戦国時代

徳川家康は何した人?わかりやすく簡単にまとめてみました

徳川家康

織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康。

日本人なら必ず知っておかなければいけない、知ろうと思わなくてもいつの間にか知っている3人ですよね。

彼らが成し遂げたのは、天下の統一。

日本を一つにまとめて、自らが頂点に立とうとしたのです。

この記事で紹介するのは、その中でも特に後世に多大な影響を及ぼした男、徳川家康。

江戸時代の歴史は、そのまま徳川家の歴史だと言っても過言ではありません。

徳川家康は、何百年にも及ぶ一つの時代を作り上げるきっかけとなった人物なのです。

まさむね
まさむね
ところで、名前はもちろん知らないはずがない彼ですが、具体的に何を成し遂げたのか言えますか?

天下人という名前だけが独り立ちし、その中身は意外と忘れられがちなのではないでしょうか。

徳川家康は何を行ったのか?
また、そのエピソードや逸話は?

簡単にまとめてみました!

徳川家康のプロフィール

徳川家康(とくがわ いえやす)1543~1616。

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名・天下人。

数百年に及ぶ江戸時代を作り上げた徳川家の始祖です。

また、織田信長豊臣秀吉と共に、戦国時代に天下を統一へ導いた「三英傑」と呼ばれることもあります。

徳川家康は何した人?

徳川家康を語る上での主要な出来事は以下のものです。

  • 青洲同盟
  • 小牧・長久手の戦い
  • 関ヶ原の戦い
  • 大坂の陣

それでは1つずつ見ていきましょう。

清州同盟(きよすどうめい)

1560年、群雄割拠の戦国時代真っただ中で当時快進撃を進めていた織田信長は、桶狭間の戦いで遂に今川義元を打ち取りました。

このころ、徳川家康は今川氏に従属していました。主を失った知らせを受けた彼は、そのショックから切腹を図ろうとします。

しかし、寺の住職から「泰平の世を築くために生きよ」と諭されなんとか思いとどまった彼は、今川氏からの自立を決意しました。

その後、今川氏と敵対関係になった家康は、織田信長と同盟を結び、最終的には従属関係を結ぶことになりました。

これが清州同盟と呼ばれるものです。

小牧・長久手の戦い

本能寺の変で織田信長が明智光秀に襲撃され、信長の天下は突然の終わりを迎えます。

主君への弔い合戦に明智光秀を打ち取ろうと考えた家康でしたが、彼より先にそれを実行に移した人物がいました。

それが、次の天下人である豊臣秀吉です。

同じく織田家臣だった秀吉は、その後もめきめきと頭角を現し、信長の後継者としての実力を内外に示していくことになります。

しかし、家康としてはそれは面白くないことです。

今までは信長に従ってきた彼にとって、秀吉は相容れない存在でした。

時を同じくして、信長の次男である信雄が秀吉により安土城から追放されます。

秀吉への反発を強くする信雄が同盟相手に選んだのが、徳川家康でした。

そして起きたのが、豊臣秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍による小牧・長久手の戦いです。

結果として、勝利したのは秀吉側でした。

後に和解が行われ、秀吉側からの要求により、最終的に家康は秀吉に従することになったのです。

秀吉死後の実質的なトップ

豊臣秀吉の死後、徳川家康はその意思を受け継ぐものとして政治の実質的なトップとして動いていくことになります。

その最中に起きたのが、1600年、かの有名な天下分け目の関ケ原の戦いです。

家康のやり方に反発を抱いた石田三成ら西軍は毛利輝元を総大将とし、徳川家康ら東軍と戦を行いました。

結果は、西軍側に裏切りが出たことによる東軍側の圧勝。

光成らは罪人として処罰され、徳川家康は名実ともに次の天下人としての地位を確立しました。

大阪の陣

政治のトップに立った家康にとって、最期の壁となったのは皮肉にも豊臣家の存在でした。

秀吉没後その地位は転落したとはいえ、徳川支配下には実質的に編入されず、豊臣家内部で家康への反感を覚えた人々も少なくなかったことなどから、次第に彼らは対立を深めていくことになります。

そして1614年、両者の溝を決定的なものにした方広寺鐘銘事件をきっかけに、家康は豊臣家を討ち取ることを決意しました。

これが、大坂の陣です。

戦いは1614年の冬の陣と1615年の夏の陣で行われ、両者奮闘の末、豊臣秀頼らの自害による豊臣家の滅亡で幕を閉じました。

こうして、家康は最大の懸案事項を処理し、天下統一を成し遂げることに成功したのです。

徳川家康のエピソード・逸話

家康はブ男だった

江戸後期に記された随筆『翁草』によれば、家康は肥満体で醜男だった、とされています。

なんでも、下腹が出すぎて自分で下帯を締めることができず、いつも侍女に結ばせていたとか……。

また、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』では、家康の外貌を「愉快な風貌で、色黒区なく、肥えていた」と記しています。

まさむね
まさむね
身長は155から160cmとも推定されていますので、もし仮に現代に家康がいたのなら、近所にいそうな冴えないおじさんのような見た目だったのかもしれないですね(笑)

多趣味だった

家康には多くの趣味がありました。

有名なものとして、鷹狩りと薬づくりがあります。

鷹狩りでは、ただの遊びに留まらず、政治的・軍事的視察も兼ねた実用的なものとして捉えていたという記述も残っています。

また、薬づくりに関しては、自ら開いた薬園があるほどのめり込んでいたようです。

他にも猿楽(現代の能)、囲碁、将棋、香道などがあり、どれも趣味という枠に収まらないほど本気で取り組んでいたとされています。

まさむね
まさむね
天下を取るほどの人間は、遊ぶ時も全力でなくてはいけない、ということなのかもしれませんね。

健康志向で、当時としてはかなりの長生きをした

家康は、当時としてはかなりの長寿である75歳まで生きました。

常に健康を第一に考え、少しでも長く生きて天下を取る機会を得ようとしていたのです。

食事は質素倹約、麦飯と魚、野菜や納豆を好み、酒も飲みすぎないようにしていたとされています。

薬づくりを趣味にするくらい薬にも精通し、健康に良いとされるものを日常的に服用していました。

また、たとえ病にかかった際にも、自らの知識で自己治療を優先しました。

まさむね
まさむね
最終的に彼が豊臣家を滅亡させて天下を手に入れたのは74歳の頃。

諦めない思いが成し遂げた結果だったのですね。

4行でわかる徳川家康のまとめ

まとめ
  • 清須同盟で織田信長と同盟を結び、配下になった
  • 小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉に敗北し、その後彼の従属として数々の功績を収めた
  • 秀吉の死後、その後継者として実質的なトップに立ち、関ケ原の戦いでさらにその地位を確立させた
  • 大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、天下統一を成し遂げた

徳川家康は、その前の天下人である織田信長・豊臣秀吉の姿を間近に見ながら、いつか自分がその地位に立つことを夢見ていました。

そのために一秒でも長く生き抜くことを考え健康にも気を配り、最期には74歳という高齢での天下統一を果たしたのです。

自分が成し遂げることに疑問を持たず、常に前だけを見て前進した結果だと言えるでしょう。

数百年に及ぶ徳川政権、その始祖となった家康は、崇められるに相応しい功績を残しています。

きっと家康の存在があったからこそ、江戸時代、そしてそれに続く現代があるのでしょうね。

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