平安時代

後鳥羽上皇ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

後鳥羽上皇

平安時代末期から鎌倉時代始めの天皇、後鳥羽上皇。

この時代は、貴族から武士に政権が代わる過時で難しい時代だと思います。

ですので、後鳥羽上皇のことは意外と知られていないかもしれません。

後鳥羽上皇は、天皇であり、歌人でありと色々な顔をもっています。

この記事では、そんな後鳥羽上皇が何をした人なのかをわかりやすくご紹介していきたいと思います。

後鳥羽上皇のプロフィール

後鳥羽上皇は、治承4年(1180年)8月6日に生まれました。

父は高倉天皇、母は坊門信隆娘、殖子(しょくし)で諱は尊成(たかひら・たかなり)と言います。

後白河法皇の孫で安徳天皇の異母弟です。

後白河法皇は院政をひいた有名な天皇で、安徳天皇は平家と源氏の壇ノ浦の戦いで平家と共に海に沈んだ天皇として有名なため、その間の後鳥羽上皇は影が薄くなってしまったのですね。

寿永2年(1183年)、たった3歳で天皇に即位しました。

これは、安徳天皇が平氏とともに亡くなってしまったために急遽、即位した形になりました。

しかし、安徳天皇が持ち出した3種の神器のうち宝剣だけが海に沈んで見つからず、3種の神器が揃わずに即位式をしたので、後鳥羽上皇は、ずっとこのことがコンプレックスでした。

まさむね
まさむね
平成天皇から令和天皇に代替わりするときも、侍従がうやうやしく3種の神器をもっていましたよね。

現代でも3種の神器は即位にとって大切なものなのですから昔は命より大切なものだったと思います。

この無くなった宝剣についてですが、後鳥羽上皇は家来に探せたようですがやはり見つからず、自分の息子の84代、順徳天皇が即位するときに伊勢神宮から後白河法皇に献上された剣を宝剣にしたということです。

建久9(1198年)年1月11日、土御門天皇に譲位し、承久3年(1221年)まで上皇として院政をひきました。

承久元年(1219年)、承久の乱を起こし、負けてしまい隠岐の島に流され当地で延応元年(1239年)崩御しました。

後鳥羽上皇は何をした人?

新古今和歌集の編纂

後鳥羽上皇は、中世で一番の歌人でした。

後鳥羽上皇がいつから歌作に興味をもったかは定かではありませんが建久9年(1198年)の譲位し、8月に熊野行幸以降に急速に和歌を志すようになりました。

熊野といえば風光明媚なところですので和歌心が沸いてきたのかもしれませんね。

建仁元年(1201年)に和歌所を再興し、藤原定家、鴨長明などが寄人になりました。

有名なところでは、新古今和歌集の編纂です。

新古今和歌集は、藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人で撰進が始まりましたが、実質的には後鳥羽上皇が撰者の一人でもありました。

承久の乱

承久の乱がおこったのは、承久3年(1221年)です。

鎌倉幕府では、源実朝が3代目将軍になり2代目の執権は北条義時がなっていました。

そんな時、源実朝が殺されてしまいます。

実朝も殺されたことで源頼朝の子供がいなくなってしまい、北条義時は後鳥羽上皇の息子を将軍にしてほしいと頼みましたが、後鳥羽上皇は応じませんでした。

これに怒った義時は後鳥羽上皇に兵を送って今でいう恐喝して圧力をかけましたが、それでも上皇は屈しませんでした。

まさむね
まさむね
義時も押してダメなら引いてみなを実行しなかったし、後鳥羽上皇も頑固なのですね。

後鳥羽上皇もよせばいいのに、打倒鎌倉幕府で兵をあげてしまいました。

これが承久の乱の始まりです。

後鳥羽上皇は、「朝廷の命令なら全国の武士も従って鎌倉幕府を倒すだろう」と思っていたのですが、ところがどっこい、恐怖の尼将軍、北条政子の方が上でした。

北条政子の承久の乱のときの言葉として「故頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」と一致団結し、鎌倉幕府を開いた頼朝に恩を返すときという内容でさすが尼将軍、いざ鎌倉的に武士たちは感動し北条氏につくことに決めました。

ゆったりと和歌を詠んでいた後鳥羽上皇もびっくり!

わずか1か月で京都は幕府軍に占領されてしまい、朝廷側は負けてしまいました。

承久の乱が終わった後、首謀者の後鳥羽上皇は、隠岐の島に流されてしまいました。

息子の順徳天皇は佐渡島に流されました。

土御門天皇も父や兄弟が流されたのに自分だけ京都に残ることはできないと律儀にも土佐に流されることを希望しました。

まさむね
まさむね
土御門天皇も周りが敵だらけになってしまうことにいたたまれくなって自分も京都にはいたくないと思ったのかもしれませんね。

後鳥羽上皇のエピソード・逸話

ギャンブル中毒?

後鳥羽上皇の日記のうち建保3年5月15日、19日、11月11日の日記の中に当時、自ら出していた法律、銭禁令に反して銭を賭けて勝ったことを「見苦しい」といいながらもまた連歌で賭け事をしたことが書かれています。

後鳥羽上皇は、賭け事が大好きだったのですね。

まさむね
まさむね
今だったら、天皇が賭博していたなんてわかったら大スクープになってしまいます。

刀を打っていた

後鳥羽上皇は、刀を打つことも好んでいて、焼刃に十六弁菊紋を毛彫りしていました。

これを御所焼き、菊御作といって皇室の菊紋の始まりです。

後鳥羽上皇のまとめ

まとめ
  • 後鳥羽上皇は、治承4年(1180年)8月6日に生まれた。
  • 父は高倉天皇、母は坊門信隆娘、殖子(しょくし)で諱は尊成(たかひら・たかなり)と言う。
  • 寿永2年(1183年)、たった3歳で天皇に即位。
  • 3種の神器が揃わずに即位式をしたので、ずっとこのことがコンプレックスだった。
  • 建久9(1198年)年1月11日、土御門天皇に譲位し、承久3年(1221年)まで上皇として院政をひいた。
  • 承久元年(1219年)、承久の乱を起こし、負けてしまい隠岐の島に流され当地で延応元年(1239年)崩御。
  • 後鳥羽上皇は、中世で一番の歌人であり、新古今和歌集の撰者の一人。
  • 後鳥羽上皇は、賭け事が大好きだった。
  • 皇室の菊紋を始めた人。

頑固でおっとりしていて、お坊ちゃま育ちの後鳥羽上皇。

現代人にも通じる性格の持ち主で親近感がわく人だと思いました

POSTED COMMENT

  1. ビクトリアの侍女 より:

    後鳥羽上皇は教養があり博打好き.情緒があって人に愛されそうで.でも友人.師に恵まれなかったのは権力がありすぎた.それについていけず誰も意見忠告出来ない.戦に負けたのは傲慢が災いしてしまった
    ふと思い出したのですが.今の一部の皇室は言論統制他理解出来ない傲慢さがあふれ.
    後鳥羽上皇の戦力に対しての傲慢とあまりに違います.それに上皇には凛凛しさも感じられます.教養と凛凛しさ併せ持つ…歴史はロマン

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