平安時代

北条政子はどんな人?わかりやすく簡単に説明します

北条政子

特に際立つのが「日本三大悪女」に列せられる日野富子、淀殿、そして今回ご紹介する北条政子です。

でも、北条政子の実像を知ると、そこまで悪女だろうかと疑問を感じます。

北条政子のプロフィール

北条政子は1157年生まれと推定されています。

父親の北条時政は伊豆を支配する有力豪族でした。

その真偽はさておき、時政本人は桓武平氏の末裔であると名乗っていたようです。

源頼朝と結婚

政子が生まれる2年前には、藤原氏の権力争いである保元の乱が起こっており、それをきっかけに平清盛が台頭していました。

そして、政子3歳のときには平治の乱が起き、清盛は源義朝を破って都での支配力を決定的にしています。

義朝の息子の源頼朝は、清盛から温情をかけられて伊豆へ流されました。

その頼朝の監視役とされたのが北条時政です。

頼朝と政子がどう出会ったのかはわかっていません。

ただ、頼朝と政子が結婚したのは、頼朝が伊豆へ流された17年後の1177年だと推定されています。

このとき政子は20歳で、当時としては晩婚でした。

時政は、時の権力者である平清盛の敵とも言える頼朝と娘の結婚に反対していたとも、将来を見込んで結婚を許したともいわれています。

頼朝の死

政子23歳のとき、後白河天皇の皇子である以仁王が平家打倒を画策。

伊豆の頼朝にも挙兵を呼びかける知らせが届きました。

しかしそれが露見し、頼朝は先手を打って挙兵して、平家一門の山木兼隆を殺害。

その勢いをかって今の湯河原あたりまで進軍するものの、平家に連なる大庭景親に迎撃されて敗れ、千葉まで逃亡しました。

頼朝が千葉で兵を集め、武家の棟梁として担がれて、鎌倉に移動して独立政権をうちたてると、伊豆で待っていた政子も鎌倉に移り住み、後の鎌倉二代将軍・頼家を産んでいます。

そして、頼朝が征夷大将軍の綸旨を受けた1192年、後の三代将軍・実朝を出産。

1199年、政子42歳のとき、頼朝が死去します。

政子はそこで出家しました。

幕府の実権を握る

その後を息子の頼家が継いだものの、その数カ月後に御家人たちが合議制を定め、頼家専制を阻止。

その合議制の中には政子も組み込まれていました。

事実上傀儡となった頼家は北条氏を滅ぼすべく兵をさしむけようとするものの、北条に先手を取られ、政子は頼家から将軍職を奪い、出家させて、頼家の弟の実朝が将軍となりました。

北条時政は、将軍補佐役の執権に就任し、実権を握ろうとします。

政子はこのときは逆に父の陰謀を防ぎ、伊豆へ追放しています。

実朝は政子のサポートを得ながらも政権をうまく機能させていきますが、政子61歳のときに鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます。

その後、藤原家から将軍が迎えられることになります。

しかし、選ばれたのは2歳の子でした。

政子は将軍後見役となって、実権をふるいます。

1221年、院政を敷いていた後鳥羽上皇は、朝廷権力を回復すべく挙兵。

これを受け、政子は幕府軍19万を京都へ向けて出陣させました。

幕府軍は上皇の軍を破って京都を占領。

政子は上皇を島流しにします。

その4年後、政子は病に倒れ死去しました。

享年69歳でした。

北条政子は何をした人?

