鎌倉時代

後醍醐天皇ってどんな人?隠岐の島への配流や足利尊氏との関係など

後醍醐天皇

源頼朝が武家政権を確立してから、形式上は皇室を戴く武家でしたが、実質は皇室が武家の風下に立つことになりました。

この状況を打開しようとする大きな騒乱が二つありました。

一つは後鳥羽上皇による承久の乱、もう一つは後醍醐天皇の元弘の乱です。

前者は皇室の敗退に終わりましたが、後醍醐天皇は宿願をはたし、鎌倉幕府を崩壊させ、天皇による親政を一時的ではありますが復活させました。

しかし、戦後の処置を誤ったがために、その後の日本史の流れを大きく変える混沌の時代を招来する結果となってしまいました。

今回の主役は、その後醍醐天皇です。

後鳥羽上皇に通じる個性をもつ後醍醐天皇の生涯をまずは見ていきましょう。

後醍醐天皇のプロフィール

  • 生誕 1288年11月2日
  • 死没 1339年8月16日
  • 在位 1318年2月26日~1339年8月15日
  • 名前 尊治(たかはる)
  • 享年 52歳

後醍醐天皇は1288年に後宇多天皇の第2皇子として生まれました。

1318年に即位すると、後宇多上皇の院政をしりぞけ、自ら政務をとり始めます。

和漢の古典に通じる教養人だった後醍醐天皇は、漢籍では特に朱子学を好み、政治への関心が非常に高かったのです。

時は折しも、元寇後の窮乏しつつある御家人と、専制権力をつよめる北条氏との対比が鮮明になってきたときです。

世論の幕府に対する不満が高まりつつある情勢を見て、後醍醐天皇は倒幕計画を実行に移そうとします。

1324年の正中の変と1331年の元弘の乱です。

正中の変は実行前に計画がバレて失敗し、元弘の乱は天皇自身、隠岐の島に配流されるなどリスクも負いましたが、1333年に鎌倉幕府を倒すことに成功しました。

天皇のもとに統治権を奪還し、いよいよ理想の政治を行う機会に恵まれた後醍醐天皇ですが、当時の現実にマッチしない政策は、即座に武士たちの失望を招きました。

武士たちの関心は土地の安堵や土地をめぐるトラブルの仲裁だったはずですが、建武の新政はこのニーズに答えることができませんでした。

かわって武士たちの期待を集めたのは、足利尊氏です。

両者の激突は必至でした。

一度は尊氏を九州に追いやった新政府ですが、尊氏は再び勢力を回復して京都を占領し、後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇を擁立します。

京都を脱出した後醍醐天皇はこれを認めず、吉野(奈良県)に拠って尊氏に徹底抗戦します。

約60年にわたる南北朝時代の始まりです。

しかし、楠木正成や北畠顕家、新田義貞など主要な戦力を失った後醍醐天皇には、尊氏を打ち破る力は残っていません。

後醍醐天皇は1339年、波乱の生涯を吉野で閉じました。

後醍醐天皇は何したひと?

武家から権力を奪還する

後醍醐天皇の倒幕運動は、1324年の正中の変と、1332年の元弘の乱との二つがあります。

元弘の乱は、最後は幕府の滅亡という形で決着しました。

鎌倉幕府衰亡の原因の一つは元寇にあります。

国難ともいえる蒙古軍襲来を退けた御家人たちですが、新たな領地を獲得したわけでもなく、御家人たちの経済状況は改善されませんでした。

幕府にたいする不満が徐々に蓄積されていったのです。

こういった政治状況を背景に、後醍醐天皇が即位します。

皇位の継承には持明院統と大覚寺統との争いがあり、後醍醐天皇は大覚寺統ですが、次代の天皇は持明院統から出すことになっていました。

まさむね
まさむね
両統から交互に天皇を出す両統迭立を勧めたのが幕府ですから、後醍醐天皇にとって幕府は不愉快な存在だったのでしょう。

後醍醐天皇はひそかに倒幕の計画を練っていきます。

最初の計画は実行の前に露見し、近臣の日野資朝は佐渡に流され、日野俊基は許され、後醍醐天皇もお咎めなしでした。

これが1324年の正中の変です。

しかし、後醍醐天皇は倒幕をあきらめません。

ふたたび日野俊基らとともに、倒幕計画を水面下で実行しようとします。

今回も幕府に情報が洩れてしまいますが、天皇は笠置山にて挙兵します。

河内では楠木正成が呼応し、赤坂城で挙兵します。

1331年、元弘の乱の始まりです。

幕府は実力で反乱軍を粉砕し、正成は行方をくらまし、後醍醐天皇は隠岐の島に配流ということになってしまいます。

しかし、姿をくらました楠木正成が千早城に拠り再び反旗を翻すと、情勢が動き出します。

各地で幕府に対する反発が激しくなり、足利尊氏が後醍醐天皇側について六波羅を攻め落としたとき、情勢は決定的となりました。

新田義貞に鎌倉を攻め落とされ、鎌倉幕府は滅亡し、天皇親政による建武の新政が始まったのです。

南北朝の分裂を招く

建武の新政は、天皇親政の理想を実行しようとするあまり、非常に性急なものでした。

土地所有権の保証が天皇の綸旨のみと定められますが、これが混乱の原因の一つとなります。

「このごろ都に流行るもの、夜討ち強盗にせ綸旨」

と二条河原落書にうたわれたように、土地をめぐる争いはかえって悪化しました。

建武の新政に対する不満を吸い上げ、勢力を拡大したのが足利尊氏です。

中先代の乱以降、尊氏は朝廷にたいする敵対を鮮明にします。

後醍醐天皇はついに尊氏追討を命じました。

足利尊氏
足利尊氏ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめました足利尊氏といえば歴史の教科書で言えば室町幕府を開いた人として知られていますが、具体的にどのような事をしたのか、幕府を開いた以外に何をした...

