鎌倉時代

楠木正成ってどんな人?後醍醐天皇との関係は?赤坂の戦いから湊川の最期まで

楠木正成

楠木正成(くすのき まさしげ)ほど絶賛とともに言及される武将も珍しいでしょう。

名将として万人に認められる日本史でも稀有の人物です。

この記事では楠木正成をご紹介します。

優れた知性を持ちながら戦場の露と消えた正成は、悲劇的なヒーローとして今も根強い人気を誇っています。

まずはその生涯と、彼が活躍した時代を一瞥してみましょう。

楠木正成のプロフィール

  • 生誕 不明
  • 死没 1336年5月25日

楠木正成の生年は不明です。

出自も不明です。

さまざまな説がありますが、確実なところはわかりません。

父親も楠木正遠であろうといわれますが、はっきりしないそうです。

居館は河内(大阪府)にありました。

地元の豪族とも、北条氏得宗家の被官ともいわれますが、確証はありません。

ただ、本人は橘氏の後裔であると自称していたようです。

まさむね
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幼いころに寺で仏典を学んだという伝承もありますから、当時としてはかなりの教養人だったのではないでしょうか。

赤坂城の戦い

後醍醐天皇が挙兵して元弘の乱が始まると、正成は即座に天皇に応じ赤坂城に挙兵します。

幕府は正成に大軍を差し向け、1ヵ月ほどの激しい攻防ののち、赤坂城は陥落しますが、正成は無事に脱出します。

まさむね
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長期戦には適さない赤坂城をあえて捨てて、再起を図ったとする説もあります。

後醍醐天皇は捕らえられて隠岐の島に配流され、元弘の乱は収束したかに見えましたが、正成はひそかに軍勢を集め、タイミングを狙っていました。

千早城の戦い

1332年、正成はふたたび赤坂城を奪取し、さらに千早城も築き、幕府の攻撃に備えます。

幕府は再度大軍を持って正成を包囲しますが、正成の奇策に翻弄され、千早城を攻め落とすことができません。

長引く包囲戦は、着実に幕府の権威を失墜させ、赤松則村の挙兵を招き、後醍醐天皇の隠岐脱出で幕府討伐が現実のものとなってきます。

建武の新政

とどめは足利尊氏の離反でした。

名声・実力ともに衆目の認めるところの尊氏の離反によって鎌倉幕府の命脈は事実上潰えました。

新田義貞の鎌倉攻略後、建武の新政がスタートしますが、朝廷は急進的な政策で人心の離反を招き、その不満の受け皿として台頭してきたのが足利尊氏です。

正成や北畠顕家によって一度は九州へと逃げた尊氏でしたが、すぐさま九州の武士団とともに京都めざして東上を開始します。

楠木正成は正面衝突の愚を説き、京都におびき寄せて袋のネズミにする案を奏上しますが、聞き入れられません。

湊川の戦い

1336年、両軍は湊川(神戸市)で激突します。

尊氏の策にまんまと乗せられた新田義貞は戦線を離脱し、残された正成軍は奮戦もおよびませんでした。

楠木正成は湊川にその生涯を閉じたのです。

楠木正成は何した人?

