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平安時代

後白河天皇ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう)といえば、平清盛や源頼朝などと互角に渡り合い、院政を行ったこと有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

後白河天皇よりも後白河法皇という名で知られ、そのときの状況次第で態度をコロコロ変えて、源義経を自害に追い込んだ“卑怯者”のイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。

この記事では後白河天皇についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

後白河天皇のプロフィール

  • 後白河天皇(ごしらかわてんのう)
  • 諱:雅仁(まさひと)
  • 父:鳥羽天皇(第74代天皇)
  • 母:藤原璋子(藤原公実の娘)
  • 享年66(1127年9月11日~1192年3月13日)

後白河天皇は何をした人?

兄は「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」、父には「即位の器量ではない」と酷評されながら即位し、武士勢力を巧みに利用して混乱する時代を生き抜いた、後白河天皇の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。

後白河天皇の親王時代

後白河天皇は鳥羽上皇と藤原璋子(待賢門院)の第4皇子として生まれ、雅仁と命名されました。

1129年、曽祖父である白河法皇が亡くなったので、鳥羽上皇が院政を開始します。

院政とは天皇が皇位を譲って上皇となり、天皇に代わって政務を直接行う政治形態のことです。

自分の子による皇位独占を考えた白河法皇は、事実上の君主である治天の君(ちてんのきみ)として君臨し、43年にわたる院政を行いました。

院政を開始した鳥羽上皇は璋子に代わって藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、得子との間に生まれた躰仁(なりひと)親王を即位させるため、雅仁親王の兄である崇徳天皇に譲位を迫ります。

躰仁親王の即位を望む鳥羽上皇は躰仁親王を崇徳天皇の養子にしていたので、崇徳天皇は譲位しても院政を行えると考えていましたが、譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていました。

そのため、即位した近衛天皇が自分の子ではなく弟とされた崇徳上皇は、院政を行うことが不可能となってしまったのです。

一方、このような皇位継承をめぐるゴタゴタとは無縁の立場だった雅仁親王は、遊び人のように過ごしており、今様(いまよう)に夢中になっていました。

夢中になりすぎて「今様狂い」とまで呼ばれていた雅仁親王に対して、鳥羽上皇は「天皇の器量にあらず」、崇徳上皇は「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」と罵り、雅仁親王の側近である信西(藤原通憲)ですら「和漢の間、比類少きの暗主」と酷評しています。

このように誰にも期待されていなかった雅仁親王ですが、病弱だった近衛天皇が亡くなると状況は一変しました。

復権のために自分の子である重仁親王を次の天皇に望む崇徳上皇に対し、鳥羽法皇と美福門院は、雅仁親王の第1皇子であり、美福門院の養子でもある守仁親王を即位させようとします。

しかし、守仁親王が年少だったので、守仁親王が成長するまでの中継ぎとして、雅仁親王が即位することになりました。

後白河天皇と保元の乱・平治の乱

1155年、後白河天皇が29歳で即位した翌年、鳥羽法皇が亡くなると保元の乱が起こりました。

崇徳上皇と後白河天皇の確執が深まる一方、摂関家でも藤原忠通と弟の藤原頼長が険悪な仲になっており、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇と接近したため、朝廷は2派に分裂します。

平清盛源頼朝などの有力武士を集めて崇徳上皇側に勝利した後白河天皇は、2年後に守仁親王に譲位(二条天皇)して、院政を開始しましたが、後白河院政派と二条親政派が対立したことに加え、院政派の内部でも信西と藤原信頼が険悪な仲になってしまいました。

そのため1159年、平治の乱が起こり、信頼と義朝の軍勢に襲撃された後白河上皇は幽閉され、信西は殺害されましたが、信頼と義朝は清盛に敗れます。

平治の乱の結果、源氏の勢力は衰退し、朝廷の軍事力・警察力を掌握した清盛は平氏政権樹立の礎を築きました。

後白河上皇と平清盛

平治の乱の収束後に美福門院が、その5年後には二条天皇が亡くなり、朝廷内に敵がいなくなった後白河上皇は本格的に院政を始め、清盛を巧みに利用しながら摂関家や寺社勢力を牽制し、政権を掌握していきました。

後白河上皇の宿願だった蓮華王院本堂(三十三間堂)を清盛が造営したり、1169年には大病を克服して出家した平清盛に続いて後白河上皇も出家し、法皇となります。

さらには、清盛の娘である徳子が後白河法皇の第7皇子である高倉天皇に入内するなど、後白河法皇と清盛は友好的な関係にありました。

しかし、後白河法皇が寵愛する平滋子(建春門院)が亡くなると、後白河法皇と清盛の関係は悪化し始めます。

清盛の継室の妹であり、高倉天皇の母である滋子は、後白河法皇と清盛が衝突しないように上手く調整していましたが、滋子が亡くなったことで、今まで隠されていた対立が一気に表面化しました。

「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほど隆盛した平氏一門に不満を持った後白河法皇の側近である藤原成親・西光・俊寛などが、1177年に京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平氏打倒の陰謀を企てたとされる鹿ケ谷の陰謀が起こると、後白河法皇と清盛の友好関係は崩壊します。

鹿ケ谷の陰謀の後も後白河法皇は平氏政権を転覆させようとしたので、1179年に清盛は後白河法皇を幽閉するクーデターを決行しました(治承三年の政変)

