戦国時代

織田信秀ってどんな人?側室が多かった?織田信長との関係は?

織田信秀

織田信秀はあの織田信長のお父さんです。

葬儀の時うつけ者の格好をした信長が、位牌に向かって抹香を投げつけた人と言った方がピンとくるかもしれませんね。

織田信秀は信長が天下を取るための足場を築いた人でもあったのです。

この記事ではそんな信長の父・信秀についてお話ししましょう。

織田信秀のプロフィール

  • 生誕 1511年
  • 生誕地 尾張国 勝幡城(しょばたじょう)現 愛知県安西市
  • 別名 三郎 尾張の虎
  • 死歿 1552年
  • 享年 42歳

織田信秀は何をした人?

織田弾正忠家

織田信秀は1511年勝幡城主で清洲三奉行の一人である織田信定(おだのぶさだ)とその正室・含笑院(がんしょういん)の長男として生まれました。

この頃尾張はまだ統一されていませんでしたから、たくさんの勢力がありました。

信定は尾張の守護代「織田大和守家」(おだやまとのかみけ)の庶流・清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)のひとつ弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の家を継いでいました。

「清洲三奉行」とは、因幡守家(いなばのかみけ)、藤左衛門家(とうざえもんけ)そして弾正忠家のことです。

信定は1521年から1528年にかけて勝幡城(しょばたじょう)を築城し、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)の門前町の津島を繁盛させていました。

まさむね
まさむね
お金には不自由してなかったということですね。

1526年ごろ信秀は家督を譲られています。

1532年主家である織田逹勝(たつかつ)と三奉行の一人藤左衛門と争いになりますが、信秀は講和しています。

和解のために、京都から、蹴鞠の宗家・飛鳥井当綱(あすかいまさつな)を招き、勝幡城で蹴鞠会を催しました。

そのあとは、清洲城に舞台を移して、連日蹴鞠会をしました。

まさむね
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これは100人以上の見物人を集め大変話題になりました。

主家との和解という名目で、自らの財力を見せつけたものになったのです。

1534年この年織田信長が生まれました。

多くの戦い

1538年今川氏豊の那古野城(後に徳川家の城となる名古屋城)を奪い勢力を拡大していきます。

信長は元服前にこの名古屋城を譲られています。

1539年には古渡城(ふるわたりじょう)を作り居城として経済的基盤となる熱田を支配しました。

次に信秀は末森城をたて居住します。

経済的にも力のあった信秀は、朝廷にも献金をします。

そして「従五位下」(じゅごいのげ)を叙位されました。

またときの将軍・足利義輝にも拝謁し、朝廷に4000貫文献上しています。

戦さの面では、松平清康(家康の祖父)が信秀の支配下にある品野城や岩崎城を奪い、1535年守山まで攻めてきました。

しかしここで清康が家臣の阿部正豊に討たれるという俗にいう「守山崩れ」が起こりました。

混乱する松平家の隙をつき信秀は三河へ入り1540年安祥城(あんじょうじょう)を攻略しこの城を長男の信広に任せました。

1542年には美濃の朝倉孝景と手を組み、斎藤道三を攻め大垣城を落としました。

そうして主家への主従関係を壊すことなく、一方で地位や権力は主家をはるかにしのいでいたのでした。

大和守家が攻めてきても争うものの和解し、絶対にたたき潰そうとはしませんでした。

力の陰りと死

主家を大事にする信秀は、外に向けての攻撃を緩めませんでしたが、その勢力に陰りが見え始めました。

1544年稲葉山城を攻めます。

これは斎藤道三の反撃に遭い敗北します。

1548年織田信清(弟・信康の子)と織田寛貞が謀反を起こしますがこれも鎮圧し、服従させています。

その間に大垣城は斎藤道三に奪い返されてしまいました。

第2次小豆城の戦いで、今川の太原雪斎(たいげんせっさい)に破れています。

信秀は、今川と斎藤に押され始めました。

そこで信秀は斎藤道三と和解し、道三の娘・帰蝶を嫡男信長の嫁としてもらうことになりました。

1549年今川は太原雪斎を送り、安祥城を攻めました。

城は落ち信広は捕らえられてしまいます。

そして人質として預かっていた松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)と信広を交換することで信広を助けます。

しかし三河での勢力は完全に失ってしまったのです。

この頃から信秀は病に侵されます。

そして今川の勢力が増大している中、1552年末森城において死去したのでした。

享年42歳でした。

葬儀は萬松寺で執り行われ、僧侶300人を集めた大々的なものだったと言われています。

織田信秀のエピソード・逸話

居城と転々とした

当時の武将は生涯一つの拠点となる城を動くことなく戦っていました。

しかし織田信秀は、その当時には珍しく居城を転々とした人でした。

最初は勝幡城から那古野城へ移り、次は古渡城と、次々に居城を変えていきました。

まさむね
まさむね
それには信秀の勢力を拡大するという目的があったからでしょう。

信長との関係

若い頃から「大うつけ」と呼ばれ、手のつけられない暴れん坊だった信長になぜ信秀は家督を譲ったのでしょうか。

それは信長が正室の生んだ嫡男であったということもあるでしょう。

しかし信秀は信長の中に、大きな力が眠っていることにいち早く気がついていたのではないでしょうか。

まさむね
まさむね
信長も信秀の葬儀の場で、抹香を投げつけたのは父親が憎かったからではなく返って、父を慕っていたからかもしれませんね。

別れの悲しみを表現したのでしょう。

子沢山

織田信秀という人はかなり子宝に恵まれた人でした。

まさむね
まさむね
ということは多くの側室がいたのですね。

そして息子12人娘10人以上の子供をもうけたそうです。

信長にはたくさんの兄弟姉妹がいたのでした。

4行でわかる織田信秀のまとめ

まとめ
  • 織田信秀は織田信長の父親
  • 居城を転々としていた
  • 門前町でお金を蓄えていた
  • 主従関係を大事にした

織田信秀という人は、戦国武将として多くの戦を重ね、少しでも領土を広げようと戦った人でした。

それは尾張の虎と言われた所以でしょう。

そしてそれは、息子である信長によって引き継がれて行ったのです。

信長が天下統一に近づいたのは、信秀が基盤を固めておいてくれたからなのだと言っても間違いではないでしょう。

織田信長についてはこちらの記事で詳しくまとめていますので、是非ご覧ください。

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