明治時代

福沢諭吉ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

福沢諭吉

「福沢諭吉?ああ、あの1万円札の人でしょ?知ってる知ってる。」

こんなふうに答える方、あなたの周りにもきっと1人はいるのではないでしょうか。

確かに、現代のイメージでは福沢諭吉と言えば1万円であり、1万円と言えば福沢諭吉になっています。

身近にあり何度も目に触れるものですから、そうなってしまうのも仕方ないとは思います。

しかし、お札にも書かれるほどの功績を残した人物のことを何も知らないのは、ちょっと恥ずかしいですよね?

福沢諭吉は一体どんなことを成し遂げた人で、どんなエピソードがあるのでしょうか。

簡単にまとめてみました!

福沢諭吉のプロフィール

福沢諭吉(ふくざわゆきち)1835-1901。

日本の武士、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者……と、様々な経歴を持っています。

ちなみにもともとは「ふくさわ」と発音されていましたが、明治以降は「ふくざわ」と呼ばれるようになりました。

福沢諭吉は何をした人?

冒頭にも書いたように、「1万円札の人」という印象がかなり強い福沢諭吉ですが、具体的にはどんなことを成し遂げたのでしょうか?

彼を語るうえで欠かせないものは以下の通りです。

  • 蘭学
  • 咸臨丸
  • 慶應義塾
  • 学問のすゝめ(すすめ)

それでは、詳しく見ていきましょう。

蘭学を学ぶ

蘭学とは、要するにオランダ語のことです。

諭吉は19歳ころから長崎で蘭学を習い、同時に日本とは異なる外国の思想も学んでいきました。

その背景には、黒船来航により砲術の需要が大きくなったことがあります。

まさむね
まさむね
オランダ流の砲術を学ぶにはオランダ語の源流を学ぶ必要がある、と考えたわけですね。

砲術化の山本物次郎の家に居候していた彼は、そこに訪れる様々な客からアルファベットなどの知識を学び、成長していきます。

それが、後の諭吉の思想に大きく影響してくるのです。

咸臨丸でアメリカへ

1859年、日本とアメリカとの間に日米修好通商条規が締結され、その批准のために使節団がアメリカへ派遣されました。

その護衛として派遣されたのが、咸臨丸(かんりんまる)です。

諭吉は咸臨丸の艦長である木村摂津守の従者として、ともに渡米しました。

彼は後に、「この咸臨丸での航海は日本人の世界に誇れる名誉である」と述べています。

アメリカに着いた諭吉は、その日本とのあまりの文化の違いに衝撃を受けます。

技術の差はさることながら、国に対する思想すら両国で全く異なっていたためです。

こうして日本の遅れを痛感させられた彼は、帰国後国民の意識改革教育のために奔走することになります。

慶應義塾の設立

1858年に蘭学塾を設立した諭吉は、1868年、33歳の時にそれを芝(港区)に移し、「慶應義塾」と名付けました。

以来、彼は教育活動に専念していくことになります。

欧州で政府から独立した階級が国家を作り上げていくという国の在り方に共感した諭吉は、「一身の独立なくして一国の独立なし」であるとし、一人一人の独立を塾則と掲げています。

まさむね
まさむね
つまり、「国に従属するのではなく、己の頭で考えて行動する意思を持て」ということを言いたかったのですね。

ちなみに、現在日本の名門大学として名を連ねる慶應義塾大学は、1890年(私立大学としては1920年)から発足しています。

明治以降の近代日本教育制度と大学制度の立ち上げモデルでもあり、私立大学として最初に授業料を徴収した大学でもあります。

まさむね
まさむね
日本を代表する大学には、それに相応しい歴史と功績があるのですね。

学問のすゝめ(すすめ)

学問のすゝめ(すすめ)は1872年に初編が出版されて以降、数年かけて発刊され、1876年に全17編(後に前書きが追加)で完成されました。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」というフレーズは、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

勘違いされやすいですが、諭吉はこの本で「人は生まれたばかりのころには上下の差などないのに、後天的に貧富の差や身分の差が生まれてしまうのは、学問があるかないかが一番の原因だ」という主張をしています。

まさむね
まさむね
つまり、人に上下の差はないが、学問に関しては上下の差が生まれるのが常だから、下になりたくないならよく勉強しなさい、と言っているわけですね。

また後半では、数百年続く日本のアナログな思想を廃止し、一人一人が民主主義国家の主権者と自覚して行動するべきだ、とも述べています。

平易な文体と新しい主義思想の促進は多くの国民の心を揺さぶり、広く受け入れられました。

最終的には、300万部を超える大ベストセラーになったとも言われています。

福沢諭吉のエピソード・逸話

男女平等を主張した

欧米で女性解放運動が行われていることを知った諭吉は、その思想に深く感銘し、日本にも広めるべきだとしてこれを紹介しました。

具体的には、一夫多妻制や妾(愛人のようなもの)を否定し、女性は男性と同じように自由な存在でなければいけないと主張したのです。

事実、慶應義塾の幼稚舎では日本の教育に先駆けて男女ともに教育するなどしています。

まさむね
まさむね
主張するだけでなく、自ら行動に移し、その思想を根付かせようとしていたのですね。

著作権の考え方を根付かせた

当時のイギリスにあった「出版物の管理と販売の権利は作者に独占させる」という思想を日本に持ち込んだのが福沢諭吉です。

1868年、彼は海賊版の取り締まりを求める願書を新政府に提出し、翌年には著作権について記された出版条例の交付を実現させています。

また、自ら出版社を作った際には、他者の著作に自作の無断引用が発覚し、厳しく非難したといいます。

まさむね
まさむね
今でも重要視される著作権ですが、その大本には100年以上前の福沢諭吉の存在があったんですね。

勝海舟と仲が悪かった

咸臨丸には、福沢諭吉の他に勝海舟も乗っていました。

しかしこの二人、相当仲が悪かったようで、最期まで険悪な関係だったといいます。

ただ、諭吉は海舟に借金を申し込んでいたり(断られているが)、海舟は海舟で自分の見込んだ人物をわざわざ慶應義塾に入学させていたりと、お互いにそれなりの関わりは持っていました。

まさむね
まさむね
喧嘩するほどなんとやら、というやつなのでしょうかね(笑)

4行でわかる福沢諭吉のまとめ

まとめ
  • 若いころから蘭学を学び、異国の思想を身に着けた
  • 渡米した際に日本と外国の差に衝撃を受け、以降日本の思想改革に努めた
  • 慶應義塾を創設し、日本の教育改革に大きな功績を残した
  • 教育の大事さと意識改革の必要性を記した著書『学問のすゝめ』は大ベストセラーになった

日本の閉ざされた文化に疑問を持ち、外国で学んだ福沢諭吉は、その根本である日本人の思想から改革を推進していきました。

それが、現代日本の基盤である民主主義思想へと繋がっているわけです。

今の日本の基礎を作り上げたといっても過言ではない福沢諭吉。
1万円札の肖像画として使われるのも納得ですね!

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