戦国時代

松永久秀ってどんな人?信長を裏切った悪党って本当?

松永久秀

松永久秀(まつなが ひさひで)についてどんなイメージをお持ちですか?

悪党、卑劣、裏切り、神仏を恐れない男、こんなところでしょうか。

久秀は複雑な人物です。

戦国時代を象徴しているような、現代の我々には理解しがたい一面を持っています。

まずは、どんな人生を送ったのか、その生涯を一瞥してみましょう。

松永久秀のプロフィール

  • 生誕 1510年(1508年説もあり)
  • 死没 1577年10月10日
  • 享年 68歳

松永久秀は謎の多い人物です。

生年も従来は1510年とされてきましたが、最近は1508年説も有力です。

出身地もよくわかっていません。

阿波(徳島県)、摂津(大阪府)、山城(京都府)などさまざまです。

斎藤道三と同郷という説まであります。

まさむね
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典型的な成り上がり者と言っていいでしょう。

三好長慶の忠実な家臣

三好長慶のもとで頭角をあらわし、やがては三好家の中で最重要人物となっていきます。

当初は公家や寺院との折衝役として活躍したところをみると、相当な教養人であったことがうかがえます。

茶道具のコレクターとしても知られており、織田信長に献上した名器・九十九髪や、久秀と運命をともにした名器・平蜘蛛を所有していたことは有名です。

最初は実務官僚のような立場だった久秀ですが、徐々に戦場においてもその能力を発揮していき、1560年には大和(奈良県)一国を領有するまでになります。

形式上は三好家の家臣ですが、名実ともに一国一城の主です。

それでも、三好長慶が存命中は、久秀も忠実な家臣でした。

まさむね
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長慶には、ここまで引き上げてくれた恩を感じていたのかもしれません。

三好長慶の死後、甥の義継と対立

しかし、いくら有能とはいえ、久秀はどこの馬の骨ともわからない成り上がり者です。

三好家譜代の家臣たちとそりが合わなかったであろうことは、容易に想像がつきます。

長慶とその長男・義興の死後、家中の対立が表面化することになります。

長慶亡き後、三好家の当主となったのは、甥の三好義継です。

そして、義継を補佐する三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が実権を握ります。

最初のうちは、久秀と三好三人衆も共同で足利義輝殺害に関与するなど、行動をともにする面も見られましたが、徐々に対立関係があらわになっていきます。

また、当主として担がれた義継も、実質的な支配者である三好三人衆との対立を深めていき、義継・久秀vs三好三人衆という構図になっていきます。

信長と三好三人衆

皮肉にも両者の内戦を終結させたのは、足利義昭を奉じた織田信長です。

情勢を読み誤らなかった久秀は素早く信長と誼を通じ、反発した三好三人衆は信長に蹴散らされてしまいます。

信長の登場によって政敵に対して優位に立てた久秀ですが、信長は久秀の意のままになるような存在ではありませんでした。

信長は久秀を優遇しましたが、久秀にとって信長の風下に甘んじるのは面白くなかったのかもしれません。

足利義昭の信長包囲網が構築されていく中で、ついに武田信玄が軍を動かすと、久秀は三好義継や敵であった三好三人衆とともに反旗を翻します。

しかし、肝心の信玄が中途で病死し(1573年)、信長包囲網は瓦解し、義継も信長に殺され、三好三人衆も完全に壊滅しました。

久秀は信長に降伏し、赦され、名刀・不動国行を献上しています。

久秀の最期

しかし、久秀は静かな余生を送ることはできませんでした。

1577年、上杉謙信や毛利輝元ら反信長勢力の動きが活発になると、久秀は再び信長に背きます。

まさむね
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なぜ、勝ち目のない反乱に及んだのか、真相は不明です。

どうしても信長とは相いれない部分があったのかもしれません。

久秀討伐のために9月27日に織田信忠が出陣し、10月10日、松永久秀は息子の久通とともに、信貴山城にその生涯を閉じたのです。

松永久秀は何をした人?

三好長慶のもとで頭角を現す

三好長慶は細川晴元の家臣として台頭し、やがて主君の晴元を近江に追放して、畿内・四国などに領地を有し、一時は天下の権を握って絶大な権力をふるいました。

現在では長慶の治世は「三好政権」と呼ばれ、織田信長の先駆として高い評価を得ています。

松永久秀は長慶の右筆、つまり書記としてキャリアをスタートしました。

基本的には実務官僚としての働きが多かったのでしょう。

やがて、久秀は朝廷や寺社勢力との折衝で名前が知られるようになっていきます。

まさむね
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三好政権の外交担当といえばいいでしょうか。

代表的な例として、久秀の家臣・楠正虎の復権をあげておきます。

これは、かつての南北朝時代の楠木正成を祖とする正虎が、朝敵としての汚名を晴らすため、朝廷に赦免を奏上し、久秀が正親町天皇と交渉した件です。

北朝の後継である正親町天皇が南朝の忠臣・楠木正成を赦免するというのは、かなり思い切った措置です。

赦免の勅諚のみならず、正虎の河内守任官まで許されました。

まさむね
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久秀の調停役としての優れた手腕がよくわかる事案といえましょう。

