戦国時代

伊達政宗ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

伊達政宗

伊達政宗を知らない人はいないのではないでしょうか。

この記事では戦国時代の人物として抜群の知名度をもつ伊達政宗について、どんな人物なのか、何をした人物なのかをご紹介していきます。

どんな生涯をおくったのか、まずは確認していきましょう。

伊達政宗のプロフィール

  • 生誕 1567年8月3日
  • 死没 1636年5月24日
  • 享年 70歳

政宗は1567年、米沢城(山形県米沢市)に生まれました。

伊達家16代当主輝宗を父として、最上義光の妹・義姫を母として誕生しました。

父・輝宗はやがて悲劇的な死を迎え、母・義姫は最上義光とともに政宗にとって厄介な存在となっていきます。

伊達家は、当時すでに、奥州では米沢を中心として現在の宮城県南部にその影響力をもつ大勢力でした。

政宗はその名家をつぐべき長男として生まれたわけですが、幼いころは恥ずかしがりやで、家臣たちにその将来を危ぶまれていたと伝えられています。

母・義姫もなぜか長男の政宗を好かず、次男の小十郎にその愛情を注ぎました。

母からも愛されず、家臣にも疑惑の目を向けられる政宗でしたが、父・輝宗は政宗を深く愛していたようです。

まさむね
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輝宗の政宗への書状には細やかな心遣いが感じられます。

右目を失明

5歳のころ、病気のため右目を失明します。

まさむね
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右目を失ったことは政宗にとって大きなコンプレックスだったようです。

後年の肖像には右目を描かせた作品も残っているからです。

右目を失ったことは、恥ずかしがりやの少年をさらに内向的にしたのではないかと想像されます。

家督相続後の活躍

しかし、18歳で家督を継いだあとの政宗は、まさに別人のような活躍を見せ始めます。

あるいは、もともとの素質が開花したといっていいのかもしれません。

1585年に政宗の良き理解者であった父・輝宗が畠山善継に殺害されると、翌年には畠山氏の居城・二本松城を攻め、救援の蘆名・佐竹らの連合軍と干戈を交えます。

一年余りを費やし、二本松城を手に入れた政宗の次なる目標は会津の蘆名氏、そしてその背後にいる常陸(茨城県)の佐竹義重です。

まさむね
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「鬼義重」との異名をとる佐竹義重は百戦錬磨のつわものです。

この佐竹氏と事をかまえるためには、伊達家の背後、つまり北方を抑えておくことが肝要です。

現在の宮城県北部と岩手県南部に穏然たる勢力をもっていたのが大崎氏で、政宗が大崎氏の攻略に動きます。

しかし、大崎氏との戦は思うように進まず、さらに最上義光が不穏な動きを見せます。

母・義姫の斡旋で最上・大崎氏とひとまず和睦し、事なきを得ました。

同時期に蘆名氏では当主が幼年で死去し、後継として佐竹義重の息子義広が蘆名氏に入ってあとを継ぎました。

これで会津・蘆名氏は実質、佐竹氏の勢力圏です。

いよいよ伊達家と蘆名家の激突は目前に迫ってきました。

1589年、両者は摺上原で激突します。

伊達の軍勢およそ2万3000にたいして、蘆名軍は1万6000です。

この戦いに勝利した政宗は、福島県の浜通り以外のほぼ全域を勢力圏におさめます。

戦国時代の終焉

しかし、政宗の快進撃もここまででした。

豊臣秀吉による日本統一はもはや目前だったからです。

戦国時代はひとまず終わりを告げ、秩序形成の時代に入ったのです。

まさむね
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政宗があと10年早く生まれていれば、と言われる所以です。

その後、秀吉から徳川家康へと支配者が交代していく中で、政宗は家康との関係を深めていき、仙台藩62万石の大名として、その後の仙台市発展の基礎を築きました。

3代将軍・徳川家光には「伊達の親父殿」と慕われ、70年の生涯を畳の上で全うすることができました。

政宗も晩年はさすがに大人しくなりましたが、秀吉時代には一揆を扇動して関与を疑われ、徳川家の天下となっても、家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣するなど、野心的な試みをあきらめなかった点が、他の戦国大名とは一線を画すところです。

伊達政宗は何をしたひと?

24歳で奥州を席捲する

政宗が摺上原の合戦で蘆名・佐竹連合軍を破った後、伊達家の版図は最大となります。

居城の米沢をはじめ、宮城県の中部・南部、福島県の浜通り以外のほぼ全域を手中におさめたのです。

まさむね
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まさに大大名といったところで、驚くべきは、当時政宗が24歳の若者にすぎなかったことでしょう。

引き継いだ伊達家の所領があったにしても、たかが24歳の若者が家臣団をまとめあげ、さらに最上義光などの曲者を牽制しつつ、蘆名家を滅ぼすという大事業をやってのけるというのは、やはり只者ではない証拠です。

派手なパフォーマンスで危地を脱する

豊臣秀吉による全国統一の総仕上げともいうべき北条氏小田原攻めに政宗は遅参します。

まさむね
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理由はいろいろありますが、本質は政宗自身の迷いにあるのではないでしょうか。

