戦国時代

明智光秀ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

明智光秀

明智光秀と言えば、歴史もののテレビドラマや映画でもよく登場しています。

「敵は本能寺にあり」、「三日天下」という言葉がすぐに頭に浮かびますね。

  • 「敵は本能寺にあり」は、自分の仕えている殿を討ち、下克上を起こした時の言葉
  • 「三日天下」は、その後すぐに返り討ちにあって天下を下ろされてしまい、後にあざ笑われて言われた言葉

として有名です。

これだけだと裏切り者で悪い人というイメージですが、本当はどんな人だったか知りたくなりませんか?

そこで、明智光秀がどんな人だったのかわかりやすく簡単にまとめてみました。

明智光秀のプロフィール

■1528年(享禄元年)
現在の岐阜県(美濃の国)で、父・明智光綱の長男として生まれる。
(光秀は、若いころの資料がほとんど残っておらず、不明な点が多い。父が道綱とするものがあったり、光隆とするものがあったり。生まれた年も1528年・1526年(大永6年)・1516年(永正13年)などの説があります。)

■1556年(弘治2年)28歳
当時、斎藤道三に仕えており、道三が、弟・斎藤義龍に長良川の戦いで敗れたため、光秀の一族は離れ離れとなり、美濃を離れ諸国を放浪、10年余り浪人生活をすることになる。

■1565年(永禄8年)37歳
各地を転々とし(この期間に鉄砲や和歌などの教養を身に着ける)、母方の若狭武田氏のつてを頼り、越前(福井)の大名・朝倉義景に仕える。またそこで、足利義昭と出会い、義昭にも仕えることになる。

■1568年(永禄11年)40歳
足利義昭が15代将軍となった時、義昭と信長の中をとりもったことから朝倉義景から織田信長に仕えるようになる。(信長34歳、光秀40歳)

■1571年(元亀3年)43歳 
信長が、姉川の戦いとして有名な戦の後、敵の兵をかくまったとし比叡山延暦寺焼きうちを決行。
その時の活躍が認められ、滋賀県(近江国の滋賀郡)に5万石の領地をもらい、琵琶湖の近くに坂本城を立てる。
この時、初めて当主となり、坂本城主、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称される。
このころから異例出世を遂げていく。 
  
■1579年(天正7年)51歳
丹波国攻め落とし29万石をもらい亀山城を建てる。

■1582年(天正10年)54歳
中国地方で戦っていいる羽柴秀吉(豊臣秀吉)を援護しろ、と命令され出発するが、突如行き先を変え、信長が宿にしていた本能寺を襲い、攻め殺す。(本能寺の変)
しかし、その謀反の知らせを聞き、わずか10日余りで中国地方から引き返してきた(中国大返し)秀吉に敗れてしまう。(天王山にて、山崎の戦い
そして、逃げる途中に落ち武者狩りの農民に襲われ死亡(享年55歳) 

明智光秀は何した人?

本能寺の変を起こす

1582年光秀が主君である信長を裏切った事件。

当時、近畿地方を支配下に治めつつあった信長は、さらに、中国地方制圧しようとして、秀吉、光秀らを向かわせるが、秀吉は、信長がいる本能寺へ向かい信長を討ちます。

その時、「敵は本能寺にあり」と言ったとされています。

まさむね
まさむね
光秀がなぜ謀反を起こしたのかについては様々な説があり、現在でも明らかになっていません。

日本の歴史の七不思議のひとつと言われています。

織田信長についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

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山崎の戦いにて敗北

本能寺の変のあと、天下を取ったと思ったわずか11日後に、秀吉に敗北し、逃げる途中で農民に襲われ死亡、その生涯を閉じることになった。

そのため秀吉の三日天下と言われています。

明智光秀のエピソード・逸話

家臣思いの情深い人

光秀は戦死家臣のために寺に供養米を奉じたり、負傷した家臣に見舞いの書状を送ったとされています。

また、光秀の言葉に、

仏の嘘(うそ)をば方便といい、武士の嘘をば武略という。
是を以て之を見れば、土民百姓は可愛きことなり。

というものがあります。

「仏や武士の嘘がゆるされるなら、年貢をごまかすくらいの百姓の嘘なんてかわいいものだ」という意味で、家臣だけでなく、民に対しても思いやりが感じられます。

さらに、当時、福知山城下でよく起こっていた河川の氾濫を防止するために、大規模な治水工事を行っています。

このことで丹波の人々に感謝され、現在でも福知山では「福知山御霊大祭」、亀岡では「亀岡光秀まつり」や「ききょうの里」といったイベントが開催され、光秀が慕われていたことがわかります。

教養があり文武両道

浪人時代に身に着けた鉄砲は「百発百中」といわれ、部隊戦術を身に着け、数々の武功をあげています。

建築技術にも優れ、強固な坂本城、亀山城を建てています。

また、和歌をたしなみ、本能寺直前 詠んだ句「時は今 雨が下しる五月哉」は有名です。

この歌は、これから謀反を起こすともとれる歌、とされていますが、それ以外にも様々な解釈ができるといわれており、光秀の教養が奥深いと高く評価されています。

4行でわかる明智光秀のまとめ

まとめ
  • 本能寺の変で君主・信長を討った謀反人
  • たった10日余りで終わったまぼろしの三日天下
  • 謀反人と呼ばれているが、家臣や民に慕われる思いやりのある人
  • 教養深く、文武両道

明智光秀の冷たいイメージと暖かいイメージの両方を感じることができましたね。

明智光秀については様々な説があり、まだまだ謎がいっぱいです。

もっと知りたい!と興味をもっていただけたら嬉しいです。

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