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	<title>海外の偉人｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>ガンジーは何した人？どんな人？その生涯をまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 01 Nov 2020 06:21:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[海外の偉人]]></category>
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					<description><![CDATA[「インド独立の父」と呼ばれているガンジー。 イギリスの植民地化にあったインドをなんとか独立させようと頑張った人です。 しかし独立運動とともに、宗教面でもヒンズー教とイスラム教が対立していた時代でもありました。 この記事で]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「インド独立の父」と呼ばれているガンジー。</p>
<p>イギリスの植民地化にあったインドをなんとか独立させようと頑張った人です。</p>
<p>しかし独立運動とともに、宗教面でもヒンズー教とイスラム教が対立していた時代でもありました。</p>
<p>この記事ではガンジーの生涯を暗殺という最期を遂げるところまでみていきましょう。</p>
<h2>ガンジーのプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>生誕</th>
<td>1869年10月2日</td>
</tr>
<tr>
<th>生誕地</th>
<td>イギリス領インド帝国グジャラート州ポールバンダル</td>
</tr>
<tr>
<th>名前</th>
<td>モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー<br />
通称：マハトマ・ガンディー</td>
</tr>
<tr>
<th>没年</th>
<td>1948年1月30日（78歳没）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>彼の名前に関しては、現在現地の発音に近づけるためにガンディーと呼ぶようになっていますが、本記事ではみなさんの聞き慣れたガンジーで進めて行きます。</p>
<h2>ガンジーは何をした人？</h2>
<h3>素行の悪い子供時代</h3>
<p>ガンジーはポールバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガーンディーとその夫人プタリーバーイの間に生まれました。</p>
<p>ガンジーはポールバンダルの小学校に入学しましたが、その後ラージコートの小学校に入り直しています。</p>
<p>どうも成績が悪く、素行も悪かったようです。</p>
<p>ヒンドゥー教で禁止されている肉食を繰り返し、タバコも吸っており、そのタバコ代を工面するために、召使のお金を盗んだこともあったと言います。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">かなりやんちゃな子供だったようですね。</div>
</div></div>
<p>その後12歳でアルフレッドハイスクールに入学し、13歳で生涯の妻となるカストゥルパと結婚しました。</p>
<p>早いと思われるかもしれませんが、インドでは若い頃の結婚が普通だったようです。</p>
<p>18歳になると宗主国であるイギリスの首都ロンドンへ行き、インナー・テンプル法曹院に入学し、法廷弁護士になるための勉強をしました。</p>
<p>猛勉強の結果1891年に弁護士資格に合格しました。</p>
<h3>南アフリカへ</h3>
<p>インドへ戻ったガンジーでしたが、インドでの弁護士業はうまく行きませんでした。</p>
<p>兄の勧めもあり、ガンジーはイギリス領南アフリカ連邦（現在の南アフリカ共和国）で弁護士をすることになりました。</p>
<p>しかし白人優位の人種差別を受け、列車の中で紳士的に振舞っていたのに人夫扱いをされました。</p>
<p>南アフリカでガンジーはヒンドゥー教やインド哲学の学びを深め、精神的な柱として崇めるようになっていきました。</p>
<p>また1880年代以降ロシアの小説家トルストイの影響を受けていたとも言われています。</p>
<p>新約聖書の山上の垂訓などにも触れ、「非所有」の生涯を決意しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">これはのちの非暴力運動思想の元となりました。</div>
</div></div>
<p>1913年原住民土地法が制定されるなど人権差別のもとでインド系移民の権利回復活動に参加し、自由と平等を求めトランスバールでデモを行います。</p>
<p>このデモでガンジーは逮捕されてしまいました。</p>
<p>しかしデモの更新は5000人を超え、マスコミや白人の中でもガンジーを支援する人々が現れました。</p>
<p>その成果が実り1914年ガンジーらは勝利したのでした。</p>
<h3>インドへ帰国</h3>
<p>1915年インドに帰国したガンジーは、南アフリカでの功績を知っていた人たちに歓迎されました。</p>
<p>そして<span class="marker">「インド独立運動」</span>に加わり、不服従運動で世界に知られるようになります。</p>
<p>またイギリス製品を着用せず、インドの綿製品を着用するなど、不買運動を行いました。</p>