一度は敗れて九州に逃れた足利尊氏でしたが、九州の諸勢力を糾合してすぐさま態勢をととのえ、京都に向けて進撃を開始します。

途中の湊川(神戸市)では楠木正成を破り、即座に京都を制圧します。

尊氏がまずおこなったことは、持明院統の光明天皇(在位1336~48)を担ぎ上げたことです。

武家の支持を得ていたとはいえ、尊氏は後醍醐天皇のもとでは皇室に弓引いた逆賊です。

尊氏は、統治するうえでの権威の必要性を十分に理解していたからこそ、天皇が必要だったのです。

しかし、後醍醐天皇は、京都を脱出し吉野(奈良県)にのがれ、光明天皇の即位を当然認めません。

京都の光明天皇と、吉野の後醍醐天皇と、天皇が二人いるという異常な状態が約60年続くことになります。

いわゆる南北朝時代です。

権威の分裂は、社会の分裂を招来しないではおきません。

以後、足利義満の時代に南北朝の対立は一応ケリがつきましたが、傷ついた権威はもとには戻りませんでした。

内に孕んだ分裂の徴候は、応仁の乱にいたってピークに達し、血で血を洗う戦国時代の扉を開くことになるのです。

後醍醐天皇のエピソード・逸話

隠岐の島に流される

1332年、後醍醐天皇は隠岐の島に配流となりました。

2度にわたる倒幕運動がその理由です。

正中の変で責任を問われた日野俊基と、佐渡に流されていた日野資朝は、この時処刑されました。

承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇は、隠岐の島で亡くなっています。

後醍醐天皇もこの地で生涯を終えるかと思われましたが、楠木正成が再び挙兵したのをきっかけに、各地で幕府に対する反対運動が活発になってきました。

天皇も隠岐を脱出し、名和長年と合流し、倒幕運動に復帰することができました。

まさむね
まさむね
隠岐に滞在していたのは実質1年にも満たない短い期間でしたが、後鳥羽上皇も配流された隠岐での日々をどのような気持ちで過ごしたか、想像してみるのも面白いかもしれません。

護良親王との不和

護良親王は後醍醐天皇の皇子であり、天皇の幕府打倒を積極的に支えた功労者でもあります。

特に後醍醐天皇が隠岐に流されたあとは、護良親王が中心となって倒幕運動を盛り上げた感さえあります。

実際、護良親王は前線の戦場に身をさらすことも厭いませんでした。

しかし、いざ幕府が倒れてみると、護良親王はなぜか政治の中心から遠ざけられてしまいます。

もちろん、親王を遠ざけたのは後醍醐天皇の意向です。

変わって政治の表舞台に登場してきたのが、足利尊氏でした。

足利尊氏
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護良親王と尊氏の対立が深まり、親王は信貴山で軍備を整え、実力行使をにおわせます。

あわてた後醍醐天皇は護良親王を説得し、親王を征夷大将軍とすることで決着したかに見えました。

しかし、護良親王と尊氏の対立は収まらず、親王は尊氏殺害を計画し、その隙を伺います。

この尊氏殺害計画は当の尊氏の知るところとなり、尊氏は後醍醐天皇に強く抗議します。

天皇の返答は「自分は関係ない、護良のしたこと」です。

尊氏としては、護良親王という政敵を葬る格好の名目を手に入れたわけです。

親王は尊氏の勢力圏である鎌倉に幽閉されます。

「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」

親王はそうつぶやいたと伝えられています。

その後、1335年の中先代の乱による混乱のなかで、護良親王は足利直義によって殺害されました。

3行でわかる後醍醐天皇のまとめ

まとめ
  • 幕府倒幕に一度失敗し、隠岐の島に流される
  • 幕府を打倒し、政権を皇室のもとに奪還する
  • 論功行賞を誤り、さらなる混乱を招く

後醍醐天皇は個性の強い天皇の一人です。

まさむね
まさむね
才気煥発、深い教養、強い政治への意志、承久の乱の後鳥羽上皇に似ていると思います。

しかし、後醍醐天皇は優れた資質の持ち主ではありましたが、時代の趨勢を読み切れていなかったといえましょう。

武士たちのニーズにあまりにも無頓着でした。

そのことが大混乱を招き、二人の天皇並立と、戦乱の世の扉を開けることにもなりました。

急激な改革は、混乱をひきおこすばかりで生産的な結果を生みにくい実例として、記憶にとどめておくべきでしょう。

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