また、長年、三好長慶と中央政界の勢力争いを繰り広げた13代将軍・足利義輝との和睦がなったあと、長慶の長男・義興と久秀は義輝の御供衆に加えられています。

御供衆は文字通り将軍のそば近く仕える御供であり、名誉職です。

驚くべきは、久秀が嫡男の義興と同格の扱いを受けていることでしょう。

全くの無名から三好家の外交・事務を総覧する立場まで上り詰めたといえます。

久秀が、長慶存命中は下剋上的な振る舞いもなく忠実な部下であったのは、多くの人が認めるところです。

まさむね
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やはり長慶には恩義を感じていたのでしょう。

13代将軍・足利義輝殺害に関与する

この事件は1565年5月19日に二条御所にて発生しました。

久秀の息子・松永久通と三好三人衆および三好義継の軍勢およそ1万が義輝を襲い、殺害した弑逆事件です。

久秀は大和国にいたため、直接この事件に参加はしていません。

ですが、義輝殺害に関して、久秀が無関係だったとは考えられません。

長男の松永久通がこの事件の実行者として参加しているからです。

まさむね
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当然、久秀の同意があったと考えていいでしょう。

義輝が殺害されるに至った経緯を簡単に説明すると、将軍職をただの神輿にしておきたい三好・松永勢力と、将軍職の権威回復に熱心な義輝との対立が直接の原因です。

そもそも、三好家と足利義輝は、三好長慶の時代から幾度となく干戈を交えてきた間柄です。

事実上の実力者の長慶と、名目上の支配者の義輝との長い戦いがあったわけです。

長慶は義輝の存在が疎ましかったでしょうが、さすがにその命までは奪いませんでした。

長慶も主君殺しの汚名は避けたかったと見えます。

この両者の均衡が破れたのは、長慶の死によってです。

義輝は、長年の宿願を達成しようという姿勢をあらわにしてきました。

将軍職をただの傀儡としたい久秀や三好三人衆にとって、もはや義輝は用済みでした。

しかし、義輝を葬った久秀と三好三人衆も、覇権をめぐって内乱へと突き進んでいくのです。

松永久秀のエピソード・逸話

戦国の三大梟雄

松永久秀は、その特異な生きざまからか、戦国の三大梟雄の一人に数えられます。

裏切り、謀略、傍若無人の振る舞いなど、悪党としてのイメージで見られがちです。

彼が油断ならない人物だったことは確かであり、行動の動機も不明な点が多々あります。

特に最後に織田信長に背いた件などはその最たるものでしょう。

信長は比較的、久秀には寛大だったにもかかわらずです。

武田信玄の西上の際に久秀は信長に背きましたが、その命は取りませんでした。

1577年に再び背いたときも、信長は松井友閑を使者として、説得を試みています。

この試みを完全に無視したことによって、人質として信長に差し出していた久秀の孫二人(13歳と12歳)は、六条河原で斬られてしまいます。

まったく勝算のない反乱を、なぜ久秀は実行したのか。

この点なども、松永久秀をエキセントリックな人物に思わせる一つの要因といえます。

東大寺大仏殿を焼く

この事件は1567年に起きました。

事の発端は、三好政権を牛耳る三好三人衆と松永久秀の勢力争いにあります。

長年にわたる不倶戴天の仇である両者の対立は、主君三好長慶の没後、一気に表面化します。

さらに、三好長慶の甥である三好義継が久秀と結び、大和の筒井順慶が三好三人衆に加担したことで、事態が大きくなっていきました。

三人衆・筒井連合軍と久秀・義継連合軍の激突となり、奈良東大寺も戦場として巻き込まれる形になりました。

この戦乱で、東大寺大仏の頭部が焼失し、さらに伽藍、念仏堂なども焼失しました。

この事件は当時から有名だったようで、織田信長も松永久秀のことを大仏を焼いた男として徳川家康に紹介しています。

現在では、久秀が積極的に大仏を焼こうとした証拠はないとして、戦闘時の混乱による失火での焼失、という見解が有力のようです。

まさむね
まさむね
もちろん、その真相はわかりませんが、当時も今も、松永久秀が大仏を焼いたという汚名を着せられているのは確かです。

3行でわかる松永久秀のまとめ

まとめ
  • 己の才覚だけでのし上がる
  • 取り立ててくれた三好長慶には従順だった
  • 将軍殺害、東大寺大仏焼失など悪名を負わされる

松永久秀は不思議な人物です。

その行動原理には不明確な点が多いのです。

それが、彼自身のキャラクターに由来するのか、それとも、複雑な畿内の政治状況に起因するのか、あるいはその両方なのか、今後の研究が俟たれます。

一つだけはっきりしているのは、彼の人生が「下剋上」の代表として見られているということです。

三好長慶の書記係から、長慶の死後、畿内の有力者にのし上がっていくさまは、たしかに「下剋上」と言えるかもしれません。

「下剋上」の徹底的な体現者は豊臣秀吉でしょうが、秀吉は久秀と違ってダークなイメージで語られることはありません。

むしろ庶民に愛されているのが秀吉でしょう。

ここに松永久秀の謎をとく鍵がありそうです。

まさむね
まさむね
「下剋上」の体現者という意味では秀吉と同じですが、その歩む道が違うのではないでしょうか。

秀吉は公道を堂々と行進したのに対し、久秀は裏道を通らざるを得なかった、そんな感じがします。

松永久秀は影のあるキャラクターとして、これからも戦国ファンの心をつかんでいくのではないでしょうか。

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