<p>このような運動のためにガンジーは度々投獄されました。</p>
<p>1922年には6年間の懲役刑の判決を受けています。</p>
<h3>不服従運動</h3>
<p>第一次不服従運動はインドの民衆が警察署を襲撃し、20人ほどの警官を焼死させてしまい中止となりました。</p>
<p>1930年不服従運動が再開されました。</p>
<p>その中でも<span class="marker">「塩の行進」</span>が有名です。</p>
<p>「塩の行進」とはイギリスの塩税に抗議したものでガンジーをはじめとして、彼の支持者がグジャラート州からダーンディー海岸までの約387キロメートルを行進した抗議行動のこと言います。</p>
<p>ガンジーは不暴力運動にこだわり、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対しても反撃せず、逃げもしないという態度で真の強さと忍耐を見せました。</p>
<h3>第二次世界大戦と独立</h3>
<p>1941年に第二次世界大戦が始まると、日本は東南アジア一帯のイギリスの植民地からイギリス軍やオーストラリア軍を駆逐しました。</p>
<p>日本軍に乗じて、インドも独立のために戦いましたが、ガンジーは一切関わりませんでした。</p>
<p>やがて終戦を迎え戦勝国となったイギリスですが、インドを統治する力は残っていませんでした。</p>
<p>それでもイギリスはインド国民軍を反逆罪として裁判にかけようとしたので、ガンジーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と<span class="marker">独立運動を起こした</span>のです。</p>
<p>この運動をきっかけに独立運動はインド全体に広がり、イギリスはこれに耐えられなくなり独立を認めることとなりました。</p>
<p>1947年8月15日デリーの赤い城で、ジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数地域の独立を宣言し、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立しました。</p>
<p>ガンジーが望んでいたヒンドゥー教とイスラム教が融合したインドとはならず、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となってしまいました。</p>
<h3>暗殺</h3>
<p>インドとパキスタンはその宗教観により暴動が起きていました。</p>
<p>ガンジーは何度も断食をし、身を挺してこれを防ごうとしましたが自体は好転しませんでした。</p>
<p>第一次インドパキスタン戦争が起こっても、ガンジーは融和を目指し敵であるパキスタンに協調しようとしました。</p>
<p>そのため「ムスリムに対して譲歩しすぎる」とヒンドゥー教徒たちから敵対視され始めました。</p>
<p>そしてその中の人々によりガンジーは暗殺されることになったのです。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1948年1月30日礼拝に向かうガンジーは群衆とともに人に支えてもらいながらビルラー邸の中庭を歩いていました。</p>
<p>そこへ1人の若者が現れ、ガンジーを支えていた人を押しのけ3発の銃弾をガンジーめがけて撃ちこんだのでした。</p>
<p>ガンジーは「へーラーム（おお神よ）」と繰り返してその場に倒れ込み、大量の血に染まっていきました。</p>
<p>すぐに病院に担ぎ込まれましたが、胸腹部を打たれていたガンジーは帰らぬ人となったのでした。<br />
78歳でした。</p>
<p>ガンジーを撃った若者は、ナートゥーラーム・ゴードセーで、ヒンドゥー教徒を犠牲にしてもムスリムに譲歩するガンジーは「イスラム教徒の肩を持つ裏切り者」との理由で暗殺を企てたのでした。</p>
<p>ゴードセーは現行犯で取り押さえられ、後に共謀者として拳銃を調達したナラヤーン・アプテ他数名も逮捕され、ゴードセーとアプテは死刑となりました。</p>
<h2>ガンジーのエピソード・逸話</h2>
<h3>ガンジーの残した資産</h3>
<p>ガンジーは「非所有」の精神を貫いていましたから、彼の死後金融資産も不動産も全く持っていませんでした。</p>
<p>ただ、インド綿の衣と草履、眼鏡と入れ歯、竹の杖、糸車などほんの身の回りのものだけでした。</p>
<p>あとは懐中時計と、食事の乳を絞るためのヤギを一頭と、鉛筆、変わったところでは携帯用便器がありました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">携帯用便器はインドを衛生的な国にしようと持ち歩いていたのものでした。</div>
</div></div>
<h3>ガンジーの葬列</h3>
<p>ガンジーの葬儀には多くの人が集まりました。</p>
<p>遺体には赤と白の布が置かれ棺の上にインドの国旗がかけられていました。</p>
<p>棺は兵士たちが麻縄を引いて火葬場へ向かったと言います。</p>
<p>空からインド空軍がバラをまき、道は多くの民衆が敷き詰めた花々で埋め尽くされていました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">いかに多くの人に愛され、慕われていたかがわかりますね。</div>
</div></div>
<h3>ガンジーはノーベル平和賞候補だった</h3>
<p>ガンジーはこれまで<span class="marker">ノーベル平和賞に5回ノミネートされています。</span></p>
