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戦国時代

今川義元ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

今川義元

今川義元と言えば、桶狭間の戦いで信長に敗れた弱い武将で有名ですね。

また、その出で立ちは、テレビドラマやゲームに登場するキャラクターの白塗りの顔をして、お歯黒をつけた弱々しい武将というイメージではないでしょうか?

しかし、織田信秀豊臣秀吉、毛利元就、武田信玄上杉謙信、北条氏康らとともに「戦国七雄」とも言われています。

今川義元とは本当はどんな人だったか不思議に思いますよね。

そこで、今川義元とはどんな人だったのか、わかりやすく簡単にまとめてみました。

今川義元のプロフィール

■1519年(永正16年)
今川氏親の5男として駿河(現在の静岡)で生まれる。

■1523年(大永3年)
4歳のころ善得寺に預けられ、太源雪斎のもとで学ぶ。

■1536年(天文5年)
兄氏輝、彦五郎が亡くなったため、異母兄の玄広恵探と家督を争い(花倉の乱)今川家の当主となる。

■1537年(天文6年)
武田信虎の娘と結婚し、武田氏と甲駿同盟を結ぶ。北条氏と対立。 

■1545年(天文14年)
北条氏との争いに勝利し北条家と和解する(河東一乱)。

■1548年(天文17年)
織田軍との三河をめぐった争い(小豆坂の戦い)に勝利

■1549年(天文18年)
駿河・遠江・三河を制圧

■1553年(天文22年)
父・今川氏親が定めた分国法「今川仮名目録」を改定。

■1554年(天文23年)
武田信玄、北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結ぶ。

■1560年(永禄3年)
桶狭間の戦い。桶狭間山で休憩していたところを織田信長によって襲撃され織田家家臣・毛利新助に討ち取られる。(享年42歳)

今川義元は何をした人?

駿河・遠江・三河の3国を支配し、東海地方に一大勢力を築く

今川家の当主となった義元はまず、甲斐の武田氏と甲駿同盟を結びます。

それにより旧来の盟友であった北条氏の怒りを買い、今川家と北条家との対立がはじまります。

そして一時は駿河の一部・河東を北条氏に奪われてしまいます。

そこで、北条氏と対立していた上杉憲政とも同盟を結び、武田軍と共に北条氏を追い込み、8年もの長い戦いの末、河東を奪い返し駿河を守りぬきました(河東一乱)。

それと並行し、三河をめぐって織田氏と二度に亘って対立し勝利、三河の松平氏を支配下に置き、三河まで領土拡大しました(小豆坂の戦い)。

そしてついに駿河・遠江・三河の3国を支配しました。

その後、尾張進出へ向かうことなります。

桶狭間の戦いで夢破れる

義元は駿河・遠江・三河の3国を支配下に置き、武田信玄、北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結び、さらに体制を強化していきました。

まさむね
まさむね
当時、天下統一に一番近い人物とも言われています。

そんな義元ですが、尾張国へ侵攻し、織田氏の防衛線を突破し意気揚々としていたところ、桶狭間山の山中で突然の豪雨に見舞われます。

その間休憩を取っているところを織田軍の襲撃にあい、あっけなく討ち取られてしまいました。

順調に勢力を拡大していた義元は、まさかの敗戦、天下統一への夢は破れてしまいました。

その後、氏真が後を継ぎますが、形勢は立て直せず、今川家は滅亡していまいました。

今川義元のエピソード・逸話

「海道一の弓取り」と言われた凄腕の戦国武将

ここで言う海道とは東海道を指し、弓取りとは武士という意味です。

義元は情勢を見極め、戦略をたて数々の戦を勝ち進みました。

特に軍事力は寄親・寄子制度を取り軍事改革を行ない、圧倒的な数を誇る大軍を動員でき、また、要所で同盟を組むなど外交力にも優れていました(幼少期に学んだ太源雪斎を軍略家においたことにより、雪斎の策略とも言われていますが……)。

このように「海道一の弓取り」と異名をもった義元は、凄腕の戦国武将として恐れられていました。

優れた政治手腕の持ち主だった

父・氏親が定めた分国法「今川仮名目録」を改定し、追加法を制定していますが、これにより従来、室町幕府が管理していた土地を自分で管理できるようにしました。

また、金山の開発や、東海道を利用し物流を発展させ経済力をつけました。

白塗り、お歯黒、置眉の軟弱なイメージだけど本当は強かった

もともと義元は、足利一門の名家の出で、母親が貴族出身であったこともあり、幼少のころより公家の文化に触れ、好んでいたとされています。

そのため、白塗りで化粧をし、お歯黒をつけ、置眉という公家の格好をしていました。

しかし、当時、公家風の衣装は教養が高く、格式高い家系であることを象徴するもので、ほかの武将も同じように公家の格好を好んでしていた人もいたそうです。
  

4行でわかる今川義元のまとめ

まとめ
  • 駿河・遠江・三河の3国を支配し、天下統一に最も近い人物と言われていた。
  • 優れた政治手腕をあわせ持ち、海道一の弓取りと異名を持つ凄腕の戦国武将だった。
  • 公家風の出で立ちで軟弱なイメージであったが、本当は強かった。
  • 桶狭間の戦いでまさかの敗戦、生涯を終える。

これだけ凄い戦国武将だった今川義元ですので、もし桶狭間で雨が降らなかったら天下をとっていたのかな?などと思ってしまいますね。

今川義元についてさらに興味をもっていただけたら嬉しいです。

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