何度となく催促されても、なかなか参陣を決断できなかったのには、自身の成功に裏打ちされた情勢認識の甘さがあったのかもしれません。

いずれにしても、政宗は参陣することを決断しました。

遅参した政宗は、秀吉の謁見もしばらくお預けになってしまいます。

さんざん待たされたあげく、いよいよ謁見というとき、政宗は死に装束といういで立ちで秀吉のもとに向かいます。

秀吉は持っていた杖を政宗の首にあて、「もう少し遅ければ、命はなかったぞ」と政宗に語りかけたそうです。

まさむね
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秀吉にしてみれば政宗はまだまだ若造にすぎませんが、死に装束で謁見の間にくるというパフォーマンスは秀吉の好みそうな行為です。

この死に装束パフォーマンスを政宗はもう一回使っています。

2回目は大崎・葛西一揆のときです。

北条氏を滅ぼし、日本全国を統一した秀吉は、奥州も再編成します。

伊達家は、領地だった会津や岩瀬、安積などを没収され、会津には名将・蒲生氏郷が移ってきます。

伊達家の北方に勢力をもっていた大崎氏と葛西氏は領地を没収され、かわりに秀吉の家臣である木村吉清が統治することになりました。

政宗は北に木村、南は蒲生氏郷と秀吉譜代の臣に挟み撃ちにされた格好です。

この木村領で大崎・葛西の旧臣を中心にして一揆が発生します。

実はこの一揆が政宗のそそのかしによるものではないか、という報告が氏郷から秀吉に伝えられます。

氏郷は証拠として政宗の花押入りの書状まで入手していました。

またもや政宗のピンチです。

今回も政宗は死に装束のパフォーマンスです。

しかも金箔の磔柱を持参するという念の入れようです。

証拠とされる書状については、知らないとしらを切り、捏造だとの主張を通しました。

秀吉も内心では政宗の関与があったと思っていたでしょうが、いくつかの領地の没収で済ませました。

しかもそのうえ、大崎・葛西の旧領地12郡まで政宗に与えました。

まさむね
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責任をもって大崎・葛西一揆を始末しろということでしょうか。

何だかんだいっても政宗は秀吉のお気に入りだったのでしょう。

政宗は喜び勇んで一揆を鎮圧しています。

ちなみに、今回のような一揆を扇動して領地拡大作戦を政宗は懲りずにもう一回使っています。

関ケ原の合戦のときです。

岩手県と青森県東部を領土とする南部氏の領内で起きた和賀一揆がそれです。

当主の南部信直に不満をもつ分子を扇動し、一揆をおこさせ、どさくさにまぎれて領土をかすめ取ろうというのです。

しかし、今回は政宗の扇動であることが完全にバレてしまい、徳川家康の「百万石のお墨付き」、味方になってくれたら100万石をやるという書状ですが、この約束が反故にされてしまうという落ちがつきました。

支倉常長をヨーロッパに派遣する

1613年には家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣しています。

その目的は通商とも、スペインの力を借りての幕府の転覆ともさまざまな説があります。

まさむね
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この遣欧使節の派遣もさしたる結果を生んだわけではありませんでしたが、ヨーロッパまで視野にいれるというのは、政宗のキャラクターにふさわしい雄大さではありますね。

伊達政宗のエピソード・逸話

政宗のエピソードは数多くありますが、複雑な彼のキャラクターを象徴する二つのエピソードを紹介しましょう。

武人としての政宗と文人としての政宗と。

大坂の陣で敵もろとも味方の軍も皆殺しにする

これは大坂夏の陣での出来事です。

5月7日の道明寺口の戦いで、伊達軍の前方にいた神保相茂軍36名を銃撃し、皆殺しにしてしまった事件です。

戦後、神保家は伊達家に抗議しましたが、政宗は「伊達の軍法に敵味方の差別はない」と相手にせず、一万石に満たない小大名であった神保家はそのまま泣き寝入りするしかなかったということです。

和歌、茶道などに通じた教養人

幼いころから虎哉宗乙のような名僧の教育を受けた政宗は、和歌・書・茶道などさまざまな分野で深い教養を身につけていました。

特に和歌はお気に入りだったようで、多くの歌が残されています。

代表的なものを一首ご紹介しましょう。

いつ見ても はじめてむかふ心かな たびたびかはる不二のけしきは

不二は富士であり、また仏教でいう対立のない世界、すなわち「空」であります。

ささやかな文言から、政宗の教養の深さが伺えます。

3行でわかる伊達政宗のまとめ

まとめ
  • 24歳の若さで奥州随一の勢力にのし上がる
  • こそこそした陰謀が好きだが、露見したときの謝罪は派手
  • 戦場では味方でも容赦しない冷徹さ

人気実力ともに戦国屈指の武将である伊達政宗は、実に多彩な側面をもった魅力的な人物です。

政宗に興味を持たれた方は、ぜひ仙台市にも足をお運びください。

瀟洒な東北の都会・仙台市で、政宗を偲ぶのも素敵な経験になると思いますよ。

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