助がどんな人だった]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>日本の電気メーカー・パナソニックの創始者といえば松下幸之助だということはみなさんご存知だと思います。</p>
<p>では彼はどういう人だったのかと言われてもよく知らない人が多いのではないでしょうか。</p>
<p>ここでは松下幸之助がどんな人だったのかみていくことにしましょう。</p>
<h2>松下幸之助のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1894年11月27日</li>
<li>生誕地：和歌山県海草郡和佐村（現在の和歌山市）</li>
<li>名前：松下幸之助</li>
<li>死没：1989年4月27日（94歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>松下幸之助は何をした人？</h2>
<h3>丁稚奉公から電気の世界へ</h3>
<p>松下幸之助は小地主・松下政楠ととく枝の間に三男として生まれました。</p>
<p>松下という姓は、松の大樹の下に家があったことから用いたと言われています。</p>
<p>1899年父が米相場で失敗し、家も田畑も手放すことになりました。</p>
<p>そこで和歌山市本町に転居し下駄屋を始めますが、これもうまくいきませんでした。</p>
<p>幸之助は尋常小学校を中退し9歳で火鉢店へ丁稚奉公に出されました。</p>
<p>その後すぐに奉公先を五代自転車に変えています。</p>
<p>この頃サントリーの起源である寿屋の鳥井信治郎と出会い、将来にわたり経営の師と仰ぐのでした。</p>
<p>幸之助は大阪市に導入された路面電車に感動し、電気に関わる仕事を志すようになりました。</p>
<p>16歳で大阪電灯（現在の関西電力）に入社し7年間勤務します。</p>
<p>当時の電球は自宅に直接電線を引く方式だったので、電球の取り扱いもとても危険な作業でした。</p>
<p>そこで簡単に取り外すことができる電球ソケットを考案しています。</p>
<p>1913年幸之助は18歳で関西商工学校夜間部予科に入学し、1914年井植むめのという女性と結婚し、1917年大阪電灯を退職しました</p>
<h3>会社設立へ</h3>
<p>大阪市東成区の自宅で、妻とその弟の井植歳男とそのほかの友人2名を含み5名で電球ソケットの製造販売を始めます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">井植歳男は戦後に独立し三洋電機を創業した人です。</div>
</div></div>
<p>電球ソケットはあまり売れず、友人2人は去って行きましたが、川北電気（現在のパナソニック エコシステムズ）から扇風機の部品の注文が大量にあり窮地を脱することができました。</p>
<p>その後はアタッチメントプラグや二灯用差込プラグがヒットし事業は軌道に乗り始めました。</p>
<p>1918年に大阪市北区（現在の大阪市福島区）で<span class="marker">「松下電気器具製作所（現在のパナソニック）」を創業</span>し、電球ソケットに続き、カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、乾電池などにも手を広げました。</p>
<p>1929年には社名を「松下電器製作所」へ変えています。</p>
<h3>事業拡大と第二次世界大戦</h3>
<p>1932年を「命知元年」と定めて5月に第1回創業記念式を開き、「水道哲学」や「250年計画」「適正利益・現金正価」を社員に訓示しています。</p>
<p>また事業拡大のため、本社・工場を大阪市門真市へ移転し、1935年には「松下電器産業株式会社」として会社を法人化しました。</p>
<p>第二次世界大戦中は、軍需品の生産をするとともに、松下造船株式会社や松下航空機株式会社も設立しました。</p>
<p>造船の方は56隻の中型木造船を作りましたが、航空機は7機を試作しただけで失敗に終わりました。</p>
<p>戦後、幸之助や歳男ら役員は戦争協力者として公職追放処分となります。</p>
<p>この頃歳男を暖簾分けの形で社外に出しました。</p>
<p>そのような中で幸之助はPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出し世間の評判を高めました。</p>
<p>社員たちも人員整理をしなかった幸之助の方針に感謝し、GHQに嘆願し1947年会社は復活したのでした。</p>
<h3>戦後の事業</h3>
<p>1948年に自分の趣味の株式投資を意識して「ナショナル証券」を設立しましたがこちらはうまくいかなかったようです。</p>
<p>1951年テレビ事業視察のため外遊し、オランダのフィリップスと技術導入を提携し1997年に「松下電器」に統合するまで「松下電子工業」として分社化しました。</p>
<p>1954年には今度はレコード事業に参入するため「日本ビクター」を子会社化しましたが、経営上は独立性を保証しました。</p>
<p>1957年現在の「パナソニックショップ」となる系列電器店網へ取り組み、「ナショナルショップ」を誕生させました。</p>
<p>この「ナショナルショップ」は最大で2万7千店を超えたそうです。</p>
<p>そんな功績が認められ1960年には和歌山県の名誉市民に選ばれています。</p>
<h3>会長職へ</h3>
<p>1961年に会長に就任し第一線から身を引き、1964年には門真市で初の名誉市民に推挙されています。</p>
<p>1970年日本万博博覧会に松下電器館を出店し、「5000年後に開封する」としてタイムカプセルを大阪城公園に埋蔵しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">5000年後ってすごい未来の話ですね。</p>
<p>どんな世の中になっているのでしょうか。</p></div>
</div></div>
<p>1971年には慶應義塾大学工学部へ多額の寄付を行い、松下記念図書館ができました。</p>
<h3>引退と最期</h3>
<p>1973年に幸之助は80歳を機に引退し、相談役になりました。</p>
<p>翌年には奈良県明日香村の名誉村民となっています。</p>
<p>この年から1983年まで伊勢神宮崇敬会第3代会長を務めています。</p>
<p>1979年には70億円もの私財を投じて財団法人松下政経塾を設立し、政界に貢献しようとしました。</p>
<p>そんな幸之助でしたが、1989年4月気管支肺炎のため病院で亡くなるのでした。</p>
<p>94年間を駆け抜けた人生でした。</p>
<h2>松下幸之助のエピソード・逸話</h2>
<h3>賢い丁稚時代</h3>
<p>自転車屋に奉公していた幸之助は度々タバコを買いに行かされました。</p>
<p>そのうちまとめてタバコを買っておけばいちいち買いに行かずに済むし、20個買うと1つオマケでくれたので、その分を自分の儲けにして小銭をためていました。</p>
<p>それを気に入らない丁稚仲間に店主に報告され、すぐに止めるように言われました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この頃から商才があったのですね。</div>
</div></div>
<h3>水道哲学</h3>
<p>松下幸之助の経営哲学は水道哲学と呼ばれています。</p>
<p>水道の水のように低価格で良質なものを大量に供給することで、物価を低くし消費者が手にしやすくなるという思想です。</p>
<p>幸之助は儲けに走ることより、良い製品を低価格でたくさん売ることを目的としていました。</p>
<p>その上彼はまず従業員のことを考えていました。</p>
<p>儲けよりもまず人間大事が信条でした。</p>
<p>人間は偉大であるという徹底した哲学を彼は持ち続けていたのです。</p>
<h3>浅草寺の雷門</h3>
<p>1960年幸之助は100年近く仮設状態のままになっていた浅草寺の雷門と大提灯を私財を使い現在の形に再建しました。</p>
<p>提灯の雷門の下には「松下電器産業株式会社 松下幸之助」と金文字で大きく書かれたプレートが貼られています。</p>
<h2>3行でわかる松下幸之助のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>パナソニックの創始者</li>
<li>自分なりの哲学を持っていた</li>
<li>色々な事業を手がけた</li>
</ul>
</div>
<p>休むことなく事業に力を注いだ松下幸之助の生涯を見てきました。</p>
<p>彼の死亡時の遺産総額は2450億円と言いますからものすごい額ですね。</p>
<p>その私財を使って色々な慈善事業もしています。</p>
<p>学校も出ていない貧しい生活から、彼は怯むことなく自分の人生に立ち向かっていきました。</p>
<p>その結果大成功をおさめることができたのです。</p>
<p>彼の信じる哲学は、今でもパナソニックの社員に受け継がれていっていることでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>山本五十六は何した人？どんな人？真珠湾攻撃・海軍甲事件・ミッドウェー海戦など</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/isoroku/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/isoroku/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 16 Nov 2020 04:17:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[皆さんは山本五十六という人物をご存知でしょうか。 真珠湾攻撃に携わり、第二次世界大戦中に命を落とした軍人さんです。 しかし、山本五十六とはどのような人だったのか知らないという人が多いのではないでしょうか。 ここではその山]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>皆さんは山本五十六という人物をご存知でしょうか。</p>
