平清盛(たいらのきよもり)といえば、武士として初めて太政大臣になり、日本で最初の武家政権を樹立したことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
『平家物語』で悪虐・非道・非情の描写をされていることから“暴君”のイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では平清盛についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
平清盛のプロフィール
- 平清盛(たいらのきよもり)
- 父:平忠盛(白河法皇?)
- 母:白河院女房(祇園女御の妹?)
- 享年64(1118年1月18日~1181年閏2月4日)
平清盛は何をした人?
貴族中心の時代を終わらせて武家中心の時代を作り、「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどの繁栄を築いた平清盛の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
平清盛の生い立ち
平清盛は伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれました。
忠盛は北面武士や追討使として白河院政と鳥羽院政を武力的に支えていたほか、日宋貿易によって莫大な富を貯蓄していました。
そのため1153年に忠盛が亡くなり、36歳で平氏の頭領となった清盛は忠盛の築いた武力と財力を引き継ぐことになります。
平氏政権の形成
1156年に鳥羽法皇が亡くなると、天皇家の皇位継承問題と藤原摂関の内紛が混合した保元の乱が起こりました。
後白河天皇と藤原忠通、崇徳上皇と藤原頼長に分裂して争われた保元の乱で、清盛は後白河天皇方に味方して勝利に導きます。
清盛や源義朝など武士の力によって勝敗が決定したことから、保元の乱は武士の存在感を示し、後の約700年にわたる武家政権に繋がるきっかけになりました。
保元の乱の後、後白河天皇は第1皇子である二条天皇に譲位して院政を開始し、後白河法皇の側近である藤原通憲(信西)が国政改革を推進します。
改革を実現させるため、清盛は信西に厚遇されましたが、義朝は冷遇され、これに不満をもった義朝は信西と敵対する藤原信頼と結託してクーデターを起こしました。
1159年、清盛の熊野参詣中に挙兵した義朝と信頼は、後白河上皇と二条天皇を幽閉して信西を殺害しましたが、急いで都に戻った清盛の軍勢に敗れます(平治の乱)。
平治の乱の結果、清盛以外の有力武士が滅亡したため、清盛は朝廷の軍事力・警察力を掌握して平氏政権樹立の礎を築きました。
平氏政権の全盛期
清盛は天皇と上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていきます。
1160年に清盛は参議に任じられ、武士として初めて公卿と呼ばれる上級貴族の仲間入りを果たしました。
そして、1167年には最高位である太政大臣に就任しましたが、太政大臣は実権のない名誉職だったので3ヶ月で辞任し、清盛は政界から表向きは引退します。
1168年に清盛は病に倒れて出家しました。
病から回復した清盛は福原に別荘である雪見御所を造営して、厳島神社の整備と日宋貿易の拡大に没頭します。
大輪田泊(現在の神戸港の一部)を修築して日宋貿易を積極的に行い、莫大な富を手にするとともに、国内に宋銭を流通させて通貨経済の基礎を築きました。
この頃は、後白河上皇も出家して法皇となり、清盛の娘である徳子が後白河法皇の第7皇子である高倉天皇に入内するなど、清盛と後白河法皇の関係は友好的なものになります。
この間に、30を超える知行国と500ヵ所以上の荘園を所有するようになり、平氏一門は隆盛を極めました。
平氏政権の動揺・衰退
清盛の義弟である平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と高言した平氏一門による隆盛に、貴族や武士から不満を持つ者が現れるようになりますが、その中心となっていたのは後白河法皇です。
1177年に後白河法皇の側近たちが東山鹿ヶ谷の山荘に集まって平氏打倒の陰謀を企てたとされる鹿ケ谷の陰謀が起こると、首謀者は斬首・流罪となりましたが、後白河法皇は罪に問われませんでした。
しかし、その後も後白河法皇が平氏政権を転覆させようとしたため、1179年に清盛は後白河法皇を幽閉するクーデターを決行します(治承三年の政変)。
その結果、後白河院政が停止され、平氏が全ての政治権力を握ることになりました。
全権を握った清盛は、徳子と高倉天皇の間に生まれた子どもを安徳天皇として即位させ、天皇の外戚という立場を手に入れます。
名目上は高倉上皇の院政でしたが、安徳天皇が3歳だったことから平氏による傀儡政権であることは明らかで、平氏に対する反発は強まりました。
1180年に後白河法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)が、平氏追討の令旨を発して挙兵しましたが失敗に終わります。
延暦寺にも平氏打倒の動きがあることを知った清盛は、有力寺社に囲まれて地勢的に不利な京都を放棄し、平氏の拠点である福原に遷都を断行しました。
しかし、以仁王の令旨は全国各地に届けられており、源頼朝や源義仲をはじめとする源氏が各地で挙兵します。
富士川の戦いに敗れたことをきっかけに、反乱勢力の勢いが増したことと、九州でも反乱が勃発し、遷都を望まない声が高まったことで、清盛は平安京に還都しました。
そして、近江の平定に成功した清盛は興福寺や東大寺など南都の諸寺を焼き払い、仏敵の汚名を着ることになります。
このような緊迫した情勢の中、清盛は熱病に倒れて64歳で亡くなりました。
平清盛のエピソード・逸話
本当の父親は白河法皇?
清盛は忠盛の長男とされていますが『平家物語』では、白河法皇が寵愛していた祇園女御を忠盛に贈ったが、祇園女御はすでに白河法皇の子を妊娠しており、白河法皇は「生まれた子が女子なら私の子にする。男子なら忠盛の子として育てよ」と言い、そうして生まれたのが清盛だとされています。
一方『仏舎利相承次第』では、清盛の実母は祇園女御の妹で白河法皇に仕える女房だったとされており、忠盛が白河法皇の子を妊娠した祇園女御の妹を妻として迎え、亡くなった妹に代わって祇園女御が清盛の面倒を見たとされています。
本当は優しい?
暴君のイメージが強い清盛ですが、清盛は優しい性格だったとされています。
清盛は家臣を叱るとき、恥をかかせないように誰もいない場所に呼んで丁寧に諭し、相手が奉公人でもその家族や知人の前では一人前の人物として扱っていました。
また、日宋貿易を推進するために音戸の瀬戸(広島湾東部)を開削した際には、人柱を廃止して、一つ一つの石に経典を書いた経石を海に沈めたとされています。
このように温厚で情け深かった清盛ですが、その優しい性格が災いして、敵対した義朝の子どもの命を助けたことで、平家は滅ぼされてしまいました。
平清盛のまとめ
- 36歳で平氏の頭領になり、忠盛の築いた武力と財力を引き継ぐ
- 保元の乱で後白河天皇方に味方して信任を得る
- 平治の乱に勝利して権力を握り、武士として初めて太政大臣になる
- 日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、国内に宋銭を流通させて通貨経済の基礎を築く
- 日本で最初の武家政権を樹立する(平氏政権)
- 隆盛を極める平氏一門に反発した後白河法皇を幽閉し、娘が生んだ安徳天皇を即位させて政治の実権を握る
- 平氏に対する反発が強くなり、全国各地で源氏が挙兵するなか、熱病で亡くなる
- 平忠盛ではなく白河法皇が実の父親だという説がある
- 優しい性格が災いして源義朝の子どもを助けたことが平家滅亡に繋がる
清盛は貴族中心の時代を終わらせて武士中心の時代を作りましたが、武士だった清盛が貴族化して武士の反感を買うという皮肉な結果を招き、平氏の時代を守り続けることはできませんでした。
まさに「奢れる人も久しからず」ですね。