鎌倉時代

足利尊氏ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめました

足利尊氏

足利尊氏といえば歴史の教科書で言えば室町幕府を開いた人として知られていますが、具体的にどのような事をしたのか、幕府を開いた以外に何をしたのか思いつかないような気さえ感じてしまいます。

この記事では、足利尊氏の経歴や逸話まで、どんな人物なのかわかりやすく簡単にまとめてみました。

足利尊氏のプロフィール

  • 幼名:又四朗
  • 本名:足利高氏(あしかがたかうじ) 北条高時からの偏諱「高」
  • 改名:足利尊氏(あしかがたかうじ) 後醍醐天皇(尊治親王)からの偏諱「尊」
  • 享年:52歳
  • 生年:嘉永3年(1305年)7月27日
  • 没年:正平13年(1358年)4月30日
  • 鎌倉時代から室町時代にかけての武士、政治家

足利尊氏は何した人?

具体的にどのような事をしたのか(起こったのか)並べてみると

  • 鎌倉幕府の打倒
  • 後醍醐天皇派との対立
  • 室町幕府の設立
  • 天龍寺の建立
  • 観応の擾乱

が挙げられます。

以下で詳しくご紹介しますね。

鎌倉幕府の打倒

足利高氏は嘉永3年(1305年)に清和源氏の一族である足利貞氏の二男として生まれます。

代々関東武士として鎌倉幕府の北条家に仕え、北条一族に次いで信頼される家柄となりました。

そのために戦乱の鎮圧の際には足利氏が大将に任じられ討伐に向かうという事も少なくありませんでした。

元応元年(1319年)には15歳で元服すると、北条家の得宗であった北条高時の「高」の字をもらい、この時から足利高氏と名乗る事になります。

北条家に従順な立場を示していた足利家でしたが、父の死後に家督を継ぐとさっそく元弘の変によって後醍醐天皇の討幕計画が発覚します。

父の喪に服したかった高氏でしたが鎌倉幕府に許されることもなく、北条方として後醍醐天皇側の勢力の討伐に向かいます。

この乱を収めると後醍醐天皇は隠岐国(現島根県)へと島流しに遭いますが、3度目の討幕計画を立てて伯耆国(現鳥取県)から全国の武士へ味方になるように呼びかけを行います。

これを察知した鎌倉幕府は足利尊氏に討伐を命令します。

当初は命令に従い戦地へと向かっていましたが、ともに討伐に向かっていた北条方の名越高家が京都で戦死すると突然、後醍醐天皇方となり反対に京都の六波羅探題を攻略し、やがては味方勢力の新田義貞が鎌倉を個略し鎌倉幕府を滅ぼす事に成功しました。

後醍醐天皇派との対立

その後、都に後醍醐天皇を迎えると、一番活躍したその功績から従四位下の武蔵守という官位を賜り名前も後醍醐天皇の本名である「尊治親王」の「尊」という字をもらい「尊氏」と名乗る事になります。

後醍醐天皇の建武の新政に協力していた尊氏でしたが、追い出した北条氏の一族が鎌倉を取り戻すという「中先代の乱」が発生しました。

弟の直義が北条氏の残党と戦っており、尊氏も京都から鎌倉へ援軍に行くために後醍醐天皇に許可を得ようとしますが、許可が下りなかったために、独自の判断で鎌倉へ向かいました。

この頃から後醍醐天皇と足利尊氏との間に亀裂が起こったといわれています。

尊氏のこの動きを反乱と捉え、後醍醐天皇の命令で尊氏は後醍醐天皇方の勢力と戦いを繰り広げます。

一時は京都までたどり着き、後醍醐天皇を比叡山まで追いやりますが、敵の援軍が来たために敗れてしまい、九州の大宰府まで退却します。

室町幕府を開く

今度は九州から兵力を京都に差し向け、播磨国でライバルであった楠木正成親子を破り京都に入り後醍醐天皇に退位させると、自身は新しく天皇となった光明天皇より征夷大将軍に任じられ、室町幕府を樹立しました。