<p>真珠湾攻撃に携わり、第二次世界大戦中に命を落とした軍人さんです。</p>
<p>しかし、山本五十六とはどのような人だったのか知らないという人が多いのではないでしょうか。</p>
<p>ここではその山本五十六という人の生涯をたどってみることとしましょう。</p>
<h2>山本五十六のプロフール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1884年4月4日</li>
<li>生誕地：新潟県古志郡長岡本町（現在の長岡市）</li>
<li>名前：山本五十六（旧姓…高野）</li>
<li>死没：1943年4月18日（59歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>山本五十六は何をした人？</h2>
<h3>軍人を目指すきっかけ</h3>
<p>山本五十六は旧越後長岡藩士高野貞吉の六男として生まれました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">五十六という名前はその時の父の年齢が56歳だったことから付けられたそうです。</div>
</div></div>
<p>旧制新潟県立長岡中学校時代に10歳年上の甥である高野力が病死し、その時両親に「五十六が変わって立派な軍人になってくれれば」と言われたことが彼のトラウマとなりました。</p>
<p>それをきっかけに五十六は軍人を目指すようになったのでした。</p>
<h3>軍人への訓練</h3>
<p>1901年に五十六は官軍兵学校32期に200名中2番の好成績で入学します。</p>
<p>同期生には堀悌吉や塩沢幸一などがおり、特に堀悌吉とは親友になりました。</p>
<p>日露戦争中の1904年に192名中11番で卒業した五十六は少尉候補生として練習艦「韓崎丸（からさきまる）」に乗船します。</p>
<p>1905年には装甲巡洋艦「日進」に乗り込み日本海海戦に参加しました。</p>
<p>この時彼は左手の人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負うことになります。</p>
<p>その後は防護巡洋艦「須磨」や戦艦「鹿島」、海防艦「見島」、駆逐艦「陽炎」などに勤務します。</p>
<p>その間海軍砲術学校や海軍水雷学校などでの教育も受けました。</p>
<p>教育の後は駆逐艦「春雨」や装甲巡洋艦「阿蘇」に乗り込んだ後、三等巡洋艦「宗谷」に配属となります。</p>
<p>1909年にはアメリカに駐在し、1911年海軍大学校乙種学生を卒業後海軍経理学校と海軍砲術学校の教官となり、同僚の米内光政と盟友となっています。</p>
<h3>高野五十六から山本五十六へ</h3>
<p>1913年両親を亡くし、五十六は海軍大学校に入学します。</p>
<p>この間の1915年旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">ここから山本五十六の人生が始まったのですね。</div>
</div></div>
<p>海軍大学校を卒業した翌年彼は腸チフスにかかり、また虫垂炎も起こし命の危機に瀕します。</p>
<p>大手術の末なんとか命を取り止めることができたのでした。</p>
<p>1917年海軍教育本部第一勤務となった頃、友人の紹介で三好礼子と結婚しています。</p>
<h3>アメリカへ留学</h3>
<p>1919年アメリカ駐在を命じられ、ハーバード大学に留学しました。</p>
<p>アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、飛行位産業などに強い印象を持ちました。</p>
<p>このアメリカ滞在時に超米海軍武官の上田吉武大佐より受けた指導と視察、研究の影響が航空機に着目するきっかけになった可能性があります。</p>
<p>上田吉武大佐は海軍航空開発の第一人者です。</p>
<p>1921年に一旦帰国したものの、1925年には再びアメリカに滞在しています。</p>
<p>この時もアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産流通を視察研究し、この経験が後の対米戦の戦略を立てることに大いに影響したのでした。</p>
<h3>軍縮会議</h3>
<p>1928年には帰国し軽巡洋艦「五十鈴」や多段式空母「赤城」の艦長を務めていましたが、1929年に海軍少尉に進級しロンドン軍縮会議に参加しました。</p>
<p>この軍縮会議では艦隊派と条約派という派閥争いも生じ、この一件が山本が艦隊派だと受け止められ五十六の出世のきっかけになりました。</p>
<p>結局軍縮会議では日本は補助艦全体の保有率を対米比6.975とされたのでした。</p>
<p>1934年第二次ロンドン海軍軍縮会が行われました。</p>
<p>この会議で日本は軍縮条約からの脱退を決意し、ワシントン海軍軍縮条約の破棄も決めていました。</p>
<p>その後から日本はドイツに近付き始めました。</p>
<p>1936年五十六は海軍次官に就任します。</p>
<p>これは五十六の政治手腕を買っていた永野修身の熱望によるものでした。</p>
<p>その後盧溝橋事件が起こり日中戦争に拡大し、第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入されることとなります。</p>
<p>この時海軍によりアメリカ艦艇への誤認砲撃があり五十六はすぐに対米交渉を行いました。</p>
<p>アメリカ視察を経験した五十六にはアメリカを敵に回すことはとても恐ろしいことだとわかっていましたから。</p>
<h3>連合艦隊司令官と真珠湾攻撃</h3>
<p>1939年五十六は連合艦隊司令官に任命されました。</p>
<p>この任命は日独伊三国同盟に納得しない五十六が暗殺されてしまうことを危惧して行われた人事でした。</p>
<p>しかし1940年日独伊三国同盟が締結され、日本はアメリカやイギリスを敵に回すこととなったのでした。</p>
<p>当時の総理大臣だった近衛文麿の日記によると</p>
<p>「是非と言われれば半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国同盟ができたのは仕方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」</p>
<p>を五十六は語ったそうです。</p>
<p>五十六は1941年<span class="marker">真珠湾攻撃を仕掛けます。</span></p>
<p>これは敵の主力機動部隊を初戦で壊滅させ戦意をくじくという心理作戦の効果と敵の機動力の喪失を目標としていました。</p>
<p>この攻撃で戦艦4隻が大破し戦艦2隻が大・中破するなどアメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能にする戦果をあげました。</p>
<p>しかしこの攻撃から日米開戦を迎えることになったのでした。</p>
<p>これに続きドイツのヒトラーもアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ、北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大していったのでした。</p>
<h3>ミッドウェー海戦</h3>
<p>ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とした作戦が立てられ、反対の声もありましたが、五十六は奇襲できれば負けないと考え実行に移します。</p>
<p>五十六は敵機動部隊を誘い出し撃滅することを目的としていましたが、軍はミッドウェー島攻略を主に考えていたため、連合艦隊の意図は徹底されませんでした。</p>
<p>この海戦で日本軍は敵機動部隊より攻撃を受け、大敗を期することとなったのでした</p>
<h3>海軍甲事件</h3>
<p>五十六はブーゲンビル島、ショートランド島の航空基地の将兵をねぎらうため、ラバウルから第705航空隊の一式陸上攻撃機2期に分乗して基地を発進しました。</p>
<p>零式艦上戦闘機６機に護衛されてブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空でアメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃され、撃墜してしまいました。</p>
<p>この事件を<span class="marker">海軍甲事件</span>と言います。</p>
<p>五十六の遺体は機体の側に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま泰然としていたと言います。</p>
<p>59歳、軍人としての最期でした。</p>
<h2>山本五十六のエピソード・逸話</h2>
<h3>勝気な子供時代</h3>
<p>五十六はとても勝気な子供で小学生時代に「なんでも食べるが鉛筆は無理だろう」とからかわれると、その場で鉛筆を食べ出したそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この頃から性格的に軍人に向いていたのかもしれませんね。</div>
</div></div>
<h3>乃木希典を敬愛していた</h3>
<p>五十六は乃木大将を尊敬しており、友人の歌人から</p>
<p>「乃木将軍を　稍々口悪く素気なく描けば　そこに山本がいる」</p>
<p>と冗談めかして評されています。</p>
<p>反面東郷平八郎に対しては好意的ではなく、東郷神社が出来た時には皮肉を言っていたそうです。</p>
<p>五十六本人にも死後神社を建てようかという動きがあったのですが、彼の意志を知るものが反対し建立は行われませんでした。</p>
<h3>甘いもの好き</h3>
<p>五十六は酒を飲みませんでしたが、甘いものが好物でした。</p>
<p>特に夜食に汁粉が出ると喜んだそうです。</p>