<p>しかし、一度も受賞することができませんでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">争いを拒み、平和を愛していたガンジーがなぜ受賞できなかったのでしょうか。</div>
</div></div>
<p>その代わりというわけではないのかもしれませんが、2007年6月にガンジーの誕生日10月12日が「国債非暴力デー」と定められました。</p>
<h2>3行でわかるガンジーのまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>イギリスの植民地化にあったインドをなんとか独立させようと頑張った</li>
<li>弁護士であり、宗教家であり、政治指導者</li>
<li>争いを好まない平和主義だった</li>
</ul>
</div>
<p>インドの独立のために一生を捧げたガンジーの生涯を見てきました。</p>
<p>独立といえばまず戦争をイメージしますが、ガンジーは決して争いをしませんでした。</p>
<p>そんな彼が感情をコントロールできない若者によって命を奪われたことは、とても残念で悲しいことです。</p>
<p>インドのために無欲で生きたガンジーの姿勢はまさにノーベル平和賞以上の価値があると思いませんか。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
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		<title>孫文は何をした人？どんな人？その生涯をまとめてみました</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 27 Oct 2020 00:13:54 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[海外の偉人]]></category>
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					<description><![CDATA[中国で革命の父と呼ばれている孫文。 孫文は日本ともとても親交の厚かった人です。 そんな孫文はどのような人だったのでしょうか。 その生涯についてみていきましょう。 孫文のプロフィール 生誕 1866年11月12日 生誕地 ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>中国で革命の父と呼ばれている孫文。</p>
<p>孫文は日本ともとても親交の厚かった人です。</p>
<p>そんな孫文はどのような人だったのでしょうか。</p>
<p>その生涯についてみていきましょう。</p>
<h2>孫文のプロフィール</h2>
<table class="cps-table03">
<tbody>
<tr>
<th>生誕</th>
<td>1866年11月12日</td>
</tr>
<tr>
<th>生誕地</th>
<td>清広東省広州府香山県翠亭村（現在の中山市）</td>
</tr>
<tr>
<th>名前</th>
<td>孫文（そんぶん）<br />
字：逸仙<br />
号：中山</td>
</tr>
<tr>
<th>没年</th>
<td>1925年3月12日（58歳没）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h2>孫文は何をした人？</h2>
<h3>ハワイで西洋思想を学ぶ</h3>
<p>孫文は農家の村道川を父に、陽氏を母に生まれました。</p>
<p>9歳で父を亡くした孫文は、1878年兄のいるハワイに移住しました。</p>
<p>同地のイオラニ・スクールを卒業し、プナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めます。</p>
<p>しかしキリスト教に傾倒する孫文を心配した兄や母に1883年中国へと戻されました。</p>
<p>実はこの時すでに孫文はクリスチャンになっていました。</p>
<h3>革命思想</h3>
<p>中国に戻った孫文は、イギリスの植民地下にあった香港の香港西医書院（香港大學の前身）で医学を学びながら、徐々に革命思想を抱くようになります。</p>
<p>孫文はポルトガルの植民地のマカオで医師として開業しました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">ただの革命家ではなく、医師でもあったのですね。</div>
</div></div>
<p>清仏戦争の頃から政治問題に興味を抱き、1894年ハワイで清朝を倒すための興中会を立ち上げます。</p>
<p>日清戦争の終結後に広州蜂起を企てましたが、密告によって計画は頓挫してしまい、孫文は日本に亡命することとなりました。</p>
<p>1897年に<a href="https://rekishigaiden.com/inukaituyosi/">犬養毅</a>の斡旋で早稲田に大きな屋敷を持ち、平岡浩太郎から生活費や活動費を援助してもらいました。</p>
<p>1899年義和団の乱が起き、翌年孫文は恵州で再度挙兵しましたが、これも失敗に終わりました。</p>
<p>その後アメリカを経てイギリスに渡り、<span class="marker">一時清国の公使館に拘束されたことを「倫敦被難記」として発表し、世界的に革命家として有名になった</span>のでした。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>長い間満州民族の植民地化にあった漢民族の孫文は、独立したいと願っていました。</p>
<p>日本に戻った孫文は、東京で興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成しました。</p>