北条政子は、将軍であった夫や子を相次いで亡くしながらも、その後を自らついで鎌倉幕府を盤石なものへと育てました。

尼将軍鎌倉政権を強化する

北条政子は、夫・源頼朝が将軍職についてからもいろいろ進言をしています。

とはいえ、10歳年上の頼朝に対しては、ある程度控えめでした。

頼朝が鎌倉で武家の棟梁として事実上政権を樹立すると、政子は「御台所(みだいどころ)」と呼ばれるようになります。

これ以後、将軍の正妻は徳川幕府に至るまで御台所と呼ばれるようになりました。

頼朝の死後、政子は出家します。

しかし、将軍職についた18歳の息子・頼家は、専横と遊興が過ぎるため、政子は御家人の合議制の中に入り、幕府のコントロール役となりました。

頼家が北条を討とうとしたときは阻止し、北条が実朝から実権を奪おうとしたときも阻止しています。

それはつまり、家族の情よりも頼朝が建てた幕府を安泰にしたいという強い気持ちがあったからではないかと思われます。

実朝が暗殺された後は、傀儡として迎えられた将軍に代わり事実上の最高権力者となって「尼将軍」と呼ばれました。

後鳥羽上皇が挙兵したときは、男でも躊躇した上皇軍の討伐を決意しています。

まさむね
まさむね
鎌倉幕府は、北条政子によって盤石になったと言っても過言ではないでしょう。

政子がいなければ、その後戦国時代をはさみながらも700年以上続く武家政権の時代はなかったかもしれません。

北条政子のエピソード・逸話

尼将軍として、幕府のためなら息子や父まで追放を辞さない「鉄の女」北条政子。

その施策はある意味男らしいといえます。

しかし、反面女性らしいところも持ち合わせていました。

超ヤキモチ焼き

源頼朝、北条政子は平安時代と鎌倉時代にまたがって生きた人物です。

とはいってもこの時代区分は後世作られたもので、文化的にはまだ平安時代の気風が残っていました。

その一つが、一夫多妻制です。

頼朝は武士とはいっても天皇の血筋を持つ上流社会の人ですから、正妻の政子の他にも通う女性がいました。

特に、政子が頼家を妊娠中は亀の前という愛人に気持ちが傾いてしまったようです。

ところが政子はそれに嫉妬し、父の後妻の父親・牧宗親に亀の前の住居を襲撃させます。

さらに、亀の前に住居を提供していた頼朝の臣下の伏見広綱を流罪にしました。

あまりのことにビビった頼朝は、他の女のところへはこっそり通うようになりました。

まさむね
まさむね
政子のこの嫉妬深さは、頼朝の子の数の制限につながり、頼朝の家系が実朝で途絶える原因ともなっています。

意外?な愛情の強さ

頼朝と源義経が対立したとき、義経の愛人である静御前が頼朝に捕らえられました。

政子に舞を所望された静御前は、義経を慕う歌に合わせて舞を踊ります。

頼朝はそれに激怒したものの、政子はその気持に同情を示し、頼朝をなだめました。

その後、静御前が身ごもっていた義経の子を産むと男子だったため、頼朝は殺害を命じます。

仇の子を生かしておくとどうなるか、それは頼朝自身がよくわかっていることでした。

政子は助命を願うもののこればかりは許されませんでした。

政子自身も何人も子を失っています。

特に、娘の大姫、息子の実朝を失ったときは、自らも死のうと思い悩むほど悲しんだといいます。

まさむね
まさむね
こうして見ると、嫉妬深さも含め、人一倍愛情が強い人だったのではないかと思えます。

4行でわかる北条政子のまとめ

鎌倉幕府を開き、武家の時代を作った源頼朝の妻・北条政子のまとめです。

まとめ
  • 流罪にされた源頼朝の監視役・北条時政の娘
  • 頼朝とは恋愛結婚
  • 夫、息子たち亡きあとは幕府の実権を握る
  • 鎌倉政権を盤石にする

北条政子は日本三大悪女に入れられることもあります。

でも、客観的にみてそんなに悪女でしょうか?

亀の前の一件は確かに理不尽です。

若い頃にはまだ感情の爆発を抑えられなかったのかもしれません。

でも、幕府の運営に関わるようになってからは、感情には流されない采配をとっているように見えます。

夫が残した幕府を守るため、自分の感情を抑える術を身に着けた賢い女性だったのではないかと思われます。

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