<p>虎屋の羊羹をいつも切らさぬように部下は気を使っていたくらいでした。</p>
<p>飴や最中も大好きでした。</p>
<p>日本では柿を、南方ではパパイヤを好んで食べていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">厳しい戦争の最中、ちょっとした気晴らしになったことでしょう。</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる山本五十六のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>海軍の軍人で、大将も務めた</li>
<li>真珠湾攻撃をしかけた</li>
<li>ミッドウェー海戦では大敗した</li>
</ul>
</div>
<p>軍人として59年の人生に幕を下ろした山本五十六の生涯を見てきました。</p>
<p>本当はアメリカとは戦いたくなかった五十六でしたが、真珠湾攻撃で先制して有利にことを進めようとした考えが仇となってしまいました。</p>
<p>2度の留学でアメリカの先進化を嫌という程見せつけられていた五十六には、アメリカとは絶対戦ってはいけないという思いがあったはずなのに、結局敵に回すことになり五十六は腹を括ったことでしょう。</p>
<p>それゆえ彼にはこの戦争の結末がわかっていたことは間違い無いでしょう。</p>
<p>それでも軍人として見事に最後まで戦った山本五十六でした。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>野口英世は何した人？どんな人？功績や手のやけどなど</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/noguchihideyo/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/noguchihideyo/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 11 Nov 2020 02:33:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[学校で習った野口英世は、日本の代表的な医師であり研究者でした。 確かに特に伝染病の研究に熱心に取り組みノーベル賞の候補にもなった人です。 「医学の伝道師」と言われた野口英世ですが、その反面ルーズなところもあったようです。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>学校で習った野口英世は、日本の代表的な医師であり研究者でした。</p>
<p>確かに特に伝染病の研究に熱心に取り組みノーベル賞の候補にもなった人です。</p>
<p>「医学の伝道師」と言われた野口英世ですが、その反面ルーズなところもあったようです。</p>
<p>ここでは野口英世はどういう人物だったのか、彼の生涯を見ていきましょう。</p>
<h2>野口英世のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1876年11月9日</li>
<li>生誕地：福島県耶麻郡三ツ和村（現在の猪苗代町）</li>
<li>名前：野口清作（後に英世に改名）</li>
<li>没年：1928年5月21日（51歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>野口英世は何をした人？</h2>
<h3>貧乏な農家生活と火傷</h3>
<p>野口英世は父左之助と母シカの長男として生まれ清作と名付けられました。</p>
<p>父親の左之助は人はいいのですが、酒好きで怠け者でした。</p>
<p>ですから野口家はいつも生活に苦労していました。</p>
<p>野口は1歳の時、囲炉裏に落ち左手に大やけどをしてしまいます。</p>
<p>貧乏な野口家はそんな息子を医者にも見せてやれませんでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">母のシカは自分の落ち度で子供をこんな目に合わせてしまったと自らを責めたことでしょう。</div>
</div></div>
<p>1883年三ツ和小学校に入学しました。</p>
<p>左手の不自由な野口には農作業は無理だと考えた母は学業で身が立つようにと言い聞かせます。</p>
<p>野口自身も貧乏な農家を継ぐなんて死んだほうがマシだと姉に話したそうです。</p>
<p>手のことで「清ボッコ」といじめられていた野口は、成績は良く猪苗代高等小学校に入学できました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">野口の成績を惜しんだ教頭の小林栄の粋な計らいからだったそうです。</div>
</div></div>
<p>1891年野口は自分の障害を嘆く作文を書き、それが教師や同級生らの同情を誘いました。</p>
<p>そして左手の手術のための募金が集められたのでした。</p>
<p>翌年アメリカ帰りの医師渡部鼎（わたなべかなえ）に手術をしてもらい、不自由ながらも左手がなんとか使えるようになりました。</p>
<p>野口はこのことがきっかけで医師を目指すようになったのです。</p>
<h3>医師を目指して</h3>
<p>1893年学校を卒業した野口は渡部鼎の元で書生として住み込みで働きながら約3年半の間医学の基礎を学びました。</p>
<p>1896年に渡部の友人の歯科医で東京都港区の高山江東歯科医学院（現在の東京歯科大学）の講師・血脇守之助と出会います。</p>
<p>その年、小学校時代の恩師小林から40円もの大金を借りて上京し、医術開業試験の前期試験に合格しましたが、放蕩にふけりわずか2ヶ月で資金を使い果たしてしまったのです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">どうやら野口は囲碁や将棋が大好きで、その上飲み屋にまで通うようになっていたようです。</div>
</div></div>
<p>ドイツ語の勉強をしたかった野口は血脇に泣きつき、院長に掛け合い賃金を上げてもらうことに成功し、そのお金でドイツ語を習うことができました。</p>
<p>また、後期試験のために済生学舎（現在の日本医科大学）へ通うために血脇に頼み、血脇は院長から病院の経営を任せてもらうようになり野口は月に15円もの額を得ることができるようになりました。</p>
<p>1897年臨床試験で打診ができないことから、血脇の計らいで近藤次繁に左手の再手術を受け打診ができるようになり後期試験にも無事合格しました。</p>
<p>1898年からは<a href="https://rekishigaiden.com/kitazatoshibasaburo/">北里柴三郎</a>が所長を務める伝染病研究所（現在の東京大学医科学研究所）に勤めます。</p>
<p>語学が堪能なことから主に外国人相手の通訳等を担当しました。</p>
<p>この頃野口は坪内逍遥の「当世書生気質」を読み、ことば巧みに借金を繰り返し自堕落な生活を送る登場人物の野々口精作が自分の名前とよく似ており、またその所業も自分と重なるところが気に入らず、名前を清作から英世に改名しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">英世という名は故郷の恩師小林から世に優れるという意味でつけてもらいました。</div>
</div></div>
<h3>アメリカへ</h3>
<p>1899年清国でのペスト対策として国際防疫班に選ばれますが、放蕩で資金がなくまた血脇に工面してもらい清国へ渡りました。</p>
<p>翌年義和団の乱が起こり清国の情勢が悪くなり、野口は帰国します。</p>
<p>この年医師を志す女学生の斉藤ます子と婚約し、その持参金を持ってアメリカへ渡航し、ペンシルベニア大学医学部の助手として蛇毒の研究に当たりました。</p>
<p>研究の結果を論文にまとめ、それは高く評価されました。</p>
<p>1903年にはデンマークのコペンハーゲンへ留学し、血清学の研究を続けいくつかの論文を発表しています。</p>
<p>1904年アメリカに戻った野口はロックフェラー医学研究所に勤務しました。</p>
<p>1905年には血脇が婚約者へ野口が持たせた持参金300円を返し、婚約を破棄しています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">血脇という人はどこまでいい人なのでしょうか。</div>
</div></div>
<p>1911年野口は京都帝国大学病理学教室に論文を提出し、<span class="marker">医学博士の学位を与えられました。</span></p>
<p>その年アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しています。</p>
<p>1914年には東京大学より理学博士の学位を授与され、<span class="marker">ノーベル医学賞候補になりました。</span></p>
<h3>最後の帰国と晩年</h3>
<p>1915年野口は15年ぶりに日本へ帰国し、年老いた母親との再会を果たします。</p>
<p>またこの時にお世話になった小林と血脇に懐中時計を贈っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">迷惑ばかりかけていた2人に恩は感じていたのでしょうね。</div>
</div></div>
<p>これが野口が日本に帰った最後となります。</p>
<p>またこの年2度目のノーベル医学賞の候補になっています。</p>
<p>1918年から黄熱病の病原体発見のためエクアドルへ派遣されます。</p>
<p>そしてレプトスピラ・イクテロイデスという病原体を発見し、3度目のノーベル医学賞候補となりました。</p>
<p>その後ペルーやメキシコ、アフリカなどへ病原体を探して各国を巡りましたが、1928年野口自身が黄熱病にかかりました。</p>
