戦国時代

足利義昭は何をした人?わかりやすく簡単にまとめてみました

足利義昭

戦国時代において有名な武将は数々いますが、足利義昭(あしかがよしあき)を知っている人は少ないのではないでしょうか?

室町幕府第15代将軍ではありますが、歴史ドラマでも、いつも脇役的存在で、あまり目立ちもせず、人気がない、信長に追放された愚か者のイメージが定着している気がします。

そんな足利義昭ですが、本当はどんな人だったのでしょうか。

わかりやすく簡単にまとめてみました。

足利義昭のプロフィール

■1537年(天文6年)
第12代将軍足利義晴の次男として生まれる。
足利家の跡継ぎ以外の息子は出家させる慣習により、興福寺に入り覚慶と名乗る。

■1565年(永禄8年)
兄の13代将軍義輝と母が暗殺され、近江(滋賀県)に逃げる(永禄の変)。

■1566年(永禄9年)
環俗し足利義秋と名乗る。

■1568年(永禄11年)
室町幕府第15代将軍となり義昭と名を改める。

■1569年(永禄12年)
織田信長の出した殿中御掟を承認、さらに翌年追加の5か条を承認する。

■1572年(元亀3年)
信長が義昭に対し17条の意見書を提出。

■1573年(元亀4年)
武田信玄浅井長政朝倉義景と挙兵するが、槇島城の戦いで破れ京都から追放される(事実上の室町幕府崩壊)。

■1576年(天正4年)
毛利輝元を頼り備後国の鞆へ移る(鞆幕府始まる)。

■1588年(天正16年)
豊臣秀吉から山城国(京都府南部)に1万石を与えられ将軍職を辞職。出家。 

■1597年(慶長2年)
大阪で死去。
死因は腫物(享年59歳)。

足利義昭は何をした人?

3年の放浪生活の末、晴れて室町幕府15代将軍となる

兄・義輝が三好三人衆(当時室町幕府を牛耳っていた三好長慶が死んだあと三好家を先導していた三好長逸・三好政康・岩成友道)に暗殺されると義昭は興福寺に幽閉されていましたが、兄の家臣らによって助けられ逃げ出しました。

ここから放浪生活が始まります。

最初は甲賀の和田惟政を頼り、その後、近江矢島の六角義賢、若狭の武田義統、越後の朝倉義景と渡っていきます。

その間、正統な将軍家の後継者として室町幕府再興を目指し、義秋と名を変え、上洛の機会をうかがいます。

しかし、当時は戦乱の世の中、自分の領土を守ることで精一杯で、なかなか義昭を奉じて上洛してくれる大名はいませんでした。

そんな中、1568年(永禄11年)2月、三好三人衆が擁する従兄弟・義栄が第14代将軍となります。

やっとのことで、義昭は織田信長の支援を受け上洛できることとなりました。

同年9月上洛を果たすと、三好三人衆も京都から撤退、第14代将軍義栄も病死し、朝廷より宣下を受け、第15代将軍に就任しました。

織田信長と対立、室町幕府最後の将軍となる

信長の力を後ろ盾にした義昭と、将軍としての義昭の権威を利用したかった信長の関係は最初のうちは良好でした。

しかし、幕府再建を目指した義昭と武力で天下統一を目指した信長は次第に対立するようになりました。

そして、信長の出した殿中御掟、17条の意見書により対立は激化。

義昭は武田信玄浅井長政朝倉義景に呼びかけ信長包囲網と呼ばれる体制をとりますが、武田信玄の突然の死をきっかけに勢力は減退し、ついに京都から追放され、事実上の室町幕府崩壊となりました。

それでも義昭は移り住んだ備後国の鞆にて、再起を夢見て将軍職を続けていましたが(鞆幕府)、1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が死去。

1586年(天正14年)豊臣秀吉が関白太政大臣となり、「関白秀吉・将軍義昭」という時代が2年あまり過ぎた後、1588年(天正16年)秀吉から1万石を与えられ将軍職を返上しました。

足利義昭のエピソード・逸話

不運な将軍

もともと将軍職につくはずではなかった義昭は幼少のころより仏門に入っており、厳しい修行に耐え、住職になるまでになりました。

もちろん、将軍になるための教育など受けていませんでした。

そんな義昭に兄が殺されたことから将軍職が舞い込んできます。

しかし、もともと義昭には直属の部下などおらず、将軍家に生まれたというだけで、何の力もなかったのです。

兄の仇を討つべく将軍になるため、名だたる大名たちの力を借りていきました。

まさむね
まさむね
信長の力を借り、結果的に将軍にはなれましたが、信長に利用されたお飾り将軍とされ、無能なくせに野望を抱いた愚か者のイメージがついてしまったのもそのためかもしれません。

ただ、当時の実力者を動かしたことは事実なので、無能というのはちょっとかわいそうな気がしますね。

また、信長との戦いでは、武田信玄、浅井長政、朝倉義景と信長包囲網を作り戦いますが、突然の信玄の死により、優勢だった形勢は逆転、京都から追放されてしまいました。

まさむね
まさむね
何とも運のない将軍だったなあと思ってしまいます。

しぶとい将軍

京都から追放された義昭は毛利輝元を頼り備後国の鞆へ移りますが、まだ上洛を諦めていませんでした。

追放されたとはいえ、まだ現役の将軍職である義昭は、地方においてはまだまだ絶大な権力をもっており、この地で幕府としての体裁を構えたのです(鞆幕府)。

毛利輝元を副将軍にし、いざ信長討伐へ向かいましたが、そんな中、本能寺の変が起き信長が死んでしまったのです。

しぶとい将軍であった義昭もさすがにここで目標を失ってしまいました。

その後、豊臣秀吉が天下統一へ進んでいきますが、義昭は1588年(天正16年)まで将軍職についていました。

晩年は穏やかに大往生

早年は放浪生活を送ったり、追放されて諸大名を頼って生活していたことから「貧乏公方」と呼ばれたこともありましたが、晩年は将軍職を辞し、出家し昌山道休と名乗りました。

前将軍として優遇された生活を送り、足利将軍家で最も長い長寿であったとされています。

4行でわかる足利義昭のまとめ

まとめ
  • 室町幕府15代将軍となる
  • 室町幕府最後の将軍となる
  • 不運であったがしぶとい将軍だった
  • 貧乏公方と呼ばれたが穏やかに大往生した

戦国時代に生き、運命に翻弄された生涯を送った人物でした。

兄が殺されていなかったら興福寺で住職になり平穏な暮らしをしていたのだろうか、武田信玄が死んでいなかったら、信長が死んでいなかったら、義昭はどうなっていたのだろうかと考えてしまいます。

この記事を読んで、足利義昭について興味をもっていただけたら嬉しいです。

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