後白河法皇による院政を停止して全権を握った清盛は、徳子と高倉天皇の間に生まれた子を安徳天皇として即位させます。

名目上は高倉上皇の院政でしたが、安徳天皇が3歳だったことから平氏の傀儡政権であることは明らかで、平氏に対する反発が強くなりました。

そして1180年、後白河法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨を発して挙兵したことをきっかけに、源頼朝源義仲をはじめとする源氏が全国各地で挙兵するなか、清盛は熱病に倒れて亡くなりました。

後白河法皇と源頼朝

平氏一門を支える大黒柱であった平清盛が亡くなり、清盛の3男である宗盛が跡を継ぎましたが、宗盛は京都を目指して進軍する義仲に対抗しきれず、再起を期して京都から脱出すると、後白河法皇は平氏打倒のために暗躍します。

平氏一門が安徳天皇を連れて都落ちしたので、後白河法皇は高倉天皇の第4皇子である尊成(たかひら・たかなり)親王を、義仲は以仁王の第1皇子である北陸宮(ほくろくのみや)を次の天皇に推して対立しましたが、宇治川の戦いで義仲を破った源義経と源範頼が入京すると、後白河法皇は尊成親王の即位(後鳥羽天皇)を断行しました。

そして、軍事力には優れているが政治には疎い義経を、頼朝の許可を得ずに検非違使(不法・違法を検察する天皇の使者)に任命して、頼朝と義経の対立を画策します。

1185年、平氏一門が壇ノ浦の戦いに敗れて滅亡すると、源氏の勢力に恐れをなした後白河法皇は頼朝追討の院宣を出しましたが、頼朝は北条時政を上洛させて、義経の捕縛を理由に守護・地頭の設置を強行させました。

後白河法皇はすぐに頼朝追討の院宣を義経追討に切り替えて保身を図りましたが、頼朝が守護・地頭を任命する権利を得たことで、鎌倉幕府が事実上完成します。

そして、後白河法皇が義経追討の院宣を出したことで、義経は自害に追い込まれ、義経を匿っていた奥州藤原家は滅亡しました。

1190年、後白河法皇は頼朝と対面し、頼朝を権大納言・右近衛大将に任命します。

源頼朝を征夷大将軍に任命することを頑なに拒み続けた後白河法皇は、1192年に糖尿病が原因で66歳の生涯を閉じました。

後白河法皇が亡くなった4ケ月後、頼朝は征夷大将軍に任命されて、名実ともに鎌倉幕府が完成しました。

後白河天皇のエピソード・逸話

梁塵秘抄

後白河天皇は「今様狂い」とまで呼ばれるほど、今様を愛好しました。

今様とは、「現代風・現代的」という意味で、当時の流行歌のことで、大河ドラマ「平清盛」のテーマにも使われて有名になった「遊びをせんとや生まれけむ」など、七五調の歌詞を4回繰り返して1コーラスとなります。

10歳くらいから今様を愛好した後白河天皇は、昼は一日中、夜は一晩中歌い明かしていたので、3回も声が出なくなったことがありました。

熱心に稽古をして多くの歌謡を知った後白河天皇は、自分の死後にこれらの歌謡が伝わらなくなることを嘆き、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様の歌謡集を編纂しています。

さらには、「今様合(いまようあわせ)」という歌会も開催しており、選ばれた30人の公卿に、毎夜一番ずつ今様歌を合わさせて、優劣を競わせました。

まさむね
まさむね
これを15日間も続けた後白河天皇。

まさに「今様狂い」だった後白河天皇ですが、それに付き合わされた家臣は本当に大変だったと思います…。

男色関係

藤原頼長の日記である『台記』には、当時の公家は男色を嗜んでいたことが書かれていますが、多くの女性を寵愛した後白河天皇も、なかなかの両刀使いだったとされています。

後白河天皇は藤原信頼を重用し、周囲から“あさましき”といわれるほど信頼を寵愛していましたが、『平治物語』では信頼が寵愛されたのは後白河天皇と男色関係あったからだとされており、尋常ではない寵愛ぶりを危惧した信西は、楊貴妃に溺れて国を傾けた玄宗に例えて後白河天皇を諫めましたが、効果はありませんでした。

この他に、鎌倉時代初期の史論書である『愚管抄』に「フヨウノ若殿上人」と、相当なイケメンだったとされる藤原成親は「ナノメナラズ御寵アリケル」と記されており、後白河天皇と男色関係にあったことが窺えます。

まさむね
まさむね
その一方で、成親は頼長と男色関係にあったとか…。

4行でわかる後白河天皇のまとめ

まとめ
  • 誰にも期待されていなかったが、鳥羽上皇の思惑で第74代天皇になる
  • 平清盛や源頼朝を巧みに利用して、貴族中心の時代から武士中心の時代へと変化する時代を生き抜く
  • 今様を愛好し、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』という今様の歌謡集を編纂する
  • 藤原信頼や藤原成親などの側近と男色関係にあったとされている

皇位継承とは無縁の自由な立場だったことから、良くも悪くも新しい時代に柔軟に対応できた後白河天皇は、複数回の中断を挟みながらも34年にわたる院政を行いました。

力を持った勢力とそれに対抗する勢力を巧みに操って争わせるなど狡猾だった後白河天皇は、頼朝に「日本国第一の大天狗」と呼ばれます。

そのときの状況次第で態度を変えていたので卑怯者と見えるかもしれませんが、見方を変えれば、それだけ後白河天皇が政治感覚に優れていたということです。

無能とされながらも即位し、清盛や頼朝などと互角に渡り合って、混乱する時代を乗り切った後白河法皇は有能だったといえるのではないでしょうか。

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