戦国時代

織田信長ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

織田信長

戦国時代、天下統一に導いた大名、三英傑(織田信長・豊臣秀吉徳川家康)の一人として有名な織田信長。

信長を主人公としたテレビドラマは多数あり、好きな歴史上の人物として常に上位ににランキングされ、幅広い人気を誇っている、日本の代表的な歴史上の人物ではないでしょうか。

三英傑が詠んだとされるホトトギスの俳句(実際には江戸時代の松浦静山の随筆・甲子夜話から出典されたものと言われている)は有名で、信長は「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と詠んでいます。

この俳句では、短気で気性荒く、残酷なイメージがありますが、実際はどんな人だったのか、わかりやすく簡単にまとめてみました。

織田信長のプロフィール

  • 1534年(天分3年)5月12日 尾張の国(現在の愛知県)で織田信秀の長男として生まれる
  • 1549年(天分18年)16歳 濃姫(帰蝶)と結婚
  • 1551年(天分20年)18歳 父。信秀の死により織田家を継ぐ
  • 1559年(永禄2年)25歳 尾張国を統一
  • 1560年(永禄3年)26歳 桶狭間の戦いで今川義元を討つ
  • 1562年(永禄5年)28歳 三河の徳川家康と組む(清洲同盟)
  • 1567年(永禄10年)33歳 斎藤道三の孫竜興を破り、稲葉山城を岐阜城と改め本拠地とする(美濃制圧)
  • 1568年(永禄11年)34歳 足利義昭の上洛を助けを室町幕府15代将軍にする
  • 1570年(元亀元年)36歳 姉川の戦いで近江の浅井・越前の朝倉を倒す
  • 1571年(元亀2年)37歳 比叡山延暦寺焼き討ち(当時,比叡山延暦寺は巨大勢力をもっており僧侶は私欲をむさぼっていた、また浅井・朝倉軍の兵士をかくまったとされていた)
  • 1573年(天正元年)39歳 将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼす
  • 1575年(天正3年)41歳 長篠の戦で武田勝頼を倒す
  • 1576年(天正4年)42歳 近江(現在の滋賀県)琵琶湖畔に安土城を建てる
  • 1580年(天正7年)46歳 石山本願寺を屈服させる(石山戦争終結)
  • 1582年(天正10年)49歳 甲斐の武田を滅ぼし中部地方の大部分を支配、さらに中国地方に足を延ばそうとしたとき、家臣の明智光秀の謀反により、本願寺を襲撃され自害する

織田信長は何した人?

天下統一を目指す

「天下布武」という言葉を掲げ、天下統一を目指しました。

「天下布武」とは、武家・寺家・公家と3つの勢力が争いあっていた戦国時代において、「武士が天下を統一する」という目標のもと、あらゆる手段を講じ実行しました。

その中でも代表的な戦いは、桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変が挙げられます。

桶狭間の戦い

駿河の(現在の静岡県)の戦国大名、今川義元と織田信長との戦いで、桶狭間に陣取っていた今川義元を奇襲し、織田信長が勝利した戦いです。

日本三大奇襲戦のひとつにも数えられている戦いです。

2万5千の大軍を率いていたとされる今川義元に対し、織田信長が3千の少数で圧倒的に不利と言われながらも勝利を収めます。

これが天下統一への第一歩になったとされています。

長篠の戦い

三河の長篠(現在の愛知県)で起こった、織田信長・徳川家康の連合軍と武田信玄の息子・勝頼率いる騎馬軍団がぶつかった戦いです。

戦場となったのは長篠城と設楽原で「長篠設楽原の戦い」と呼ばれることもあります。

日本で初めて鉄砲が使用され、大量の火縄銃を三段打ちという戦法で勝利したことで有名です。

実際のところ、本当に三段撃ち戦法を使ったかどうかは、戦い当時梅雨の時期であったため不可能だったのではないかという説もあります。

ただ、設楽原の地形を利用し、敵の侵入を防ぐため、柵や空堀・斜面を削って人口の崖を作って敵を誘い込み、鉄砲で一網打尽にするという信長の手腕のすごさが見て取れます。

本能寺の変

家臣であった明智光秀が本能寺にいた織田信長を襲撃した事件です。

それにより信長は本能寺に火を放ち、自害したとされています。

当時、最強の権力をもっていた実力者・信長が突然、信頼していた家臣・明智光秀の裏切りにより殺害されるという大事件だったのです。

明智光秀についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

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これにより、信長は、天下統一を目前とし無念の死をとげてしまいます。

織田信長のエピソード・逸話

「うつけもの」はカモフラージュだった?

武士の息子でありながら、まげも結わず浴衣を羽織り、身分関係なく町の若者と遊び歩いており、非常識、大馬鹿物とされ「うつけもの」と言われていたことは有名ですね。

ですが、美濃の斎藤道三が初めて信長と会った時、その態度、存在感から「こいつはただ者ではない、美濃はこいつに譲る」と言ったとされています。

事実、のちに信長は道三の娘・濃姫と政略結婚しています。

まさむね
まさむね
能ある鷹は爪を隠すのか、それとも信長の才能を見抜いた道三に先見の明があったのか、どちらでしょうか。

革新的で優れた政治家だった

信長は経済的な感覚に優れ、戦略の一つの手段として、経済の発展・充実を図っています。

有名なものは「楽市・楽座」で、座を撤廃させ特別な特権を持っていた商人たちを排除し、誰でも自由に商売ができるようにした制度です。

これにより安土城下の町を活性化させ経済力をつけました。

また、「不必要な関所の廃止」は、当時関所において高額な通行料を払わねばならず、商人たちの負担になっていましたが、これを廃止することで人々の行き来が自由になり、さらなる経済の発展をもたらしました。

さらに、道路整備を行ったり、川に橋を架けたりと、商人の通行や物資の運搬がスムーズにいくようにしました。

このように商人たちの生活を考えた政策をとっています。

常識にとらわれない新しい発想の持ち主

身分に関係なく能力を持つ者を重要ポストにつけたり(明智光秀もその例ですが、最後に裏切られてしまいます……)、身分に関係なく庶民とふれあい、趣味であった相撲でも誰でも参加できる相撲大会を開催し、優秀なものがいれば武士・庶民に関係なく家臣として採用したという逸話が残っています。

そんな性格が庶民から慕われていたと言われます。

また、軍事力を増強するために「兵農分離」を行っています。

当時の兵士は武士ではなく農兵が大半を占めていました。

農兵は各地から集められていましたが、農業が忙しい時期は集めるのが難しかったようです。

そこで信長は農家に負担がかからないように、農家の次男・三男を城下町に住ませ兵士としました。

さらに、信長は戦に鉄砲を使っていましたが、経済発展に努め経済力をもったことで、火薬に使われる硝石を海外から輸入する独自のルートを持っていたとされています。

3行でわかる織田信長のまとめ

まとめ
  • 天下統一を目指し、戦略を立て実行する強い武将だった
  • 本能寺の変で天下統一のへ道半ばで無念の死を遂げた
  • 常識にとらわれず革新的な発想のもち主で庶民に慕われた優れた政治家だった

気性が荒く残酷なイメージの織田信長ですが、発想豊かで行動力があり、気さくな性格を合わせ持った優れた指導者の一面を見ることができました。

これらが日本の歴史上の人物で人気のある所以かもしれませんね。

織田信長について興味を持っていただけたら嬉しいです。

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