戦国時代

豊臣秀吉ってどんな人?天下統一までをわかりやすく簡単にまとめてみました

豊臣秀吉

織田信長の意志を受け継ぎ、その悲願を成し遂げた偉人。

戦国の世を終わらせ、天下を統一した人物。

それが、豊臣秀吉です。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、日本史上の3大天下人として最も有名な人物たちですよね。

天下を取るほどの人物、そこに至る過程には一体どのような出来事があったのでしょうか。

また、秀吉はどんな人柄だったのか?
エピソードや逸話は?

簡単にまとめてみました!

豊臣秀吉のプロフィール

豊臣秀吉(とよとみひでよし)1537-1598。

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

織田信長徳川家康とともに三英傑としても知られています。

初めは木下氏でしたが、のちに羽柴(はしば)、藤原と改め、正新町天皇から豊臣氏を賜り本姓となりました。

豊臣秀吉は何をした人?

織田家への仕官

1554年ごろから、秀吉は織田信長に小者(雑用係のようなもの)として仕え始めました。

以降、自ら積極的に動いて様々な成果を挙げ、織田家の中で頭角を現していくことになります。

秀吉の名前が最初に記された資料として、1565年に書かれた坪内利定宛て知行安堵状があり、「木下藤吉郎秀吉」の名で副署が残されています。

このことから、信長は秀吉を有力な武将の1人として認めていたことが分かります。

それからも、1569年には大将として軍2万を率いて山名氏を攻撃し10日間で18城を落としたり、1570年には浅井長政の裏切りにより挟み撃ちされる中で明智光秀らとともに殿軍を務めピンチを乗り切るなど、織田軍に欠かすことに出来ないほど重要な存在として働きました。

しかし、1577年、上杉謙信との戦で苦戦する柴田勝家の救援を命じられた秀吉でしたが、作戦をめぐって勝家と仲たがいをしてしまい、信長に無断で兵を帰還させました。

その結果、勝家は謙信に敗北。

当然信長は秀吉の行動に怒りを隠せません。

このままでは自分の立場が危ういと感じた秀吉は、なんとか名誉を挽回しようと織田信忠率いる松永久秀討伐に従軍し、見事功績を挙げることに成功しました。

山崎の戦い

1582年、突如訪れた晴天の霹靂。

明智光秀の謀反による、織田信長の死。

通称、本能寺の変です。

秀吉は事件を知ると、すぐに京都に急行しました。

理由はもちろん、明智光秀への仇討です。

光秀と秀吉は、山﨑にて交戦しました。

この戦いで、秀吉側には池田恒興や丹羽長秀、さらには光秀側の人間だった中川青洲や高山右近などまで参加し、兵力に劣る光秀は瞬く間に敗北しました。

その後、秀吉は光秀の残党も余すことなく征伐し、京都の支配権を掌握します。

後に開かれた清州会議で秀吉は光秀の旧領だった丹波国や山城国・河内国を増領し、計28万石もの加増となりました。

まさむね
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これにより、秀吉の発言力は一層大きくなっていくことになります。

小牧・長久手の戦い

1583年に賤ケ岳の戦いで柴田勝家に勝利した秀吉はますます力を強めますが、それに並行して織田家との仲は次第に悪くなっていきます。

対立を深める中で、同年秀吉は織田信雄を安土城から退去させます。

これを火種に関係は険悪化し、信雄は徳川家康と同盟を組み秀吉と対立しました。

始め戦況は信雄・家康側に傾き、秀吉は自ら攻略に乗り出すことを強いられます。

その後の追い上げにより、秀吉軍は次々と城を陥落。

危機感を覚えた信雄は秀吉と講和し、家康も降伏して、最終的には秀吉側の勝利となりました。

こうして「織田家」を実質的に超えた秀吉は、織田政権という枠組みから脱却し、豊臣政権の長として君臨することになるのです。

豊臣政権の確立

1586年、秀吉は正新町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任します。

これにより、本格的に豊臣政権を確立させることになりました。

その後、九州平定や小田原征伐など残りの大名を従わせていき、遂に天下の統一を成し遂げます。

ここに、戦国の世がようやく終わりを迎えることになりました。

織田信長から引き継がれた途方もなく壮大なその野望を、長い時を経て秀吉が叶えたのです。

まさむね
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まさに、天下人と言われるだけの人物ですよね。

豊臣秀吉のエピソード・逸話

あだ名は「猿」だった

秀吉が「猿」と呼ばれていた話は、有名ですよね。

由来は容姿から来ているようで、幼い頃からそう呼ばれていたと言います。

また、数々の史料にも、様々な人物の視点から秀吉が猿と呼ばれていた形跡が残されています。

特にルイス・フロイスは、「醜悪な見た目で、指が6本あった」などと今見るとかなりひどいことを書き記しました。

しかし、自らもその容姿を自覚していたようで、「自分はこんなに醜いが、私の日本における成功を忘れるな」と語っています。

まさむね
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負け惜しみのようにも聞こえかねませんが、実際に誰にも成し遂げられなかったことを成し遂げた偉大な人物なわけですから、誰も文句は言えませんよね(笑)

人々の心を掴む天才だった

秀吉は、「人たらし」と呼ばれるほど人の心を掴むことにかけての才能がありました。

その根底には、彼の度量の大きさがあります。

例えば、賤ケ岳の戦いの際、熱暑に苦しむ負傷兵に対し、敵味方の分け隔てなく笠を被せて回ったと言います。

他にも、秀吉が可愛がっていた鶴を飼育係が誤って逃がしてしまった際には、「日本中がわしの庭だから、日本にさえいればそれでよい」と、笑って許したそうです。

まさむね
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秀吉が天下を取ることができたのは、細かいことは気にしないという生まれながらの性格のおかげもあったのかもしれませんね。

4行でわかる豊臣秀吉のまとめ

まとめ
  • 織田信長の家臣として数々の武功を挙げ、名を高めていった
  • 信長の死後、山崎の戦いで光秀を打ち取り、後継者として有力視されるようになった
  • 小牧・長久手の戦いで織田信雄に勝利し、織田家を超えることに成功した
  • 豊臣姓を賜り太政大臣となったのち、天下の統一を果たした

それまで最も天下に近付いた男、織田信長の元で多くの功績を残した秀吉は、信長の死後後継者として頭角を現しました。

以降もその意思を受け継ぎながら、秀吉にしかできないやり方で権力を高めていき、遂には天下の統一という偉業を成し遂げたのです。

生まれながらにして持ったその才能と分け隔てない人柄が、彼を天下人に押し上げてくれたのでしょうね。

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