<p>ここで東京に留学中の蒋介石と出会っています。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1911年に清で辛亥革命が起き、当時アメリカにいた孫文が1912年に帰国すると<span class="marker">革命派は孫文を臨時大総統とする中華民国を南京に作りました。</span></p>
<p>しかし孫文の力は弱くその地位を清朝での実力者だった袁世凱に譲ることになります。</p>
<p>袁世凱は孫文らの勢力を追い詰め、孫文は再び革命を起こしますが破れて日本に亡命します。</p>
<p>孫文は亡命中に「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と犬養毅に手紙を送っています。</p>
<p>第一次世界大戦後の1919年パリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲渡されたことで、中国全土で「抗日愛国運動」が起こりました。<br />
<span class="marker">五・四運動</span>です。</p>
<p>この抗日愛国運動は孫文にも影響を与え、近代的な革命政党へと脱皮することを決断したのです。</p>
<p>実際にロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍に当たる国民革命軍と軍官学校を設立しています。</p>
<div class="jin-yohaku30"></div>
<p>1923年孫文はソビエト連邦代表のアドリフ・ヨッフェとの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」を上海で発表し、中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を約束した上で、ソ連との連携を明らかにしました。</p>
<p>広東で孫文は大元帥に就任しました。</p>
<p>しかしこれは、蒋介石らからの反発が強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起こることとなるのでした。</p>
<p>1924年孫文は神戸で「大アジア主義公演」を行い、欧米の帝国主義に対し、東洋の王道・平和の思想を説き日本の友好を訴えました。</p>
<h3>ガンでの死去</h3>
<p>この頃から孫文は肝臓ガンに侵されており、1925年「革命なお未だ成功せず、同志よって須らく努力すべし」との遺言を記して、療養先の北京で客死し、南京に葬られました。</p>
<p>その墓は巨大で中山陵（ちゅうざんりょう）と呼ばれています。</p>
<h2>孫文のエピソード・逸話</h2>
<h3>恋多き人物だった</h3>
<p>孫文は1885年盧慕貞（ろぼてい）という女性と結婚し3人の子供をもうけていますが1915年に離婚しています。</p>
<p>その年に後妻として宋慶齢（そうけいれい）と東京で結婚しています。</p>
<p>日本人にも妻や妾がいました。</p>
<p>1897年に横浜で浅田春という女性と知り合い妾とします。</p>
<p>1904年には大月薫という日本人妻を持ちましたがわずか2年で離婚しています。</p>
<p>大月薫との間にも1人子供が生まれています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">なんと女好きな、いえ恋多き人物だったのでしょう。</p>
<p>東京で大月薫を妻とした時、中国には妻がいたのですから重婚ですよね。</p>
<p>当時は許されていたのでしょうか？</p></div>
</div></div>
<h3>性格は短気？</h3>
<p>孫文は短気ですぐに激昂する人だったと言われています。</p>
<p>しかし一方では人の良い一面もあり、辛亥革命で臨時大統領になったのも束の間で、袁世凱に乗っ取られてしまうような人に対しての見方が甘い部分もあったようです。</p>
<h3>明治維新が孫文の思想に影響していた</h3>
<p>孫文は1923年に「日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つにつながって東亜の復興を達成する」と発言しています。</p>
<p>孫文はこのように明治維新に共感していたのです。</p>
<p>しかし残念なことに、日本による対華二十一か条要求は「維新の志士の抱負」を忘れ中国への振興政策を進めるものでした。</p>
<h3>日本との親交</h3>
<p>孫文は日本ととても幅広い交友関係を築いていました。</p>
<p>辛亥革命を支えた<a href="https://rekishigaiden.com/inukaituyosi/">犬養毅</a>や宮崎滔天（とうてん）などとは思想の上でも通じ合い、松方幸次郎や安川敬一郎など実業家からは資金の援助も受けています。</p>
<p>また<a href="https://rekishigaiden.com/kumasugu/">南方熊楠（みなかたくまぐす）</a>とはロンドンで知り合い以降も親交を深めたと言います。</p>
<p>孫文の孫の自伝「建国方略」の中には、孫文を支えた犬養毅をはじめとした日本人の名前を列挙し深く感謝の意を述べています。</p>
<h2>3行でわかる孫文のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>革命の父として清国から中華民国へと導いた</li>
<li>日本との親交が厚かった</li>
<li>志半ばでの死去</li>
</ul>
</div>
<p>革命家として名前をはせた孫文の生涯を見てきました。</p>