<p>一度は持ち直したものの再度病状が悪化し、病院で亡くなってしまうのでした。</p>
<p>彼はアフリカへ行くのを決めた時に</p>
<p>「私は何も恐れない。私はこの世に何かを成すために生まれてきたのです。もし死ぬべき時が来たらそれに従うだけです」</p>
<p>と言っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">このことから野口英世という人物は命がけで研究をしていたことがわかりますね。</div>
</div></div>
<h2>野口英世のエピソード・逸話</h2>
<h3>戸籍の改名</h3>
<p>「当世書生気質」の登場人物が名前も行いも、自分と似ていたことから清作から英世に改名したのですが、戸籍を変えることは困難でした。</p>
<p>そこで別の集落に住んでいた清作という人に頼み込んで、自分の生家の近所にあった別の野口家へ養子に入ってもらい、2人目の野口清作を作り、同じ集落に同姓同名がいるのは紛らわしいと主張し戸籍の名前を変えることに成功したのでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">わざわざそんな手を使っても、清作でいたくなかったのですね。</p>
<p>それほど小説の中の野々口は自分と似ていて、それが恥ずかしかったのでしょう。</p></div>
</div></div>
<h3>血脇守之助との関係</h3>
<p>野口はお金に困ると血脇に泣きついていました。</p>
<p>これは野口の遊び好きのせいだったのですが、血脇は何度もその要求に応えています。</p>
<p>留学前に血脇にもらった500円という大金を放蕩で使い切ってしまったと聞いたときは流石に言葉を失うほど呆れたと言います。</p>
<p>1922年に血脇がアメリカを訪れた時、野口は大喜びで何日間も案内をして回ったそうです。</p>
<p>そして「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、大統領にまで会わせたと言います。</p>
<p>別れ際に血脇が世話になったことで、これまでのことはお相子だと言ったら、野口は</p>
<p>「决して恩は忘れていません。昔のように清作と呼び捨てにしてください。その方が私はどんなにありがたいかしれません。」</p>
<p>と言い、改めて血脇に感謝を示したのでした。</p>
<h2>3行でわかる野口英世のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>病原体を求めてひたすら研究に打ち込んだ</li>
<li>幼い頃のやけどで左手が不自由だった</li>
<li>お金にだらしなく借金上手だった</li>
</ul>
</div>
<p>3度もノーベル医学賞の候補に上がりながらそれを得ることができなかった研究の虫とも言える野口英世の生涯を見てきました。</p>
<p>医学に対する気持ちはすごく立派なものですが、放蕩三昧だったことも驚きましたね。</p>
<p>それでもお金に困った時、何度でも支えてくれた小林先生や血脇先生のような人がいたことは彼にとってとても幸せなことでした。</p>
<p>きっと野口英世には、そこまでしても助けたくなるような魅力があったのでしょう。</p>
<p>そんな野口英世が千円札の肖像になっているのは何か皮肉な気がしますね。</p>
<p>研究していた途中に亡くなってしまったのはとても残念ですが、彼のことですからあちらの世でも、研究や囲碁に夢中になっていることでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>南方熊楠は何をした人？どんな人？逸話やエピソードをまとめました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/kumasugu/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/kumasugu/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 24 Oct 2020 04:40:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[南方熊楠（みなかた くまぐす）は日本を代表する博物学者、生物学者であり特に植物学に関しての研究に没頭した人です。 アメリカの科学雑誌「ネイチャー」にも論文を書き、大英博物館にも出入りをして研究を重ねたそうです。 そんな南]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>南方熊楠（みなかた くまぐす）は日本を代表する博物学者、生物学者であり特に植物学に関しての研究に没頭した人です。</p>
<p>アメリカの科学雑誌「ネイチャー」にも論文を書き、大英博物館にも出入りをして研究を重ねたそうです。</p>
<p>そんな南方熊楠について、どんな人なのか、その生涯はどのようなものだったのか見ていきましょう。</p>
<h2>南方熊楠のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1867年5月18日</li>
<li>生誕地：和歌山城下橋長（現在の和歌山市）</li>
<li>名前：南方熊楠</li>
<li>死没：1941年12月29日（74歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>南方熊楠は何をした人？</h2>
<h3>学問好きな子供</h3>
<p>南方熊楠は金物商と雑貨屋を営む弥兵衛（後に弥右衛門に改名）とすみとの間の次男として生まれました。</p>
<p>この年の生まれに<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>や<a href="https://rekishigaiden.com/masaokashiki/">正岡子規</a>、尾崎紅葉、幸田露伴などの著名な人々がいます。</p>
<p>熊楠は幼少の頃から学問に興味があり、学校に入る前から本を読み大抵の漢字は読めたと言います。</p>
<p>この様子を見て父親はこの子には学問をさせようと思い、熊楠を就学前から寺子屋に通わせた上、漢学塾や心学塾にも行かせました。</p>
<p>1873年雄（おの）小学校に入学、1876年卒業後は鍾秀学校に入学しています。</p>
<p>しかしあまり本を買ってもらえなかった熊楠は「和漢三才図会」105巻を借り、記憶しながら筆写を始めました。</p>
<p>その他にも「本草綱目」「諸国名所図会」「大和本草」なども12歳までに筆写しています。</p>
<p>これから熊楠の学問スタイルが筆写によるものになっていきました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">ちなみに「和漢三才図会」を筆写し終わったのは1882年でした。</div>
</div></div>
<h3>学生時代</h3>
<p>1879年和歌山中学校（現在の和歌山県立桐蔭高校）に入学し、教師の鳥山啓から博物学を勧められています。</p>
<p>1883年和歌山中学校を卒業し、上京して神田の共立学校（現在の開成高校）に入学しました。</p>
<p>この学校は大学予備門（現在の東京大学）への入学を目指しており、主に英語で授業をする受験予備校でした。</p>
<p>この学校で熊楠は高橋是清からも英語を習っています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">この頃世界的な植物学者のバークレイが菌類6000点を集めたと知り、自分はそれ以上の標品を集めようと思い立ったそうです。</div>
</div></div>
<p>1884年大学予備門に入学しました。</p>
<p>同窓生には<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>、<a href="https://rekishigaiden.com/masaokashiki/">正岡子規</a>などがいました。</p>
<p>熊楠は学業をそっちのけで遺跡の発掘や、菌類の標本採集に明け暮れる日々を送っていました。</p>
<p>その頃父は南方酒造（後の世界一統）を創業しています。</p>
<p>熊楠は1885年1月1日から日記をつけ、1941年12月の死去までほぼ毎日書かれています。</p>
<p>「当世書生気質」や「南総里見八犬伝」を買い、一方で大森貝塚や日光で動植物の化石や鉱物を採取していました。</p>
<p>期末試験で代数のみが合格点に足りなかったため落第となり、熊楠は予備門を中退します。</p>
<h3>留学へ</h3>
<p>熊楠は心機一転するつもりで、留学を決めます。</p>
<p>1887年サンフランシスコに到着し、ミシガン州農業大学（現在のミシガン州立大学）へ入学しました。</p>
<p>当初商業を学ぶはずでしたが、徐々に商業から離れていき、大学に入らず自分で書籍を買い標本を集め、自然を観察する毎日でした。</p>
<p>1888年寄宿舎での飲酒を禁止されている校則に違反したため自主退学をしました。</p>
<p>その後ミシガン州のアナーバー市に移り、やはり動植物の観察と読書に真剣になっていました。</p>
<p>この間にシカゴの地衣類学者であるウィリアム・ワート・カルキンズに標本作製を学んだのでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">地衣類とは菌類のうちで藻類を共生させる事で自活できるようになったものを言います。</div>
</div></div>
<p>1989年てんかんの発作を起こしています。</p>
<p>熊楠はひどい癇癪持ちで、自分が夢中になれた自然の中で動植物の観察や菌の収集などが心を落ち着けさせる一つの手段だったのです。</p>
<p>1891年フロリダ州に移り、中国人の江聖聡の食品店で住み込みで働きながら生物調査を続け、<span class="marker">新発見の緑藻を科学雑誌「ネイチャー」に発表しました。</span></p>
