江戸時代

徳川家光ってどんな人?参勤交代やキリシタン禁圧などの政策を行った結果

徳川家光

徳川家光(とくがわいえみつ)は、三代目将軍です。

商売においても、三代目の育成は難しいものです。

三代目ともなると、創業者とは異なり、はじめから裕福な環境で育つからです。

その組織が成長していくか衰えるかは、ひとえに三代目にかかっているといっていいでしょう。

家光はすぐれた手腕を発揮しました。

幕府がその後十五代まで続いたのが何よりの証拠です。

この記事ではその徳川家光はどんな人物だったのかご説明します。

徳川家光のプロフィール

  • 生誕 1604年7月17日
  • 死没 1651年4月20日
  • 在職 1623年7月27日~1651年4月20日
  • 享年 48歳

徳川家光は、二代将軍徳川秀忠の二男として生まれました。

母はお江与の方で、浅井長政の三女です。

まさむね
まさむね
つまり、母は淀君の妹ですから、家光は豊臣秀頼といとこの間柄です。

乳母である春日局のもとで育ちます。

将軍に就任したのは1623年で、満年齢で19歳のときです。

まだまだ若造ですから、政治の実権は父の秀忠が握っています。

本格的に影響力を発揮しはじめるのは、秀忠が1632年に亡くなってからといっていいでしょう。

1651年4月20日に48歳で亡くなっています。

まさむね
まさむね
当時としては平均なのでしょうが、少し若い感じがしますね。

徳川家光は何をした人?

家光は、江戸幕府の基礎固めを完成した将軍と言ってもいいのではないでしょうか。

徳川家康、秀忠が営々と築きあげてきた幕藩体制の仕上げをしたのが家光と言えます。

重要なポイントについて、これから説明していきましょう。

江戸幕府体制の完成

家康から始まった幕府の支配体制固めのひとつの頂点が、有名な「参勤交代」といっていいでしょう。

これは、家康が定めた武家諸法度を大幅に改定して、つけ加えた条文でした。

「参勤交代」は、諸大名が国元と江戸を決められた年月ごとに往復することを義務付けたもので、

  • 江戸に赴くことが「参勤」
  • 国元に帰ることが「交代」

です。

江戸に移動するだけでなく、居住する必要もありますから、大名にとっては大変な負担です。

しかも、妻子は強制的に江戸に住まなければなりません。

人質以外の何物でもありません。

大名は莫大な出費を強いられたうえ、妻子は人質です。

幕府の大名に対する統制も、これで完成したといっていいでしょう。

有力大名をリストラしまくった

有力大名の取り潰しは家康時代からありましたので、家光時代特有の現象とはいえません。

しかし、歴代政権の中で、最も大名の改易数が多かったのが家光時代でした。

有名な加藤清正の子である加藤忠広が改易されたのも家光の時でしたし、一時は将軍職を争った弟・忠長も改易されています。

外様大名だけではなく、一門、譜代も合わせて48名も改易されたのは、歴代将軍のなかでは家光が一番です。

このように、大名の統制を強め、幕府の権力強化に貢献したという意味では、家光は大きな仕事をしました。

しかし、多数の大名が改易された結果、牢人が巷にあふれることになってしまったのです。

まさむね
まさむね
いわゆるリストラされたサラリーマンたちです。

家光が亡くなった三か月後には、これら牢人たちをそそのかして幕府転覆を謀った由井正雪の事件(慶安の変)が起こりました。

クーデター未遂事件です。

性急な政策は、後の為政者に重い課題も残しました。

キリシタン禁圧と島原の乱

1612年に出されたキリスト教の禁教令は、徐々に全国的に適用されていきました。

その過程で、残酷な迫害も行われ、多くのキリスト教徒が命を落とし、生き残ったものもマニラなどに追放される徹底的な弾圧が加えられました。

家光も基本的にはこの路線を守ります。

1629年には有名な絵踏が行われるようになりました。

まさむね
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これらの弾圧は、遠藤周作の小説「沈黙」で世界的に有名になり、今では人道上許しがたい政策として批判も高まっています。

これらの弾圧に対してキリスト教徒たちが決起したのが、「島原の乱」です。

1637年のことでした。

島原半島の原城跡に立てこもったキリスト教徒たちは、約12万の幕府軍に対して善戦し、城は容易に落ちませんでした。

幕府は苦戦し、持久戦に切り替えてかろうじて勝利をおさめます。

原城のキリスト教徒たち約3万人は女性や子どもにいたるまで殺されました。

この大規模な反乱は、幕府に強い衝撃を与えました。

その後のキリスト教の弾圧はさらに過酷をきわめ、外国との貿易政策も大きく転換していくことになります。

鎖国政策

当時、外国との貿易は、各地の大名や有力な商人が行っていました。

いわゆる朱印船貿易で、幕府が発行した海外渡航許可である朱印状を持って、海外貿易に乗り出して莫大な利益をあげ、非常な活況を呈していました。

家光が将軍に就任した頃は、海外に渡航した日本人は10万人とも推測されていますし、東南アジア諸国にはそこかしこに日本人町が誕生し、シャムの山田長政のように現地でかなり高い位に上った人まで現れました。

このように活発だった海外貿易ですが、キリスト教禁教政策のため、幕府は規制を加えざるを得なくなります。

そして何よりも島原の乱が決定的でした。

幕府は、乱終息後の1639年にはポルトガル船の来航を禁じます。

そしてオランダ商館を長崎の出島に移転させます。

ここに、外国との貿易は長崎の出島だけに限定され、幕府の管理下に置かれることになりました。

この貿易統制は、それ以降の日本に絶大な影響を及ぼしました。

閉鎖空間となった日本列島が、独自の発展をとげたという側面もありましたが、先進的な西洋との交流が絶たれたことは、日本にとって大きな損失でした。

その西洋に追いつくために、明治以降の日本人は大きな代償を支払うことになったのです。

徳川家光のエピソード

虚弱体質だった少年時代

家光は幼少から虚弱体質でした。

吃音もあったようです。

まさむね
まさむね
将来の将軍としては頼りないと周囲から見られていたでしょう。

対照的に弟・忠長は非常に聡明で知られ、さらに容姿端麗、いわゆるイケメンであり、父・秀忠と母・お江与の方はむしろ忠長を将軍職にと考えていたようです。

こういった跡継ぎ問題は、必ず政争を引き起こします。

最終的には、春日局のとりなしによって、家光は三代将軍になることができたわけです。

日光東照宮に10回も行っている

家光は、家康が眠る日光東照宮に生涯で10回も行っています。

これは異常な回数で、家光以降、これほど日光に行った将軍はいません。

祖父家康に対する崇敬がいかに深かったか、この回数がよく示しています。

家光の父・秀忠と家光の母・お江与の方は、なぜか家光を好んではいませんでした。

まさむね
まさむね
二人とも弟・忠長を溺愛したのはすでに紹介した通りですが、そういったいきさつもあって、家光の家康に対する敬愛はいよいよ深まっていったのでしょう。

4行でわかる徳川家光のまとめ

まとめ
  • 「参勤交代」などの政策により、幕府と大名の主従関係が確定した
  • あいつぐ大名とりつぶしにより、牢人が増え、社会問題化した
  • キリシタン弾圧の結果、島原の乱を誘発した
  • 鎖国体制を完成し、外国との交渉を幕府が独占した

家をつぶすのも興隆させるのも三代目にかかっているといわれます。

その意味で、徳川家光は幕府を存続させるために大きな仕事をしました。

家光が整えた幕藩体制は、その後、さまざまなメンテナンスを加えながらも、明治時代まで存続することになりました。

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