一方で、後醍醐天皇は大和国の吉野へ逃れるとここで京都の朝廷に対抗する新たな朝廷を作る事となり、いわゆる「南北朝」時代が始まる事になりました。

まさむね
まさむね
この南北朝時代は尊氏の孫の代でアニメ一休さんでおなじみの3代将軍足利義満の時代まで続く事になります。

天龍寺の建立

歴史の教科書で足利尊氏の功績の一つに挙げられるのが天龍寺の建立です。

後醍醐天皇は吉野へ逃れると翌年には崩御します。

足利尊氏は後醍醐天皇の崩御に伴い、帰郷を望んでいた後醍醐天皇の霊を弔うために嵯峨野に天龍寺という寺院を建立しました。

まさむね
まさむね
後醍醐天皇は臨終の際に
「身はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」
という言葉を残しています。

怨霊というものの存在が信じられていたために、京都に戻ろうとしていた後醍醐天皇の執念を汲み取り、その霊を弔いたかったのかもしれません。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)

これで敵がいなくなったように思えた尊氏ですが、今度は足利政権下で中心となっていた家臣の高師直と実の弟である足利直義が対立するようになり、いわゆる観応の擾乱と呼ばれる内部分裂状態が発生します。

政権内の対立を防ぐために弟の直義を政権から降ろしましたが、直義が今度は南朝側に付いたり、尊氏が直義派を攻めるために南朝側と手を結ぶなど非常に混乱した状態が続きます。

まさむね
まさむね
この「観応の擾乱」という足利政権内の内部分裂が発生したために、南北朝という状態が延元元年(1337年)より約55年間も続く事になりました。

足利尊氏のエピソード・逸話

足利幕府は予言されていた

足利尊氏の祖父である足利家時が自刃する際に、自分の命を縮める事と引き換えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取る事を祈願したとも言われており、実際に孫の尊氏が足利幕府を開く事になりました。

まさむね
まさむね
信じるか信じないかはあなた次第です。

足利尊氏を取り巻くライバルたち

足利尊氏と同時期に生きた武士たちに楠木正成新田義貞らがいました。

足利家と新田家は同じ清和源氏の流れを組む一族であり、後醍醐天皇方として鎌倉幕府の討幕のために協力して戦いますが、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると敵の立場として対立するようになり北陸地方での戦いで戦死します。

また、楠木正成も同様に足利尊氏と対立し湊川の戦いで直接対決し楠木親子ともども戦死してしまいます。

まさむね
まさむね
一時は同じ勢力下でともに戦った味方同士であったとはいえ、昨日の友は今日の敵という状態でした。

5行でわかる足利尊氏のまとめ

まとめ
  • 鎌倉幕府の討幕に加わった
  • 後醍醐天皇を退位させ、室町幕府の征夷大将軍に
  • 後醍醐天皇の霊を弔うために、天龍寺を建立
  • 観応の擾乱と呼ばれる内部分裂が発生し、南北朝時代へ突入
  • 楠木正成や新田義貞と共に戦ったが後にライバル関係に

足利尊氏は清和源氏の血の流れる源氏一族として、鎌倉幕府の北条家に信頼された武士という存在となっていましたが、同時代を生きた後醍醐天皇の討幕反乱に翻弄され、巻き込まれる中で北条家に対する反抗心が芽生え、やがては敵であった後醍醐天皇方に付き鎌倉幕府を倒す事に成功します。

しかし今度は後醍醐天皇と対立する事となり、やがては政権を奪い、京都で室町幕府を樹立する事になりましたが、内部分裂や混乱が相次ぎ、安定した政権樹立とはなりませんでした。

室町幕府の設置にはじまる室町時代は京都に将軍という立場があるものの、諸勢力の対立を押さえる事ができずに独自勢力の台頭や支配をゆるし、応仁の乱以降さらに混乱する戦国時代へと突入する事になります。

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