平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した、公家・歌人の藤原定家。
藤原定家は有名な「新古今和歌集」、「明月記」を書いたことでも知られています。
名前はなんとなくわかるけど、どんな人だったのはわからない方も多いと思います。
今回は、わかりやすく藤原定家を掘り下げてみます。
藤原定家のプロフィール
藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)は、応保2年(1162年)に父は藤原俊成、母は藤原親忠の娘、美福門院加賀の次男として生まれました。
別名を京極殿、京極中納言と言われました。
14歳の時に赤痢にかかり、16歳の時に天然痘にかかってしまい、快復しましたが呼吸器に障害が残り、生涯悩まされました。
18歳の時に源平合戦があり、京都も大変な時期でしたが藤原定家はそんなのどこ吹く風で歌の道にまっしぐらでした。
やはり貴族のお坊ちゃん、おっとりした性格だったと思いきや、後鳥羽上皇と喧嘩別れしたり、お父さんと喧嘩したりと中々短気な性格でした。
喧嘩をしていてもそこは歌人として目のある後鳥羽上皇、歌人としての藤原定家を認めていて、新古今和歌集の編纂を任されました。
新古今和歌集は、1205年に完成しています。
1232年、70歳の時に、今度は後堀川天皇の命により新勅撰和歌集を編纂しました。
1237年、定家75歳の時に小倉百人一首の選定を始めました。
小倉百人一首は、親戚の宇都宮頼綱が京都嵯峨野の山荘の襖を飾るために作ってほしいと言われたため、百首を選んで色紙として作ったものでした。
晩年は自分の日記、明月記の執筆に費やしていました。
仁治2年(1241年)、死去しました。
享年80歳、歌に人生を捧げた大往生でした。
藤原定家は何をした人?
プロフィールでも書きましたが、藤原定家は歌人としてたくさんの歌集の編纂をしました。
- 新古今和歌集
- 新勅撰和歌集
- 明月記
です。
新古今和歌集の中に定家の歌があります。
見渡せば 花も紅葉(もみじ)も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ
(この浦の、粗末な我が家には、花も紅葉もないが、秋の夕暮れは、変わらずに、訪れている)
元々、和歌には春や恋のことを読んでいる歌が多いですが、その中でも秋は特に多いのでこの定家の歌が有名になりました。
新勅撰和歌集にも定家の有名な歌があります。
明けばまた 秋のなかばも 過ぎぬべし かたぶく月の 惜しきのみかは
(この夜が明ければ、今年もまた、秋の半ばも、過ぎてしまうことになる。
沈みかけた月が、惜しいだけだろうか、残り少なくなった秋もまた、惜しいのだ。)
定家は秋の歌を歌うのが好きだったようですね。
藤原定家は公家でしたが、摂関家の嫡流からは遠く、中央貴族としての出世をはずれて歌道での名声はありましたが官位には恵まれなかったようです。
71歳でようやく権中納言になった以外は政治の世界ではうだつが上がらなかった藤原定家でした。
藤原定家のエピソード・逸話
藤原定家のエピソードと言えば、式子内親王との恋愛物語です。
式子内親王は、後白河法皇の皇女で賀茂神社の斎宮だった人です。
そんな雲の上のお方と藤原定家のつながりはないような気がしますが定家のお父さんが(藤原俊成)が式子内親王の歌の先生だったので定家も式子内親王と顔を合わせる機会があったのでしょう。
式子内親王の
いきてよも あすまて 人は つらからし 此夕暮れを とはゝ とへかし
(私は明日の朝まで生きていないと思う。
この、今日の最後の夕暮れに、もし会いにくるというなら、会いにきて。)
この歌は定家に送った歌と言われています。
明月記にも式子内親王の病気のこととかいろいろ書いてありますので二人の仲は間違いないことと言われていますが、なにしろ相手は内親王です。
内親王は自由に恋愛が出来ない立場だったので文献は残っていません。
藤原定家の片思いだった可能性も大きいです。
今となっては、何もわかりません。
藤原定家のまとめ
- 藤原定家は、応保2年(1162年)に父は藤原俊成、母は藤原親忠の娘、美福門院加賀の次男として生まれた。
- 14歳の時に赤痢にかかり、16歳の時に天然痘にかかってしまい快復。
- 18歳の時に源平合戦があった。
- 1205年、新古今和歌集が完成。
- 1232年、70歳の時に新勅撰和歌集を編纂。
- 1237年、定家75歳の時に小倉百人一首の選定
- 仁治2年(1241年)、死去。
- 18歳から74歳までの56年間の日記「明月記」を記す。
- 歌道での名声はあったが官位には恵まれなかった。
- 71歳でようやく権中納言になった。
- 藤原定家のエピソードと言えば、式子内親王との恋愛物語。
貴族の世から武家の時代への激動期に一生を過ごした、藤原定家。
歌に邁進し、恋愛もし、藤原定家にとっては平凡だけど良い一生だったのではないでしょうか。
とてもわかりやすかったです。