<p>1892年イギリスに渡りそこで初めて父の訃報を受け取りました。</p>
<p>1893年「ネイチャー」に初めて論文「極東の星座」を、続けて「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿しています。</p>
<p>そしてオーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い大英博物館にも出入りするようになり、ますます考古学や人類学などの蔵書を読みふけっていたのでした。</p>
<p>その年熊楠は生涯にかけがいのない存在となる土宜法龍（どき ほうりゅう）と出会います。</p>
<p>土宜法龍は仏教学者であり僧侶でもあり、熊楠は彼と仏教を中心とした宗教論や哲学論で熱論を交わしたのです。</p>
<p>その後も「ネイチャー」に論文を書き続けた熊楠ですが、1897年大英博物館で日本人への人種差別を受けたことにより暴力事件を起こし出入り禁止となります。</p>
<p>この年ロンドンに亡命中の<a href="https://rekishigaiden.com/sonbun/">孫文</a>と出会い親交を深めました。</p>
<p>1899年仕送りを止められた熊楠は、南ケンジントン博物館で日本書の題号翻訳の仕事を始めました。</p>
<p>そして「N&#038;Q」に初めての投稿の「神童」が掲載されました。</p>
<h3>帰国後の研究</h3>
<p>1900年10月熊楠は14年ぶりに日本へ帰国し和歌山の円珠院に住みました。</p>
<p>1901年孫文が和歌山に訪れ、旧交を温めています。</p>
<p>翌年熊楠は田辺を永住の地と決めました。</p>
<p>「ネイチャー」への論文を続けながら、シェイクスピアを読み、土宜法龍と手紙で「南方マンダラ」についてその思想を語りました。</p>
<p>そんな研究一辺倒だった熊楠も1906年松枝という女性と結婚しました。<br />
熊楠は40歳になっていました。</p>
<p>その後も読書と研究は続き、「ネイチャー」への論文の寄稿もしていました。</p>
<p>1911年から柳田國男との文通が始まり、1913年には彼が田辺に来て熊楠と面会しています。</p>
<p>1919年「大阪毎日新聞」に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載されました。</p>
<h3>天皇への進講と最期</h3>
<p>1926年にはイタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正の「菌図譜」の出版に際し、名誉委員に推薦されます。</p>
<p>その年熊楠は品種選定した粘菌標品37属90点を東宮（昭和天皇）に進献したのでした。</p>
<p>1929年紀南行幸の<span class="marker">昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講</span>しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">進講とは天皇の前で学問の講義をすることです。</div>
</div></div>
<p>そして粘菌標本を天皇に献上しました。<br />
献上した粘菌は110点にのぼるそうです。</p>
<p>翌年天皇行幸を記念し自詠自筆の記念碑を神島に建立しました。</p>
<p>この頃から熊楠の植物採集が減り始めていきます。</p>
<p>それでも1935年には神島で久邇宮多嘉王と妃・息子に講和しています。</p>
<p>1940年学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招待を受けましたが、歩行が不自由なため断っています。</p>
<p>そして1941年萎縮腎のために自宅で亡くなりました。<br />
満74歳でした。</p>
<h2>南方熊楠のエピソード・逸話</h2>
<h3>優れた語学力</h3>
<p>熊楠は語学に堪能で、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語は特に優れていた上に、ギリシア語とロシア語もある程度できたそうです。</p>
<p>しかし実際のところはわからず、英語に関しては話したり書いたりもできたことが証明されていますが、他の言語については「何ヶ国語も自由に操った」という伝説に過ぎないと言われています。</p>
<h3>父や弟がかりの生活</h3>
<p>生涯定職につかなかった熊楠は、父や弟の援助に頼りっぱなしでした。</p>
<p>そんな熊楠を嫌っていた弟は遺産相続の問題で衝突し絶縁状態となってしまいました。</p>
<p>それでも兄の危篤を電報で知るとすぐに駆けつけたのでした。<br />
臨終には間に合わなかったそうですが。</p>
<h3>大の猫好き</h3>
<p>熊楠は猫好きであったことが有名です。</p>
<p>後に妻となる松枝に会いにいく理由にも猫を利用していたようで、汚れた猫をわざわざ連れて行き、松枝に洗ってもらったと言います。</p>
<p>こう聞くと猫は松枝に会うための道具であったと思われるかもしれませんが、猫好きは本当でロンドンでは布団がわりに猫を抱いていたそうですよ。</p>
<h2>3行でわかる南方熊楠のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>生物学者としては粘菌の研究を行った</li>
<li>生活はほとんど全部親兄弟に頼っていた</li>
<li>天皇へ進講をした</li>
</ul>
</div>
<p>研究と読書の虫で一風変わった南方熊楠の生涯を見てきました。</p>
<p>生活は親兄弟に頼りっきりで好きな研究を続けられた熊楠という人はとても幸せな人だと思います。</p>
<p>その上天皇にまで講義をする栄誉まで経験できて、本当に運のいい人ですね。</p>
<p>南方熊楠のことは1990年から1991年に集英社の少年ジャンプに連載もされていましたから、それで彼を知っているという人もいるかもしれませんね。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>芥川龍之介ってどんな人？代表作やエピソードをまとめました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/akutagawa/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/akutagawa/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 16 Oct 2020 07:58:30 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[小説はほとんど読まないという人でも、芥川龍之介の名前は知っていると思います。 夏になれば、今年のこの本が芥川賞だ、直木賞だとやたらニュースが伝えています。 その芥川賞の元となったのが芥川龍之介です。 日本の小説界でそこま]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>小説はほとんど読まないという人でも、芥川龍之介の名前は知っていると思います。</p>
<p>夏になれば、今年のこの本が芥川賞だ、直木賞だとやたらニュースが伝えています。</p>
<p>その芥川賞の元となったのが芥川龍之介です。</p>
<p>日本の小説界でそこまで有名となった芥川龍之介はどのような生涯を送り、またどのような作品を残したのでしょうか。</p>
<p>この記事ではそんな芥川龍之介についてまとめてみました。</p>
<h2>芥川龍之介のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>生誕</th>
<td>1892年3月1日</td>
</tr>
<tr>
<th>生誕地</th>
<td>東京都京橋区入船町8丁目<br />
（現在の東京都中央区明石町）</td>
</tr>
<tr>
<th>名前</th>
<td>芥川龍之介<br />
号は澄江堂主人（ちょうこうどうしゅじん）<br />
俳号は我鬼</td>
</tr>
<tr>
<th>没年</th>
<td>1927年7月24日（35歳没）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>芥川龍之介は何をした人？</h2>
<h3>芥川家の養子へ</h3>
<p>芥川龍之介は牛乳製造販売業をしていた父・新原敏三と母・フクの間に長男として生まれました。</p>
<p>しかし龍之介が7ヶ月の頃、母のフクが精神に異常をきたしたため、母の実家の芥川家に預けられます。</p>
<p>それから叔母のフキに育てられたのですが、母のフクは龍之介が11歳の時に亡くなってしまいました。</p>
<p>そのため叔父の芥川通章の養子となり、そこから芥川の性を名乗るようになったのです。</p>
<p>芥川家は旧家の氏族で、江戸時代は代々徳川家に仕えた奥坊主の家柄でした。</p>
<div class="concept-box6">
<p>奥坊主とは城内の茶室を管理し、将軍や大名らに茶の接待をする役職の人です。</p>
</div>
<h3>成績優秀な龍之介</h3>
<p>龍之介は成績が優秀だったため、東京府立第三中学校を卒業の際に「多年成績優秀者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学しました。</p>
<p>その頃は中学の成績優秀者は無試験で高等学校に入学できたのです。</p>
<p>同期入学者には、久米正雄や菊池寛、井川恭（のちの後藤恭）などがいました。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>寄宿寮に入った龍之介は同室の井川と生涯の親友となります。</p>
<p>龍之介は3年間井川に成績で一度も勝てませんでしたが。</p>
<p>高等学校を卒業し、1913年龍之介は東京帝国大学文科大学英文科へ進学しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">このクラスは一学年に数人しか合格しない難関だったと言います。</div>