<p>彼の死後、柱となる人物をなくし国民党は混迷し、孫文の片腕と言われた廖仲愷（りょうちゅうがい）は暗殺されました。</p>
<p>孫文の妻の宋慶齢も国民党を去り、その後は蒋介石が指揮をとり北京政府を倒すことになったのです。</p>
<p>孫文の残した革命を蒋介石がやり遂げたのですね。</p>
<p>これで孫文もきっと安らかに眠ることができたことでしょう。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>ペリーってどんな人？何しに日本へ？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/perry/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 04 Jul 2019 01:19:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<category><![CDATA[海外の偉人]]></category>
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					<description><![CDATA[ペリーと言えば、江戸時代に鎖国をしていた日本にやってきて、日本を開国させた人ですね。 歴史の授業ではこう習うと思いますが、ペリーがいつ生まれたとか、アメリカではどういうことをしていたのかということは、習いませんよね。 ま]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>ペリーと言えば、江戸時代に鎖国をしていた日本にやってきて、日本を開国させた人ですね。</p>
<p>歴史の授業ではこう習うと思いますが、ペリーがいつ生まれたとか、アメリカではどういうことをしていたのかということは、習いませんよね。</p>
<p>また日本に開国を迫ったことは知っているけど、そもそも何で開国してほしかったのかは知らない人も多いでしょう。</p>
<p>この記事では<span class="marker">ペリーがどういう人物で、どうして日本にやって来たか</span>を簡単にご紹介します。</p>
<h2>ペリーのプロフィール</h2>
<p>1794年4月10日、ペリーはアメリカのロードアイランド州ニューポートで生まれました。</p>
<p>本名は「マシュー・カルブレイス・ペリー」です。</p>
<div class="simple-box1">
<p>■1809年<br />
14歳9か月という若さで士官候補生として、アメリカ海軍に入隊します。<br />
士官候補生ということは、日本の刑事ドラマでよく聞かれる「キャリア組」のようなものですから、ペリーは子供の頃から優秀だったことがわかります。</p>
<p>■1833年<br />
ブルックリン海軍工廠の造船所長に就任。</p>
<p>■1837年<br />
海軍大佐に昇進。</p>
<p>■1840年<br />
ブルックリン海軍工廠司令官に就任。代将になります。<br />
このようにペリーは順調にキャリアを重ねていきました。<br />
ペリーは蒸気船を主力にすることを目指し、アメリカ初の蒸気軍艦を建造します。<br />
このため「蒸気船海軍の父」と呼ばれました。<br />
また海軍教育の先駆者でもあります。</p>
<p>■1852年<br />
東インド艦隊司令長官に就任。<br />
日本に開国を求める大統領の親書を手渡す指令を受けます。</p>
<p>■同年11月24日<br />
日本に向けて出港。</p>
<p>■1853年6月3日<br />
日本・浦賀に入港。</p>
<p>■1854年1月16日<br />
横浜に2度目の来航。<br />
この1か月後に日本に開国を合意させました。</p>
<p>■同年3月3日<br />
<span class="marker">日米和親条約締結</span>。</p>
<p>■1858年3月4日<br />
ニューヨークで死去。享年63歳。</p>
</div>
<h2>ペリーは何をした人？</h2>
<h3>なぜ開国してほしかった？</h3>
<p>ではそもそもなぜアメリカは日本に開国を迫ったのでしょうか？</p>
<p>それには2つの理由がありました。</p>
<p>1つは<span class="marker">中国への進出のため</span>です。</p>
<p>当時世界では、中国大陸やアジアでの植民地競争が加速していました。</p>
<p>アメリカもこの競争に乗り出していましたが、ヨーロッパ諸国に比べてアジア諸国までの距離が圧倒的に遠かったのです。</p>
<p>一度も寄港することなく、中国大陸に到達するのは危険を伴います。</p>
<p>そこで、途中で燃料や食料を補給するために日本を拠点にしたかったのです。</p>
<div class="m50"></div>
<p>2つ目は<span class="marker">捕鯨のため</span>です。</p>
<p>当時のアメリカではランプの油や機械の潤滑油として、鯨油を大量に使っていました。</p>
<p>日本海近海には鯨油の原料となる、マッコウクジラが多く生息していました。</p>
<p>仮に捕鯨船が日本に漂着した場合、国交がないと不便なので、日本と国交を結んでおきたいと考えたのです。</p>
<p>このような理由でアメリカは日本に開国を要求しました。</p>
<h3>開国までの流れ</h3>
<p>ペリー来航で日本では大変な騒ぎになりました。</p>
<p>幕府はペリーが持ってきた親書を受け取るものの、将軍<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaieyoshi/">徳川家慶</a>の病気を口実にすぐに返事はできないと1年の猶予を求めました。</p>
