戦国時代、現在でも注目される武将たちは日本の中心だった京都の近くにいて、戦を繰り返していました。
反面、あまり注目されていないのが東北地方です。
しかし、東北にも有名武将たちと並べて全く遜色がない英雄がいました。
それが最上義光(もがみ よしあき)です。
目次
最上義光のプロフィール
最上義光は1546年生まれ。
出羽最上=山形を支配した最上家の祖・最上兼頼から数えて11代目にあたります。
義光が生まれた年に足利義輝が室町幕府第十三代将軍になっています。
12歳のとき、父親の最上義守とともに上洛して足利義輝に拝謁。
「義」の一字をいただいて義光という名になりました。
義光18歳のとき、妹の義姫が、領土を接する伊達家の伊達輝宗に嫁ぎます。
この輝宗の嫡男が伊達政宗。
義光は政宗の伯父にあたります。
実は最上氏は、義守の養父・最上義定の代に伊達氏と戦って敗北し、伊達家の配下になっていました。
義守は、義定に嫡男がいなかったため、家督相続に伊達家が介入し、最上の傍流から養子に迎えられたという人物。
伊達家から強い影響を受けていました。
対して義光は、最上を伊達から独立させようと画策していました。
そのため父・義守との間で対立が生じ、結果義光が家督を相続して義守は出家することで収まりました。
伊達家の支配下にあった最上家を独立させる
義光26歳のとき、義守は義理の息子である輝宗と内通して義光を攻めます。
しかし、その攻撃をしのいだ義光は、輝宗と和議を結ぶとともに伊達から独立を果たしました。
とはいえ、伊達家の配下に置かれていた最上氏には力がなく、領土内には複数の勢力が割拠する状況。
独立したのち、義光はまず最上の支配権確立に努めました。
豊臣政権下での活躍
義光は、伊達輝宗との和睦から10年を費やして、戦や和睦、あるいは謀殺などで各勢力を攻略し、最上全域を支配下に起きました。
義光42歳のとき、最上氏の親戚筋にあたり、同じように伊達の配下にあった大崎義隆を、すでに伊達家当主となっていた政宗が攻めます。
これは、大崎氏の内紛を利用して、独立を阻止すべく政宗が仕掛けた戦でした。
義光は大崎氏に加勢して政宗の軍を破ります。
そして、妹の義姫を介入させ、両者を和睦させました。
同年、義光は豊臣秀吉から羽州探題のポストを与えられます。
1590年の秀吉の小田原攻めでは、義光は政宗より遅れて参陣しました。
ただ、意図的に遅参した政宗とは違い、出陣を前に逝去した父親の葬儀を行っていたためで、徳川家康に根回ししていたこともあって、政宗のようなパフォーマンスを行わずに許されています。
長谷堂城の戦い
1600年、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、徳川家康が会津征伐に出陣。
最上を含む東北諸勢力は家康側につきます。
ところが家康が会津に着く前に石田三成が挙兵したため、家康は関ケ原へと転進。
残された諸家は、それを知り撤退。
義光も上杉との和睦を模索するものの失敗し孤立。
上杉は直江兼続に2万の兵を与えて最上を攻撃させます。
義光はその半分以下の兵力で善戦するものの、長谷堂城を包囲されてしまいます。
しかし、家康が関ヶ原であっさり勝ってしまったため、兼続はその包囲をといて撤退。
義光は九死に一生を得ました。
結果的に東北に上杉を釘付けにすることに成功した義光は、家康より57万石の所領を安堵され、出羽山形藩の藩祖となります。
徳川の支配が安定すると、戦から開放された義光は内政につとめ、山形藩を発展させていきました。
68歳のとき、体調不良をおして駿府城赴き、家康に拝謁した義光は、家康から薬を与えられました。
その薬も功を奏せず、69歳のとき山形城で病没しました。
最上義光は何をした人?
最上義光は、没後に知勇あわせもつ武将として讃えられています。
山形の安定化、発展につとめた人物でした。
硬軟併せ持つ戦上手
織田信長は戦国大名の中でいち早く鉄砲の有効性に気が付き、鉄砲軍団を作ったことで知られています。
それがいかに正しかったかは、1575年の長篠の戦いで証明されました。
でもそのような先進的な発想を持っていたのは信長だけではありません。
義光もまた鉄砲に目をつけて、わざわざ堺から鉄砲鍛冶を招聘しています。
長篠の戦いの前年、1574年に起きた伊達輝宗との戦いを有利に進められたのも鉄砲隊のおかげだと考えられています。
直江兼続の山形侵攻において、半分以下の兵力でもちこたえたのも鉄砲隊の火力があったからでした。
しかし、義光の強さはそうした戦闘力のみではありませんでした。
10年に及ぶ最上平定では、敵の一部を調略により裏切らせ、内紛を起こさせるといった作戦を何度か成功させています。
最上をさしおいて信長に出羽守への推戴を願い出た白鳥長久は、偽情報でおびき寄せて殺しています。
しかし、兵力を消耗せずに勝利するのは兵法にもかなったやり方で、優れた戦上手であると言えます。
内政につとめ領民に慕われる
山形藩を得た義光は、山形城下の経済発展を行いました。
まず商人や職人に城下の土地を与え、税金を免除して商売を始めやすくしています。
最上川を整備し水運を活発化。
酒田港への道路を整備するなどして、藩の運輸能力を高めました。
さらには農業用水を確保して農地拡大により生産力を向上させています。
領内では年貢以外の税金をとらない殿様だとして領民から慕われていました。
また、病人、高齢者には扶持米を与えるという福祉政策も行っています。
最上義光のエピソード・逸話
哺乳類は寒冷地だと体温維持のために大型化します。
その影響なのかどうか、最上義光は180cm以上という大男で、大力の豪傑でした。
山形には義光の剛力伝説のようなものがいくつか残っています。
しかし、だからといって傍若無人ということはなく、むしろ気が優しい力持ちだったようです。
妹大好き兄ちゃん
義姫は義光の2歳年下の妹です。
義光はラノベ主人公並みに妹のことをかわいがっていたようで、義姫が伊達に嫁いでからも、「兄ちゃんまた義姫ちゃんと会っていろんなことお話したいよー」などという手紙を出しています。
義光の読みが「よしあき」だと判明したのも、妹への手紙にひらがなでそう書いてあったおかげでした。
妹のほうもそんな兄を慕っていた様子で、夫の伊達輝政と兄の争いでは、なんでお兄ちゃんと仲良くできないのと輝政のほうを諌める形で間に入りました。
後に大崎家を巡って義光と政宗が対立したときも、義光は妹の説得を受けて停戦しています。
鮭大好き
最上義光は、鮭好きとして知られています。
家臣に「鮭様」と呼ばれるレベルで鮭が好きだったようです。
義光が偉いのは、自分が鮭を食べるだけではなく、布教活動もしていたということ。
大好きな鮭を独り占めせず、家臣に配り、甥にあたる伊達政宗にプレゼントし、徳川家康にも献上しています。
5行でわかる最上義光のまとめ
山形の大名最上義光のまとめです。
- 仙台伊達家の支配下にあった最上家を独立させる
- 山形を統一
- いち早く鉄砲軍団を組織し、寡兵をもって大軍に対する
- 一代にして領土を57万石に拡大
- 領地の経済、文化を発展させる
領地を統一、発展させ、鉄砲隊を組織、調略も武勇も強い。
これはまるで織田信長です。
最上義光がもう少しはやく、そしてもう少し都の近くに生まれていたら、天下統一を成し遂げたのは最上義光だったかもしれません。