</div></div>
<h3>小説家へ</h3>
<p>1914年、高校の同期だった久米正雄や菊池寛と同人誌「新思潮」（第3次）を刊行しました。</p>
<p>龍之介は「柳川隆之助」の名前でアナトール・フランスの「バルタザアル」やイエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿し、処女小説<span class="marker">「老年」</span>を発表しています。</p>
<p>これが作家活動の始まりでした。</p>
<p>この頃龍之介は青山女学院の吉田弥生という女性と親しくなり結婚を考えるようになっていましたが、芥川家の猛反対によって断念しています。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>そして1915年10月<span class="marker">「羅生門」</span>を「芥川龍之介」の名前で帝國文学に発表したのでした。</p>
<p>作家「芥川龍之介」の誕生です。</p>
<p>1916年、第4次「新思潮」の創刊号に掲載した<span class="marker">「鼻」</span>が<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>に絶賛されています。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>東京帝国大学を20人中2番で卒業した龍之介は海軍機関学校英語教官の嘱託教官となり、その傍らで執筆を続け1917年5月には初の短編集「羅生門」を刊行し、その後も意欲的に短編作品を書き続け、11月には「煙草と悪魔」を発刊しました。</p>
<p>1919年海軍機関学校を辞め大阪毎日新聞社に入社し、創作に専念し子供にもわかりやすい<span class="marker">「蜘蛛の糸」を</span>書いています。</p>
<p>その年の3月には友人の山本喜誉司の姉の娘である塚本文と結婚しました。</p>
<p>1921年には中国へ行き北京で中華民国の学者であり思想家である胡適（こせき）と会い、検閲のことなどについて語り合い帰国後「上海遊記」などの紀行文を書いています。</p>
<h3>精神的な心の衰え</h3>
<p>この旅行後から龍之介は心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどになりました。</p>
<p>徐々に作品数が減っていきますが、私小説的な傾向の作品が現れ、これは晩年の「歯車」や<span class="marker">「河童」</span>などへと繋がっていくのでした。</p>
<p>1920年には長男・芥川比呂志が、1922年に次男・芥川多加志、1925年には三男の芥川也寸志が誕生しています。</p>
<p>1926年胃潰瘍や神経衰弱、不眠症が酷くなり湯河原で療養しました。</p>
<p>妻の文は弟の療養のため鵠沼（くげぬま）の実家の別荘に移住したので、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せました。</p>
<p>この間「家を借りてから」や「鵠沼雑記」、「点鬼簿」を書き終えています。</p>
<p>この鵠沼滞在の間に堀辰雄や斎藤茂吉、川端康成などの訪問を受けています。</p>
<h3>追い詰められた最期</h3>
<p>1927年、義兄の西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられ鉄道自殺してしまいました。</p>
<p>そのせいで龍之介は西川の残した借金や家族の面倒を見なければならない羽目に陥ったのです。</p>
<p>この頃物語の面白さを主張する谷崎潤一郎と対立し、龍之介は物語の面白さが小説を決めるものではないと反論し、話らしい話のない純粋な小説の名手として志賀直哉を推しています。</p>
<p>一方で龍之介の秘書を務めていた平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">精神的に病んでいた龍之介には、私生活のことや文壇でのことが重荷になったのでしょうか。</div>
</div></div>
<p>そしてその年7月24日未明に「続西方の人」を書き上げた後に、斎藤茂吉からもらっていた<span class="marker">睡眠薬を飲んで自殺しました。</span></p>
<p>享年36年の短い生涯でした。</p>
<h2>芥川龍之介のエピソード・逸話</h2>
<h3>龍之介の自殺</h3>
<p>芥川龍之介の自殺は話題となり、彼を崇拝する者たちが次々に後追い自殺を図るほどでした。</p>
<p>龍之介の自殺は致死量の睡眠薬による服毒自殺とされていますが、龍之介の主治医だった下島勲の日記などから<span class="marker">青酸カリによる服毒自殺だとも言われています。</span></p>
<p>妻の文は亡き夫に「お父さん、良かったですね」と言ったといいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">よほど龍之介が苦しんでいる姿を見ていたのでしょう。</p>
<p>妻も相当に辛かったでしょうけど気丈な女性だったことと、龍之介を愛していたことが伺われますね。</p></div>
</div></div>
<h3>龍之介の子供達</h3>
<p>芥川龍之介の子供達の名前は、菊池寛の「寛」から比呂志、小穴隆一の「隆」から多加志、後藤恭の「恭」から也寸志とつけたそうです。</p>
<p>比呂志は俳優となり、多加志は戦争で亡くなっています。</p>
<p>也寸志は作曲家となりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">戦死した多加志はもっとも文学志向が強かったと言いますから、生きていたら有名な作家に名を連ねていたかもしれませんね。</div>
</div></div>
<h3>夏目漱石との師弟愛</h3>
<p>芥川龍之介の実力を見だしてくれた<a href="https://rekishigaiden.com/natumesoseki/">夏目漱石</a>を師と呼び、終生尊敬し続けました。</p>
<p>漱石の葬儀の時も受付を務め弔問に来た<a href="https://rekishigaiden.com/moriougai/">森鴎外</a>の名刺をもらっています。</p>
<h3>大の風呂嫌い</h3>
<p>芥川龍之介は大の風呂嫌いで、滅多に風呂に入らなかったそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">湯河原に療養に行った時も入らなかったのでしょうか？</p>
<p>もったいない気がしますが。</p></div>
</div></div>
<h2>3行でわかる芥川龍之介のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>有名な小説家で「鼻」や「羅生門」を書き、童話としても「蜘蛛の糸」などを書いた。</li>
<li>成績優秀で執筆をしながら、有名大学を2番で卒業した。</li>
<li>心を病んで、最期は自殺をした。</li>
</ul>
</div>
<p>偉大な小説家　芥川龍之介の生涯を見てきました。</p>
<p>立派な成績でありながら、その傍らで見事な小説を書いた人でしたね。</p>
<p>晩年は苦労し、その心が疲弊してしまった悲しい最期でしたが、彼の残した小説は今も私たちを魅了してやみません。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>太宰治はどんな人？作品・死因・身長など波乱の生涯をまとめました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/dazai/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/dazai/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 12 Oct 2020 23:04:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[太宰治は、日本のプロレタリア文学に影響され、「斜陽」や「人間失格」などを書いた有名な作家です。 「走れメロス」を書いた人だと言えば、小学生のみなさんも知っている人は多いのではないでしょうか。 しかしその有名な作家人生の裏]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>太宰治は、日本のプロレタリア文学に影響され、「斜陽」や「人間失格」などを書いた有名な作家です。</p>
<p>「走れメロス」を書いた人だと言えば、小学生のみなさんも知っている人は多いのではないでしょうか。</p>
<p>しかしその有名な作家人生の裏では、薬物中毒や自殺未遂などを繰り返し、多くの女性と恋に落ちた人でした。</p>
<p>太宰治という1人の作家はいったいどのような人だったのでしょうか。</p>
<p>この記事では太宰治の生涯と生き様についてまとめてみました。</p>
<h2>太宰治のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>生誕：1909年6月19日</li>
<li>生誕地：青森県北津軽郡金木村（現在の五所川原市）</li>
<li>名前：津島 修治</li>
<li>死没：1948年3月13日（38歳没）</li>
</ul>
</div>
<h2>太宰治は何をした人？</h2>
<h3>裕福な家庭に育つ</h3>
<p>太宰治は県下有数の大地主だった父・津島源右衛門と母・たねの11人いる子供の中で10番目に生まれた六男でした。</p>
<p>父は県会議員や衆議院議員、貴族院議員などを務めた名士で、津島家は「金木の殿様」と呼ばれるほどでした。</p>
