平安時代

源義仲(木曽義仲)ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

源義仲(木曽義仲)

源義仲(みなもとのよしなか)といえば、平氏打倒のために挙兵し、従兄弟の源頼朝源義経に劣らぬ活躍をしたことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

義仲は幼いときに父を殺され、木曾谷で育ったことから、木曾義仲(きそよしなか)とも呼ばれていますが、“乱暴者”としてのイメージが強く、悪者扱いされていますが、実際はどうだったのでしょう。

この記事では源義仲(木曾義仲)についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

源義仲(木曾義仲)のプロフィール

  • 源義仲(みなもとのよしなか)/木曾義仲(きそよしなか)
  • 幼名:駒王丸
  • 父:源義賢
  • 母:小枝御前
  • 享年31(1154年~1184年1月20日)

源義仲(木曾義仲)は何をした人?

わずかな手勢で平家軍を圧倒し、平家を都落ちさせるという功績を挙げながら、なぜ後白河法皇と対立し、源頼朝に討たれてしまったのでしょうか。

義仲の生い立ち

1154年、源義仲こと木曾義仲は源義賢の2男として生まれました。

しかし1155年、父の義賢が一族の争いに巻き込まれ、源義平(源義朝の長男)に殺害されてしまいます(大蔵合戦)。

報復を恐れた義平は、義仲を殺せと命じましたが、周囲の計らいで信濃国木曾谷に逃れ、中原兼遠に養育されて成長した義仲は、木曾義仲と名乗るようになります。

平氏打倒のために挙兵

1179年、平清盛後白河法皇を幽閉し、孫にあたる安徳天皇を即位させて政治の実権を握ると、平氏一門への不満が全国に渦巻くようになりました。

1180年、平氏に不当な扱いを受けてきた以仁王(後白河法皇の第3皇子)が全国各地に平氏打倒を命じる令旨を発したことを受けて、義仲は挙兵することを決意します。

しかし、一緒に挙兵したのは、樋口兼光・今井兼平ら数人と、少数の信濃の武士だけだったので、平家軍にとっては虫けらのような存在でした。

ところが、義仲軍は初戦に勝利すると、挙兵から1ヵ月後には父・義賢の領地だった上野国に進出するなど、まさかの快進撃をみせます。

その後、義仲は地元の豪族を味方につけ、勢力を拡大しながら北陸へ向かいました。

そして、横田河原の戦いに勝利すると、義仲のもとには続々と武士が集まり、北陸の武士までもが加勢するようになります。

しかしその一方で、源頼朝と対立した2人の叔父を庇護したことで、頼朝との関係に亀裂が生じてしまい、義仲は嫡男・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送ることで和睦を結びました。

倶利伽羅峠の戦い

1183年、義仲軍は北陸を手中に治めかけていましたが、越中と加賀の国境にある倶利伽羅峠(くりからとうげ)には、平維盛が率いる大軍が待ち構えていました。

倶利伽羅峠は谷が深く、山は高く険しいうえ、馬や人がすれ違うのが難しいほど道が細い難所だったので、義仲は倶利伽羅峠の地形を巧みに利用します。

義仲は、まず自分が率いる軍勢で平家軍の注意を前方に引き付け、その間に残りの兵力を分散させて、周囲からいっきに夜襲をしかけることで、平家軍を地獄谷と呼ばれる断崖に追い込み、壊滅させました。

まさむね
まさむね
『源平盛衰記』には、このとき義仲軍が数百頭の牛の角に松明を結び付けて敵中に放ったとされています(火牛の計)。

倶利伽羅峠の戦いに勝利した結果、それまで平家に従っていた豪族や寺社勢力も義仲に加勢するようになりました。

さらに、北陸宮(以仁王の第1皇子)が保護を求めてきたことで、上洛するための大義名分を得た義仲は、京都を目指します。

義仲の入京

破竹の勢いで京都に迫る義仲軍をまえに、平氏一門は安徳天皇を伴って西国へ逃れました。

そのため、義仲が入京すると、京都の人々は平家を都落ちさせた英雄として歓迎します。

そして、貴族たちも義仲に強い期待を寄せていました。

平家軍がいなくなったことで、京都では略奪や放火が横行するなど治安が悪化してしまったので、狼藉を働く者を取り締まることを求めていたのです。

朝廷から京都の警護を任された義仲は治安回復に乗り出しましたが、義仲軍が略奪をはじめるという予想外の事態が起こってしまいました。

まさむね
まさむね
1181年に起こった養和の飢饉の影響で、京都は深刻な食糧不足に悩まされており、義仲軍を満足させる食料や物資がなかったのです。

京都の人々から失望されてしまった義仲は、朝廷から従五位下・左馬頭、越後守の官位を手に入れ、朝廷の権威を用いることで狼藉を働く武士を取り締まろうとしました。

しかし、京都の治安は回復されず、義仲軍に対する失望はさらに強くなってしまいました。

後白河法皇との不和

義仲は次の天皇として北陸宮を推挙しました。

義仲は平氏打倒を命じた以仁王の皇子である北陸宮こそ次期天皇に相応しいと主張しましたが、武士が皇位継承に介入するのは異例なことで、後白河法皇の怒りを買ってしまいます。