<p>これにアメリカ側も同意し、ペリーは一度日本を離れます。</p>
<p>しかしペリーが日本を離れてすぐに将軍家慶が亡くなったことと、ロシアのプチャーチンが日本と交渉していることを知ったため、一度目の来航からわずか半年でペリーは再び来航します。</p>
<p>予定外のペリー来航に幕府は動揺しました。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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このとき江戸湾には合計9隻もの艦隊が集結したと言いますから、幕府はあせったことでしょう。
</div>
</div></div>
<p>アメリカは早期の条約締結を求め、幕府は対応に苦慮しました。</p>
<p>1か月の協議の末、当時の老中・<a href="https://rekishigaiden.com/abemasahiro/">阿部正弘</a>はついにアメリカの開国要求に応じることを決定しました。</p>
<p>そして1854年3月3日、日米和親条約が締結され、3代<a href="https://rekishigaiden.com/tokugawaiemitsu/">徳川家光</a>から200年以上続いた鎖国が終わりを迎えたのです。</p>
<h3>日米和親条約とは？</h3>
<p>では日米和親条約とはどのような内容だったかを見ていきましょう。</p>
<p>日米和親条約は全12カ条からなりますが、ここではそのうち4つをご紹介します。</p>
<div class="simple-box5">
<ol>
<li>アメリカ船が必要とする燃料や食料を供給すること</li>
<li>難破船や乗組員を救助すること</li>
<li>下田・函館の2港を開いて領事の駐在を認めること</li>
<li>アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること</li>
</ol>
</div>
<p>①～③の内容は理解できると思います。</p>
<p>では④の<span class="marker">最恵国待遇</span>とはどういうことでしょうか？</p>
<p>最恵国待遇とは、今後日本がアメリカ以外の他の国と条約を結んだ時、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を他国に認めた場合は、アメリカにも自動的にその条件が認められるというものです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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たとえば、アメリカ以外の国に下田・函館の他にも港を開くことを認めたら、アメリカにもその港を開いてね、ということです。
</div>
</div></div>
<p>④は特にそうですが、この条約はアメリカに一方的に有利なものでした。</p>
<p>じゃあ何で幕府は条約締結に合意したの？と思いますよね。</p>
<p>それはペリーが乗って来た蒸気船、有名な黒船を見て幕府は、これは敵わないと悟ったからです。</p>
<p>その頃の日本の船は動力もない木造船でしたから、技術力の違いは一目瞭然でした。</p>
<p>この後、幕府は外国からの脅威と国内諸藩からの圧力により、次第に統治力を失っていき、激動の幕末から明治へと時代は移り変わっていくのです。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>ペリーのエピソード・逸話</h2>
<h3>兄は英雄だったがペリーは無名</h3>
<p>ペリーは3人兄弟の末っ子で、3人とも海軍士官になっています。</p>
<p>特に次男のオリバーは1813年、米英戦争中のエリー湖の戦いで、イギリス艦隊を沈めることなくすべて拿捕する手柄をたて、エリー湖の英雄と呼ばれています。</p>
<p>マシュー・ペリーはそんなオリバーに憧れていたといいます。</p>
<p>ところが、エリー湖の戦いの6年後、オリバーは34歳で病死してしまいます。</p>
<p>オリバーの死により彼は伝説となり、アメリカの教科書にも掲載されるようになります。</p>
<p>一方の弟・マシュー・ペリーは日本開国の手柄を持って意気揚々と母国に帰ったのですが、帰国したアメリカは南北戦争の最中で、日本との貿易どころではなくなっていました。</p>
<p>苦労して成し遂げた日本開国だったのに、<span class="marker">ペリーの功績は見向きもされなかった</span>のです。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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<div class="balloon-content">
不運だったとしか言いようがありませんね。
</div>
</div></div>
<h3>家族思いの人情家</h3>
<p>ペリーは身体が大きく身長は約195cmもあったといいます。</p>
<p>身体は大きいですが、彼は<span class="marker">とても家族思いな人だった</span>ようです。</p>
<p>20歳で結婚してから浮気一つせず、子供たちには兄弟げんかをしないように戒める手紙を送っています。</p>
<p>また普段は無口なのに、命令や挨拶の時だけ野太い声で怒鳴るので、部下たちから「熊おやじ」の愛称で呼ばれていました。</p>
<p>仕事には厳しく、口うるさかったようですが、人事には繊細に気を使い、温情措置をとることが多かったそうです。</p>