<p>しかし母親が体が弱かったため生まれてからは1年ほど乳母に、その後3歳から小学校入学までは叔母に育てられました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">幼い頃なのに父親も忙しい人でしたし、実の母親の愛をも知らずに育った修治少年だったのですね。</div>
</div></div>
<p>1923年に父が癌で亡くなると、修治は青森中学校に入学し実家を出て下宿生活を送りました。</p>
<p>その成績は優秀で卒業の時は148名中4番目だったそうです。</p>
<p>学生時代から<a href="https://rekishigaiden.com/akutagawa/">芥川龍之介</a>や、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読し、特に井伏鱒二の「幽門（山椒魚）」には興奮を覚えたほどでした。</p>
<p>そして小説家を志すようになり、「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌を発行したりもしました。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1927年には旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学し、ここでも下宿生活をします。</p>
<p>しかし夏休みに金木の実家に帰っているときに、芥川龍之介の自殺を知りショックを受けた彼は下宿に戻りしばらく引きこもってしまいました。</p>
<p>この頃青森の芸妓・小山初代と知り合っています。</p>
<p>ここから太宰の女性遍歴が始まるのです。</p>
<h3>乱れ始める生活</h3>
<p>翌年同人誌「細胞文芸」を発行し、プロレタリア文学の影響を受けた「無限奈落」という小説を辻島修二というペンネームで発表しましたが、家の反対を受け連載は1回で終わってしまいます。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1929年に「学生群」という小説を書き、改造社の懸賞小説に応募しましたが落選してしまい、鎮静睡眠作用のあるカルモチンという注射で初めての自殺を図りますが、未遂に終わっています。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1930年に東京帝国大学文学部仏文学科へ進みますが、講義についていけず美学科への転科を考えたりしていたところ、小説家になるべく井伏鱒二の弟子になることができました。</p>
<p>そして小山初代と結婚するといい、当然芸妓との結婚は家から反対され、大学卒業までは120円の仕送りはするが、家を除籍になり財産分与も与えられないはめになりました。</p>
<p>家を除籍になった10日後バーの女給の田部シメ子と鎌倉の海で再びカルモチン自殺を図り、シメ子だけ死に自分は生き残ってしまいました。</p>
<p>その後初代と仮祝言を挙げていますが、実際には入籍はしませんでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">他の女性と心中しようとしたのに、一緒になろうと考えた初代は心から修治に想いを寄せていたのでしょう。</div>
</div></div>
<h3>作家デビュー</h3>
<p>1933年「サンデー東奥」に太宰治として<span class="marker">「列車」</span>を発表しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">作家太宰治の誕生ですね。</div>
</div></div>
<p>しかしそれから<span class="marker">「逆行」</span>などを書きましたが、大学5年目になっており、実家からの仕送りが打ち切られることを案じ、都新聞社（現在の東京新聞）の入社試験を受けました。</p>
<p>しかし結果は不合格となり、鎌倉で3度目の自殺を図ります。</p>
<p>この時は首吊り自殺だったのですが、やはり未遂で済んでいます。</p>
<p>翌月太宰は腹膜炎の手術を受けましたが、この入院中に鎮痛薬として受けたパビナールの注射の依存症となってしまいました。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>第1回の芥川賞の候補に太宰の「逆行」が選ばれましたが、残念ながら落選しています。</p>
<p>第2回の芥川賞を前に、作家の佐藤春夫は太宰のパビナール依存のことを心配し、入院治療を受けさせましたが、その年の芥川賞の受賞作はありませんでした。</p>
<p>第3回の芥川賞を目指して意欲的に<span class="marker">「晩年」</span>などを刊行しますが、過去に賞の候補に上がったものは選考対象から除外するという規定が設けられたため、候補にすらなることができませんでした。</p>
<p>太宰はパビナールへの依存がひどくなり多い時には1日に50本を注射するほどで、知人に借金までしていました。</p>
<p>そんな折小山初代が不貞をしていたことがわかり、今度は初代と水上温泉でカルモチン自殺未遂を図りその後初代と離別しました。</p>
<h3>変わらぬ生活と最期</h3>
<p>太宰は1938年に石原美知子という女性と見合いをし、結婚を決めます。</p>
<p>この時井伏鱒二にこれまでの生活を反省し、家庭を守ることを約束していました。</p>
<p>結婚した太宰は<span class="marker">「女生徒」</span>や<span class="marker">「走れメロス」</span>などの優れた短編小説を次々に書きます。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1941年に身体検査で徴用を免れた太宰は、この年作家の太田静子に出会います。</p>
<p>彼女はまた太宰の愛人の1人となるのでした。</p>
<p>太宰は<span class="marker">「斜陽」</span>を書き上げます。</p>
<p>これには登場人物のモデルとして太田静子が登場しています。</p>
<p>「斜陽」の発刊と前後して太田静子は太宰の子供を産んでいます。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>終戦後疎開先の実家津島家から東京に戻ると、<span class="marker">「パンドラの匣」</span>を連載しました。</p>
<p>1947年に美容師の山崎富栄と出会っています。</p>
<p>この人も太宰の愛人になる人です。</p>
<p>新潮社の野原一夫は太宰が富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しましたが、富栄は平然と手当てをしていたのでした。</p>
<p>太宰は1948年には<span class="marker">「人間失格」</span>や<span class="marker">「桜桃」</span>などを書きました。</p>
<p>富栄は太宰の愛人兼秘書のような存在でした。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>太宰治は1948年6月13日玉川上水で愛人の山崎富栄と入水自殺をしました。</p>
<p>2人の遺体はくしくも太宰の39回目の誕生日に発見されたと言います。</p>
<p>この心中には色々な説があり、富栄による無理心中だったとか、狂言心中だったとか言われていました。</p>
<p>太宰は下駄を思い切り突っ張った跡があり、手をついて滑り落ちようとするのを止めようとした後もはっきりと残っていたそうです。</p>
<p>太宰にしたら、本気で死ぬつもりはなかったのかもしれませんし、途中で気が変わったのかもしれません。</p>
<p>しかし最後となった小説のタイトルは<span class="marker">「グッド・バイ」</span>でしたし、太宰は自身の体調不良のことや、一人息子がダウン症で知能に障害があったことなどを苦にしていたことなど自殺を考える理由はありました。</p>
<p>1998年太宰の50回忌を前に遺族が公開した遺書には、妻・美知子宛に「誰よりも愛していました」と書かれ、「小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」と自殺の動機をはっきりと示していました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">やはり覚悟の上の自殺だったのかもしれません。</div>
</div></div>
<h2>太宰治のエピソード・逸話</h2>
<h3>桜桃忌</h3>
<p>太宰治の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では太宰の遺体が見つかった6月19日に毎年多くの愛好家が訪れるそうです。</p>
<p>これを<span class="marker">「桜桃忌（おうとうき）」</span>と言います。</p>
<p>しかし実家のある金木では「生誕地には生誕を祝う祭りの方がふさわしい」という遺族の要望で1999年から「太宰治生誕祭」と改名されました。</p>
<h3>大柄な男性</h3>
<p>太宰治は<span class="marker">身長が175cmあり、大食漢でした。</span></p>
<p>湯豆腐が好きで豆腐やから何丁も買っていたそうです。</p>
<p>「豆腐は酒の毒を消す、味噌はタバコの毒を消す」というのが太宰の言い分でした。</p>
<h3>左翼運動</h3>
<p>太宰治が弘前高等学校に通う頃、左翼運動が高まりを見せており校長の公金無断横領が発覚するとストライキを起こすなど、<span class="marker">左翼活動に引き込まれていきました。</span></p>
<p>太宰自身はストライキにそれほど参加していなかったのですが、プロレタリア文学を真似て「学生群」という小説を書いたりしています。</p>