後白河法皇は北陸宮の擁立に猛反対し、四之宮(高倉天皇の第4皇子)を次の天皇に指名したため、御占で次の天皇を決めることにした結果、四之宮が即位(後鳥羽天皇)することになりました。

この一件で後白河法皇と対立し、治安回復にも失敗して立場が悪くなった義仲は、信用回復のために、平家追討に向かいました。

しかし、平家軍に苦戦する義仲のもとに、源頼朝が弟に大軍を率いさせて京都に向かわせたという信じられない情報がもたらされました。

まさむね
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後白河法皇は頼朝と結託して、義仲を京都から追い出そうとしていたのです。

平家との戦いを切り上げて帰京した義仲は、頼朝を討つための協力を求めましたが、後白河法皇と頼朝に睨まれた義仲に従う者はいませんでした。

法住寺合戦と義仲の最期

窮地に陥った義仲は実力行使に踏み切り、法住寺を攻撃して、後白河法皇を幽閉しました。

そして、源頼朝追討の院宣を出させ、自らを征東大将軍に任命させます。

しかし、後白河法皇から強引に実権を奪った義仲に従う者は無く、残ったのは最初に木曾で挙兵した者たちだけでした。

1184年、宇治川で源義経軍を迎え討った義仲軍は、兵の数で劣っていたため敗れ、義仲は本拠地の北陸へ逃れようとします(宇治川の戦い)

その途中で、今井兼平と再会しましたが、鎌倉軍が迫っていたため、兼平は義仲に自害することを勧めて敵中に向かいました。

義仲は自害することを決意しましたが、馬が泥にはまって身動きが取れなくなったところを矢で射ぬかれ、討ち取られてしまいました(粟津の戦い)

源義仲(木曾義仲)のエピソード・逸話

猫間中納言

『平家物語』のなかの義仲は、礼儀知らずの田舎者として描写されています。

ある日、藤原光隆という人物が義仲のもとを訪れましが、当時、京都の壬生あたりは猫間とされており、壬生に屋敷があった光隆は「猫間中納言」と呼ばれていました。

そのため、郎党が「猫間殿がお見えです」と取り次ぐと、義仲は「猫が会いにきた?」と大笑いしました。

当時、貴族は一日二食で昼食を抜いていましたが、貴族の習慣を知らない義仲は、ちょうど昼時だったこともあり、中納言に昼食を勧めます。

中納言は「今はいりません」と断ったものの、強引に昼食を勧められたので、仕方なく食べるふりをしていると、義仲は「猫殿は小食でしたか。猫おろしという言葉もありますから。遠慮せずに掻き込んで食べて下さい」と言いました。

まさむね
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猫おろしとは、猫が食べ物を残すことで、これに呆れた中納言は相談することを諦めて帰ったとされています。

義仲と牛車

義仲は出仕するため、初めて狩衣に烏帽子を身に着けましたが、装束の正しい着方を知らなかったので、まったく着こなせていませんでした。

それでも何とか牛車に乗り、御所へと向かいましたが、この牛車は平宗盛のものだったので、義仲が乗ることに不満だった牛飼いは、門を出るとき、牛に鞭打ちしたため、牛車は急発進してしまいます。

義仲は仰向けに倒れてしまいましたが、慣れない装束だったため起き上がることができず、蝶のように左右の袖を広げてもだえました。

牛飼いという言葉を知らなかった義仲は、「やれ、子牛健児(こうじこでい)!」と言ったため、「もっと車を走らせろ」と言っていると勘違いした牛飼いは、そのまま牛車を走らせてしまいます。

その後、牛車は御所に到着しましたが、義仲が後ろから降りようとしたため、雑色が「乗るときは後ろからですが、降りるときは前から降りて下さい」と言いました。

しかし、義仲は「たとえ車だからとはいえ、素通りするべきか」と言って、後ろから降りてしまいました。

まさむね
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この他にも可笑しいことがたくさんありましたが、誰もが義仲を恐れて何も言わなかったそうです。

源義仲(木曾義仲)のまとめ

まとめ
  • 源義賢の2男として生まれる
  • 父・義賢が殺害されたため、信濃国木曾谷へ逃れて育つ
  • 以仁王の平氏打倒を命じる令旨に応じて挙兵する
  • 倶利伽羅峠の戦いに勝利して入京する
  • 後白河法皇と対立し、法住寺合戦で後白河法皇を幽閉する
  • 宇治川の戦いで敗れて敗走し、粟津の戦いで敗死する

義仲は武功には優れていましたが、礼節や政治感覚に欠けていました。

未熟なまま勢いだけで入京した義仲に対し、伊豆に流されるまで京都に住んでいた源頼朝は、朝廷が難しい場所だということを知っていたため、後白河法皇と上手くわたり合うことができたのです。

義仲が亡くなった後、鎌倉にいた義高は逃亡しようとしましたが殺害され、義高が殺されたことを知った大姫は、悲しみのあまり10年以上病み続けて、20歳で亡くなってしまいました。

敵対した義仲を討った頼朝は鎌倉幕府を開くことができましたが、娘の命も奪われるという残酷な結果が待っていました。

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