<h2>4行でわかるペリーのまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>鎖国していた日本に開国を迫った</li>
<li>日本に日米和親条約を締結させた</li>
<li>実はアメリカでは無名</li>
<li>見た目によらず、人情家</li>
</ul>
</div>
<p>ペリーは母国アメリカでは不運が重なってその栄光を知られることはありませんでしたが、間違いなく日本の歴史を変えた人物です。</p>
<p>急に日本にやってきて、開国を迫って来た怖い外人、のようなイメージがあったかもしれませんが、実は家族思いの一面もあったようで、少し身近に感じましたね。</p>
<p>歴史の流れの中のペリー、ではなく、一人の人間としてのペリーを感じ取っていただければ幸いです。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
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		<title>アインシュタインは何した人？わかりやすく簡単にまとめました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/einstein/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 18 Jun 2019 04:41:05 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[海外の偉人]]></category>
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					<description><![CDATA[「天才といえば？」と聞かれるとたくさんの人が答えるアインシュタイン。 じゃあ、「何をした人？」「どんなすごい人なの？」と聞かれたら、意外と答えられない人が多いんじゃないでしょうか？ そこで、どんな偉大な人なのか、アインシ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>「天才といえば？」と聞かれるとたくさんの人が答えるアインシュタイン。</p>
<p>じゃあ、「何をした人？」「どんなすごい人なの？」と聞かれたら、意外と答えられない人が多いんじゃないでしょうか？</p>
<p>そこで、どんな偉大な人なのか、<span class="marker">アインシュタインの経歴や偉業</span>をわかりやすくまとめてみました。</p>
<h2>アインシュタインのプロフィールと簡単な経歴</h2>
<p>20世紀最大の物理学者・現代物理学の父と呼ばれ、当時の物理学の認識を根本から覆した偉人としても知られています。</p>
<p>そんなアインシュタインですが、小さいころは言葉もよく話せず、両親が頭が悪いんじゃないかと心配したようですが、幼少期より自然界の法則に興味をもち、数学も独学で習得していき、天才の片鱗をうかがわせていました。</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>1879年3月14日、ドイツ南西部に、アシュケーナ系ユダヤ人として生まれる。</li>
<li>スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学で物理学・数学を学び、1902年スイスの特許庁に就職。その後、1912年、母校チューリッヒ連邦工科大学教授に就任。</li>
<li>1922年、「光電効果」という光の特性についてのノーベル物理学賞受賞。</li>
<li>1932年、ドイツ・ヒトラー政権のもとユダヤ人迫害から逃れるためアメリカへ移住、国籍取得。</li>
<li>1935年、プリンストン高等学術研究所の教授として「量子力学と相対性理論の矛盾について」発表。</li>
<li>第二次世界大戦（1939年～1945年）後、核兵器根絶のため平和活動に尽力。</li>
<li>私生活では、1903年結婚、長男・次男を授かるが、1919年離婚。その後、再婚している。</li>
<li>1955年4月18日、腹部大動脈瘤破裂にて死去（享年77才）。</li>
</ul>
</div>
<h2>いったいアインシュタインは何した人なの？</h2>
<p>アインシュタインは<span class="marker">物理学者で、ノーベル物理学賞を受賞</span>したすごい人です。</p>
<p>生涯数々の理論を発表していますが、その中でも有名なものは、<span class="marker">「相対性理論」</span>。</p>
<div class="concept-box6">
<p>【相対性理論とは？】</p>
<p>現在では物理学の常識にもなっているもので、「光の速さは不変である」という原則とそれに対して物理法則がきまるという理論。</p>
<p>1905年に発表した「特殊相対性理論」と1916年に発表した「一般相対性理論」があります。</p>
<p>相対性理論では光と重力の関係が相対的な現象となることを意味していて、極々簡単に言うと、</p>
<p>特殊相対性理論は時間の長さは人それぞれ異なり、光速に近づくほど時間は遅く・短く・重くなるという光についての謎を、一般相対性理論は特殊相対性理論に重力を付け加えたもので、重いもの周りでは時間が遅く・空間がゆがむという重力について謎を解き明かした理論です。</p>
</div>
<p>相対性理論、難しいですね……。</p>
<p>でもみんなが知っている、現在私たちの身近に、この理論が応用されているものがあります。</p>