元弘の乱で後醍醐天皇に呼応する

1331年8月、後醍醐天皇はついに鎌倉幕府を倒すために挙兵しました。

いわゆる元弘の乱です。

かねてより準備していた倒幕計画は事前に幕府の知るところとなり、後醍醐天皇は京都を脱出し、山城(京都府)の笠置山でついに兵を挙げたのです。

正成は素早く呼応し、笠置山に参内したあと、即座に河内の赤坂城に拠って挙兵します。

幕府の対応も素早いものでした。

大軍をもって後醍醐天皇が籠もる笠置山に襲い掛かり、早くも9月には笠置山を攻め落とし、後醍醐天皇らを捕らえました。

残るは赤坂城に拠る正成だけです。

かつては、「太平記」などの記述から、正成の勢力を侮って油断した幕府が正成の奇策にさんざん翻弄され、赤坂城攻略に手間取ったように思われていました。

しかし、最近の研究では、むしろ幕府は万全の態勢をもって赤坂城攻めに着手していたことがわかってきました。

にもかかわらず、幕府軍は正成の息の根をとめることに失敗したのです。

正成だけではありません。

笠置山を脱出して赤坂城に入った護良親王も逃亡に成功しました。

正成、護良親王は1ヵ月の籠城戦ののち城を脱出したのです。

幕府からすれば、戦争目的を達成できなかっただけではありません。

幕府の権威失墜は避けられない事態となりました。

正成はしばし潜伏し、1332年、再び幕府に対して挙兵します。

千早城の戦いのはじまりです。

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千早城の攻防

1332年4月、行方不明だった正成が赤坂城を襲い、これを攻め落としました。

正成の復活と、鎌倉幕府滅亡のカウントダウンが始まりました。

幕府も正成が再挙兵し、勢力を拡大していることを知ると、大軍を河内に向かわせます。

正成は金剛山の千早城を中心として防御を固めました。

1333年2月に幕府の大軍はまず赤坂城を陥落させ、ついで千早城を包囲します。

ふたたび籠城戦です。

数で圧倒的に劣る正成は、ここでゲリラ作戦を中心に幕府軍を大いに翻弄します。

幕府軍は正成の千早城にくぎ付けにされてしまった格好ですが、正成の用兵の妙もあり、城は容易に落ちません。

この長期戦が幕府の権威を完全に失墜させました。

赤松則村など反幕府勢力が挙兵し、追討を命じられた足利尊氏が幕府を裏切って京都の六波羅を攻撃したことで、鎌倉幕府の命運は尽きました。

新田義貞が鎌倉を攻め落とし、北条氏の支配は終わりを告げました。

湊川で戦死

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、建武の新政を開始します。

天皇を中心とした政治体制の確立を目的としたもので、理想色の強い不安定なものでした。

武士たちにとって一番の関心事であった土地の所有権については、天皇の綸旨(指令書)だけがその根拠とされました。

結果、綸旨を求めて地方の武士たちが大挙して京都に押し寄せることとなり、綸旨の発給が追い付かず、偽の綸旨が乱れ飛ぶという混乱状態となったのです。

武士たちの新政権に対する失望は、あらたな棟梁の待望へと変わっていきます。

この武士たちの期待を一身に集めはじめたのが、足利尊氏といっていいでしょう。

地方武士の反乱が勃発しはじめると、尊氏は朝廷に反する態度を隠そうとしなくなります。

後醍醐天皇は新田義貞に命じて尊氏を撃たせますが、義貞は尊氏に撃破され、逆に尊氏に京都まで攻め上られる事態となりました。

楠木正成は、奥羽の北畠顕家とともに尊氏を破り、危機は一旦去りました。

しかし、九州に逃亡した尊氏はすぐさま勢力を盛り返し、再び京都目指して進撃を開始したのです。

まさむね
まさむね
地方武士たちの朝廷への不満と、それを糾合する尊氏の人望と調整能力がよくわかると思います。

数と勢いにおいて朝廷軍を凌ぐ足利尊氏軍に対して、正成は、一旦尊氏を京都に誘い込み、新田義貞と正成の軍で挟み撃ちにする作戦を立案します。

しかし、正成の意見は採用されません。

坊門清忠を代表とする、対面を気にする公家の与論が、天皇が京都から移動するのを嫌ったからです。

義貞と正成は湊川(兵庫県神戸市)で尊氏軍を迎撃することとなります。

しかし、新田義貞は所詮、尊氏の敵ではありませんでした。

尊氏の陽動にまんまと引っかかった義貞が戦線離脱し、正成軍は孤立してしまいます。

正成は最後まで奮闘しますが、圧倒的な戦力差はどうしようもありません。

1336年、正成は湊川にその生涯を閉じたのです。

楠木正成のエピソード・逸話

優れた軍略家

正成の軍人としての能力が最大限に発揮されたのは、千早城での攻防といえるでしょう。

ゲリラ戦を主として幕府の大軍を翻弄し、鎌倉幕府滅亡の大きな一因となったのは前述したとおりです。

当時の状況を知るための重要文献である「太平記」でも、正成は絶賛とともに言及されていますし、もう一つの重要文献「梅松論」でも正成は高い評価を得ています。

しかも、「梅松論」は足利系の文献ですから、正成は敵になるわけですが、それでも正成には同情的です。

まさむね
まさむね
当時の正成の評価がよくわかる事例といえます。

後世の絶賛と尊崇

存命中から高い評価を獲得していた正成ですが、死後はいよいよその評価を高めていく結果となりました。

特に尊王思想が普及していく過程で、正成は優れた軍略家としてだけでなく、皇室に最後まで忠実だったものとして、崇拝されるようになっていきます。

正成の崇拝が高まるとともに、尊氏の評価が下落していくのは興味深いことです。

尊氏は皇室に弓引いた逆臣として散々にこき下ろされていくわけです。

尊王思想の風靡も収まった現在、尊氏の再評価も容易になり、やっと客観的に尊氏に向き合うことができるようになりました。

まさむね
まさむね
正成の評価も落ち着きを見せていますが、それでも、彼の高い評価と人気は揺るがないようです。

3行でわかる楠木正成のまとめ

まとめ
  • 少数で幕府の大軍を翻弄する
  • 足利尊氏の脅威を正しく認識していた
  • 知性と品性を併せ持つ稀有の人物と見られていた

正成ほど評価がぶれない人物も珍しいのではないでしょうか。

有名人物であればあるほど、その評価は褒貶相半ばするものです。

正成にはそういったところが見られません。

かつての崇拝熱はもはやありませんが、それでも彼の軍人としての実力を疑うものはいません。

これからも楠木正成は、日本人に愛され続けるキャラクターであり続けるでしょう。

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