<h2>3行でわかる太宰治のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>小説家として活動し、「走れメロス」「人間失格」「斜陽」などの名作を残した。</li>
<li>数々の女性と深い関係にあった。</li>
<li>何度も自殺未遂を繰り返し、最期は愛人と入水自殺。</li>
</ul>
</div>
<p>優れた才能の持ち主なのに、女性にだらしなく、すぐに薬に頼るダメな人だと思われた方も多いでしょう。</p>
<p>しかし、それだけ太宰治の心が繊細であったことが伺われます。</p>
<p>せっかくの才能を39歳で終わらせてしまったのはとても残念なことですね。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
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		<title>与謝野晶子ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 15 Aug 2019 04:02:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[明治時代]]></category>
		<category><![CDATA[大正時代]]></category>
		<category><![CDATA[昭和時代]]></category>
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					<description><![CDATA[「君死にたまふことなかれ」という詩、一度は耳にしたことがあると思います。 同時に、その作者も思い浮かぶことでしょう。 そう、与謝野晶子ですね。 彼女は歌人としての姿が最も知られていますが、それ以外にも様々な場所で活動して]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「君死にたまふことなかれ」という詩、一度は耳にしたことがあると思います。</p>
<p>同時に、その作者も思い浮かぶことでしょう。<br />
そう、与謝野晶子ですね。</p>
<p>彼女は歌人としての姿が最も知られていますが、それ以外にも様々な場所で活動していた人物です。</p>
<p>では、具体的にはどんなことをしたのでしょうか？</p>
<p>エピソードや逸話を簡単にまとめてみました！</p>
<h2>与謝野晶子のプロフィール</h2>
<p>与謝野晶子（よさのあきこ）1878-1942。</p>
<p>明治から昭和にかけての歌人、作家、思想家。</p>
<p>実は晶子はペンネームで、戸籍上の本名は志よう（しょう）です。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
「晶」という字は、「しょう」という響きから来ているのですね。
</div>
</div></div>
<h2>与謝野晶子は何をした人？</h2>
<h3>作家・歌人としての業績</h3>
<p>幼い頃から兄の影響を受けて育った晶子は、『文学界』や紅葉などの小説を読むのが一番の楽しみでした。</p>
<p>そのこともあり、自身も創作活動に身を投じていくことになります。</p>
<p>20歳頃から和歌を投稿し始め、</p>
<ul>
<li>1900年委は後の夫・与謝野鉄幹が創立した機関紙『明星』に短歌を発表</li>
<li>翌年には東京に出て女性の官能をテーマとする処女歌集『みだれ髪』を刊行する</li>
</ul>
<p>など精力的に活動し、浪漫派歌人としてのスタイルを確立させます。</p>
<p>1904年、有名な<span class="marker">『君死にたまふことなかれ』</span>を『明星』で発表しました。</p>
<p>これは、日露戦争の旅順攻囲戦に従軍した弟への嘆きを詠っています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
なお、弟は結局旅順攻囲戦に参戦していない可能性が高いようです。
</div>
</div></div>
<p>また、与謝野晶子の代表的な著作物に<span class="marker">『新約源氏物語』</span>があります。</p>
<p>その名の通り、平安時代に<a href="https://rekishigaiden.com/murasakishikibu/">紫式部</a>が書いた『源氏物語』を現代語に訳したもので、1911年から1913年にかけて全4巻で出版されました。</p>
<p>これは「初めて行われた源氏物語の現代語訳」として完成当初から評判を呼び、谷崎潤一郎など他の源氏物語にも大きな影響を与えるなど、高い評価を受けました。</p>
<h3>思想家としての業績</h3>
<p>日露戦争後から、晶子は<span class="marker">評論活動を始めています。</span></p>
<p>内容は女性の自立論と政治評論に分類され、教育問題に言及することもありました。</p>
<p>女性の自立論については、女性は自分で自己鍛錬・自己修養し、人間陶治すべきだと説きました。</p>
<p>これは英米思想的な個人主義であり、1912年頃からイギリスやベルギーな様々な国を訪れ、影響を受けたことが関わっています。</p>
<div class="m50"></div>
<p>また、平塚らいてうの唱える母性中心主義に対して反論し、「夫人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張して、母性保護論争が起こりました。</p>
<p>最終的には、女性解放思想家である山本菊栄が「差別のない社会でしか婦人の開放はあり得ない」と社会主義の立場で論じ、論争は終結しました。</p>
<div class="m50"></div>
<p>政治評論については、反共産主義・反ソ連の立場に立ち、シベリア出兵への反対や米騒動後の寺内内閣の退陣の要求などの活動をしています。</p>
<p>女性教育に関しては、1919年に『中央公論』の中で「教育の国民化を望む」と書き、各府県市町村に民選の教育委員を設けることを提案しています。</p>
<p>他にもヨーロッパを参考に日本にも成人教育や社会教育の場を作るべきだとも提言しました。</p>
<p>1912年には文化学院を創設、<span class="marker">男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させました。</span></p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>与謝野晶子のエピソード・逸話</h2>
<h3>12人の子供を出産した</h3>
<p>与謝野晶子は、<span class="marker">生涯で12人もの子供を産む</span>ほど子だくさんでした。</p>
<p>うち1人は生後2日で亡くなっていますが、それでも11人の子どもを抱えるという当時としてはかなりの大家族です。</p>
<p>もちろんそれを支えるための収入が必要になるわけですが、夫の鉄幹は詩の売れ行きが悪くなる一方であり、大学教授になるまで収入が全く当てにならなかったため、晶子も来る仕事はすべて引き受け、時には歌集の原稿料を前払いしてもらっていたこともありました。</p>
<p>そんな多忙な間にも即興短歌の会を開き5万首以上もの歌を残すなど歌人としても積極的に活動し、評論活動や『源氏物語』の現代語訳にも取り組むといった、多くの業績を残しています。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
母は強しと言いますが、11人の子どもを抱えながらここまで精力的に動ける人はなかなかいないのではないでしょうか(笑)
</div>
</div></div>
<h3>双子の命名を森鴎外に頼んだ</h3>
<p>晶子は明治・対象の著名な小説家である<a href="https://rekishigaiden.com/moriougai/">森鴎外</a>と深い交流があり、源氏物語の翻訳時にもよく手伝ってもらっていました。</p>
<p>1907年に晶子は女の双子を生みますが、その命名を森鴎外に頼みます。</p>
<p>その名前は、八峰（やつお）と七瀬（ななせ）。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" decoding="async" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
小説家らしく、センスの感じられる名前ですよね。
</div>
</div></div>
<p>さらに鴎外は、二人の名前を入れた歌を後に晶子に贈りました。</p>
<p>「聟（むこ）きませ一人は山の八峰こえ一人は川の七瀬わたりて」</p>
<p>娘たちの名前が入った歌を作ってもらえたことは、晶子にとっても大変うれしいことだったのではないでしょうか。</p>
<h2>3行でわかる与謝野晶子のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>幼いころから文学を好み、夫の与謝野鉄幹と出会って以降は世に詩を発表しその名を知らしめた</li>
<li>思想家としての一面もあり、男女平等に対する考えは特に強かった</li>
<li>子供を12人出産しており生活は大変だったが、その中でも精力的に様々な活動を続けていた</li>
</ul>
</div>
<p>与謝野晶子と言えば「君死にたまふことなかれ」が最も有名ですが、それ以外にも様々な場所で活動をしていました。</p>
<p>作家として、歌人として、思想家として、当時の女性としては珍しいほど多くの側面を持っていた彼女は、そのどれもで足跡を残し、後世に影響を及ぼしています。</p>
<p>子どもを産んだ後も休むことなくさらに活動の幅を広げていることからも、生来動いていないと気が休まらない人だったのかもしれませんね。</p>
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