<p>例えば、GPSです。</p>
<p>GPSは人工衛星から電波を受信していますが、この理論の複雑な計算式を利用して精度の高い位置情報を私たちに届けてくれています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
いま現在GPSがあるのはアインシュタインのおかげと言っても過言ではないかもしれません。
</div>
</div></div>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>もっと身近に！アインシュタインのエピソード・逸話</h2>
<p>アインシュタインはとてもユーモアに富んだ人物で、面白いエピソード・逸話がたくさん残っています。</p>
<p>難しい話ばかりじゃなくて、もっと身近に感じられるアインシュタインのエピソードや逸話をまとめてみました。　</p>
<h3>モーツァルトが大好き</h3>
<p>小さい頃からヴァイオリンを習い、<span class="marker">モーツァルトをこよなく愛していました。</span></p>
<p>”ヴァイオリンは生涯の友”と公言し雑誌のインタビューで「あなたにとって死とは何ですか？」と聞かれ「モーツァルトを聞けなくなるということ」と答えたそうです。</p>
<h3>記憶するのが苦手？</h3>
<p>子供の頃から興味のあることに没頭し、興味のないことは後回しだったようで、<span class="marker">学校の成績は物理や数学は跳びぬけて優秀でしたが、それ以外のものは落第点</span>でした。</p>
<p>大学入試にも1度失敗しています。</p>
<p>ノーベル賞を受賞したインタビューで光速度の式を聞かれた時、答えられず「どうして書いてあることをいちいち覚えている必要があるのかね？」言い返したそうです。</p>
<h3>きっかけは夢</h3>
<p>学生時代に昼寝をしていた時に光を追いかけている不思議な夢を見たそうです。</p>
<p>そして、すぐさま光を追いかけていると想像し思考実験をしたそうです。</p>
<p>これが相対性理論を生み出したきっかけでした。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
思考実験なんて天才アインシュタインにしかできないことですね。
</div>
</div></div>
<h3>そもそも脳の作りが人と違う？</h3>
<p>アインシュタインの脳は死後現在まで研究されているようです。</p>
<p>その中で<span class="marker">普通の人と脳の作りが違う</span>ところがあって、</p>
<ul>
<li>1つは左右の脳の間の溝が一般人より浅いこと</li>
<li>2つ目は一般人の脳に比べて軽いこと</li>
<li>3つ目はグリア細胞という細胞が一般人に比べて多いこと</li>
</ul>
<p>だそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
これらの違いが天才アインシュタインを作り出せた理由なんでしょうか？
</div>
</div></div>
<h3>アインシュタインの結婚・離婚・再婚</h3>
<p>アインシュタインは大学の同級生ミレーバと結婚しますが、離婚。</p>
<p>理由は家庭内暴力と言われていますが、<span class="marker">離婚条件が「ノーベル賞受賞の賞金を慰謝料とする」</span>だったそうです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
まだ受賞していない時にこう言い放ったそうで、結果的には事実となりましたが、一般人には言えないことですね。
</div>
</div></div>
<p>また離婚後まもなくして再婚していますが相手はアインシュタインが病気を患っていた時に看病してくれた従姉妹のエルザで、その後はエルザが亡くなるまで添い遂げたそうです。</p>
<h3>アインシュタインの名言</h3>
<p>アインシュタインはとてもユニークな哲学者としても知られており、たくさんの名言が残されています。</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>賢い人は問題を解決し、賢明な人は問題を回避する。</li>
<li>これまで間違いをしたことのない人は、新しいことに全く挑戦したことのない人だ。</li>
<li>真の天才は、自分が何も知らないことを認めている。</li>
<li>私には特別な才能はない。だた好奇心が強いだけだ。</li>
</ul>
</div>
<p>などなど。</p>
<p>どのエピソード・逸話をとっても、面白く、「さすが天才！」と言わざるを得ないですね。</p>
<h2>5行でわかるアインシュタインのまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>物理学者で、ノーベル物理学賞を受賞。</li>
<li>相対性理論を発表した人。</li>
<li>興味のあることに没頭する性格で、物理や数学は優秀だったがそれ以外は落第点。</li>
<li>脳の作りが普通の人とは違う？</li>
<li>離婚の慰謝料はノーベル賞の賞金！その後従姉妹と再婚し一生添い遂げた。</li>
</ul>
</div>
<p>やはり、一般人とはかけはなれたすごい人でしたね。</p>
<p>天才アインシュタイン、名前しか知らなかったけどどんな人か少しはわかっていただけたでしょうか？</p>
<p>これを読んで、もっとアインシュタインのこと知ってみたいと思ってくれた人がいたら嬉しいです。</p>
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