MENU
戦国時代

斎藤道三ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

斎藤道三

斎藤道三(さいとうどうざん)といえば、司馬遼太郎の歴史小説「国盗り物語」の中で、織田信長とともに主人公として描かれていることで有名ですね。

また、この国盗り物語は、過去に大河ドラマや時代劇などで取り上げられていて、名前は知っているという方も大勢いるのではないでしょうか?

「美濃のマムシ」と呼ばれ、一介の油売りから一国の当主にまで上り詰め、戦国時代の下剋上の代表的存在と言われている斎藤道三はどんな人だったのでしょうか?

わかりやすく簡単にまとめてみました。

斎藤道三のプロフィール

■1494年(明応3年)または1504年(永正元年)
山城国乙訓郡西岡(現在の京都)で生まれたとされるが詳細は不明。

■1504年(永正元年)11歳のころ
京都妙覚寺に入りで法蓮房(ほうれんぼう)という名前で僧侶となる。
環俗して油問屋の奈良屋又兵衛の娘と結婚して、「山崎屋松波庄五郎と名乗り油職人となる。

■1521年(大永元年)28歳
美濃国守護の土岐氏の家老であった長井長弘の家臣となり、長弘の家老であった西村家を継ぎ西村勘九郎正利と名乗る。

■1526年(大永6年)33歳
豊田丸(能登の斎藤義龍)生まれる。

■1530年(享禄3年)37歳
長井長弘を殺害し長井家を乗っ取り、長井新九郎規秀と名乗る。
本拠地を稲葉山城とする。

■1532年(天文元年)39歳
明智光継の娘・小見の方を正室に迎える。

■1535年(天文4年)42歳
後の織田信長の正室となる帰蝶(濃姫)誕生。

■1538年(天文7年)45歳
美濃守護代の斎藤利隆(利良)が病死すると、その跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。
 
■1539年(天文8年)46歳
稲葉山城を難攻不落の城と呼ばれる城へ改築する(のちに織田信長によって岐阜城と改められる)。

■1542年(天文11年)49歳
土岐頼芸を美濃から追放し事実上の美濃の国主となる(頼芸は尾張・織田信秀(信長の父)の元へ、甥の頼純は越前・朝倉氏のもとへ逃げている)。

■1547年(天文16年)54歳
織田信秀が稲葉山城を攻めるが勝利(加納口の戦い)、織田信秀と和睦。

■1548年(天文17年)55歳
娘の帰蝶を織田信長に嫁がせる。

■1552年(天文21年)59歳
織田家の支援を受け土岐頼芸を尾張へ追放し、完全に美濃を治める。

■1554年(天文23年)61歳
国内の政情の安定を図るため家督を義龍へ譲り常在寺で出家、道三と名乗り鷺山城に隠居する。
しかし側室との子である義龍(道山の実の子ではなく頼芸の子と噂された)より、正室との子である弟たちを可愛がったとされる道三と義龍の対立が激しくなる。
                          
■1555年(弘治元年)62歳
義龍が弟達を殺害し、道三に対して挙兵。

■1556年(弘治2年)63歳
長良川の戦いで娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに戦死(享年63歳)。

斎藤道三は何をした人?

土岐氏に仕える長井正弘の家臣にしてもらった道三は、その武芸と才覚で土岐氏次男の頼芸に気に入られ、土岐氏のお家騒動の際、頼芸と争っていた兄の頼武を追放し家老職に就きました。

今度は同じく頼芸に気に入れられていた武士になった恩人でもある長井長政を策略のうえ殺害し、長井家を乗っ取ります。

さらに土岐頼芸をの弟・頼満を毒殺し、頼芸をも追放し、ついには美濃国の当主となりました。

斎藤道三のエピソード・逸話

油売りから武士へ転身

商人から武士へ転身したきっかけとなった逸話にこんなエピソードがあります。

油売りをしていた時、客の壺の口に一文銭をあて「この一文銭の穴に油を通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません。」と言って人々を引き付けたといいます。

そしてそれを器用にやってのけました。

それを見ていた ある武士に、その技を武芸に生かせば立派な武士になれるだろうと言われ、出世を望んでいた道三は武芸を磨き、一文銭に槍を通すほどの武芸達人になり、武士の道へと転身していきました。

美濃のマムシと言われた武将

もともと商人のころから人々の心理をつく手段や器用さを持ち、一念発起して武士に転身するという行動力をあわせ持った道三は、出世のため、武士になった恩人でもある長井長政を殺害するなど、次々と自分がつかえていた君主を倒し、のし上がっていきました。

道三が名前を次々と変えていったのもその結果だと言えます。

野望のためなら親をも食い殺すと、親の腹を食いちぎって生まれてくるマムシに例えられたのです。

先を見通す能力に長けていた

拠点としていた稲葉山城を難攻不落と言われる城に大改築しています。

この城は後に織田信長によって岐阜城と改められています。

美濃の発展のため、城のふもとに城下町を整備し、もともと商人だったこともあり、商人たちが自由に商売をできるようにしました。

後の織田信長で有名な楽市楽座も道三の影響を受けていると言われています。

まさむね
まさむね
また娘・濃姫を信長に嫁がせる時、「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐよう(家来)になる」と述べたとされることは有名ですが、結果的に信長が天下をとったということは、 先見の明があったことになるかもしれませんね。

皮肉な運命

美濃のマムシと呼ばれ、非道なまでも下剋上で成り上がってきた道三でしたが、最後は自分の子・義龍によって討たれてしまいます。

死ぬ間際に道三は、今まで見下していた義龍は本当は優秀な武将だったと認めたと言われています。

まさむね
まさむね
この時の道三はどんな気持ちだったのでしょうか?

何とも悲しい結末です。

4行でわかる斎藤道三のまとめ

まとめ
  • 戦国時代の下剋上を果たした代表的な人物
  • 商人から武士へ転身しマムシと呼ばれた恐るべし武将
  • 先見の明をもっていた
  • 見下していた自分の子に討たれるという皮肉な最期をとげた

斎藤道三が日本の歴史に残る有名な人物である理由が少しわかっていただけたでしょうか?

さらに道三について興味をもっていただけたらうれしいです。

関連記事

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。