みなさん、式子内親王は知っていますか?
「式子内親王って誰?」という人がほとんどだと思います。
内親王というからには、皇室の人だということはわかります。
この人は、あの古今和歌集で有名な藤原定家の思い人だった人なのです。
この記事では、式子内親王のことをわかりやすく簡単にご紹介します!
式子内親王のプロフィール
式子内親王(しょくし/しきしないしんのう)は、久安5年(1149年)、父、後白河上皇の皇女として誕生しました。
母は藤原季成の娘、藤原成子で高倉宮以仁王は同母兄弟、高倉天皇は異母兄弟になります。
平治元年、10歳の時に内親王宣下を受け、10年間、賀茂神社の斎院になりました。
元暦2年(1185年)から病気のため、斎院を退下し叔母の八条院・暁子(しょうし)内親王のもとに身をおきました。
しかし、八条院とその姫宮に呪詛したという疑いをかけられ八条院を追い出されてしまいます。
建久8年(1197年)には、蔵人大夫と橘兼仲夫婦の託宣事件に連座したとして洛外追放を検討されましたが実際には行われませんでした。
正治元年(1199年)、病気を発症し、だんだん重くなります。
正治2年(1200年)、後鳥羽上皇から百首歌を詠むよう言われこの時の歌は藤原定家に見せています。
建仁元年(1201年)、53歳で薨御します。
式子内親王は何をした人?
式子内親王は、10歳から20歳まで、賀茂神社の斎院をしていました。
賀茂神社の斎院というのは、京都の賀茂神社の祭祀を行う女性のことです。
伊勢の斎宮と同じで代々3天皇家の皇女がなってきました。
斎院は清浄でなければならず、未婚者でなければいけません。
斎院を退下した後は、結婚ができますが、だいたい斎院を経験した人は生涯独身のままでした。
生涯独身と聞くと、寂しい一生だったと思われがちですが式子内親王は、違いました。
式子内親王は、歌に邁進していたのです。
式子内親王の歌をご紹介します。
夕立の 雲もとまらぬ 夏の日の 傾く山に ひぐらしの声
(訳)夕立の雲も止まらない夏の日、陽が傾いた山にはひぐらしの声
夢にても 見ゆらむものを 嘆きつつ うちぬる宵の 袖のけしきは
(訳)夢でも見えるだろうに、嘆きながら、寝て濡れた、私の袖は
(私の思いを知ってください)
君待つと 寝屋へもいらぬ 真木の戸に いたくなふけそ 山の端の月
(訳)君を待つと言って、入ってもいない、寝所の真木の戸に、光よ射さないでくれ、山の端の月よ、夜が更けたことが、分かってしまうから
(あなたの訪れをずっと待っています。)
以上、3点、ご紹介しましたが、内親王とは思えないような情熱的な歌を詠いますね。
式子内親王のエピソード・逸話
式子内親王の逸話と言えばやはり藤原定家との恋の話が有名です。
定家は、治承5年(1181年)正月に初めて式子内親王に会いました。
それ以後、頻繁に内親王の元へ訪れているところから二人は恋仲だったという噂がありました。
定家の日記「明月記」にもたびたび内親王が登場しています。
式子内親王が薨御したときの詳細な病気の症状が頻繁なお見舞いの記録と共に記されています。
式子内親王の方が相当年上だったので、もしかしたら定家の淡い片思いだったのかも知れません。
式子内親王には、もう一つ、僧法然との噂もあります。
法然が「聖如房」、「正如房」という高貴な身分の尼の臨終にたいして長文の手紙を送ったことがわかっています。
この高貴な尼のことを式子内親王だと言われていて式子内親王が好きなのは法然だったということも言われています。
だとしたら、生涯独身であっても楽しい人生であったのかも知れません。
式子内親王のまとめ
- 式子内親王は、久安5年(1149年)に誕生。父は後白河上皇、母は藤原季成の娘、藤原成子。高倉宮以仁王は同母兄弟、高倉天皇は異母兄弟。
- 平治元年、10歳の時に内親王宣下を受け、10年間、賀茂神社の斎院になる。
- 元暦2年(1185年)から病気のため、斎院を退下。
- 建久8年(1197年)には、蔵人大夫と橘兼仲夫婦の託宣事件に連座したと言われる。
- 正治元年(1199年)、病気を発症。
- 正治2年(1200年)、後鳥羽上皇から百首歌を詠むよう言われた。
- 建仁元年(1201年)、53歳で薨御。
- 式子内親王は生涯独身だったが式子内親王は、歌に邁進していた。
- 式子内親王と藤原定家は恋仲だった。僧、法然とも噂があった。
最後に式子内親王と藤原定家の恋仲を裏付けるような歌をご紹介して締めくくりたいと思います。
【お題:忍ぶ恋】
玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする
(訳)我が命よ、絶えてしまうのなら、絶えてしまえ、このまま生き長らえてしまうと、堪え忍ぶ心が、弱ってしまうと困るから。