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江戸時代

徳川家慶ってどんな人?12代将軍のエピソードをまとめてみました

徳川家慶

徳川家慶といえば、教科書やドラマでも大きく取り上げられることがなく、「何代目?」「何した人?」と思われる人が多いのではないでしょうか。

歴代将軍のなかでも知名度が低く、影が薄い徳川家慶ですが、蛮社の獄や天保の改革など重要なことに関わっています。

この記事では徳川家慶についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

徳川家慶のプロフィール

  • 徳川家慶(とくがわいえよし)
  • 幼名:敏次郎
  • 父:徳川家斉(第11代征夷大将軍)
  • 母:香琳院(徳川家斉の側室)
  • 享年61(1793年5月14日~1853年6月22日)
  • 江戸幕府第12代征夷大将軍(在職:1837年~1853年)

徳川家慶は何をした人?

45歳という高齢で将軍になった徳川家慶の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。

特に関係がある出来事を並べてみると、

  • 蛮社の獄
  • 天保の改革
  • 黒船来航

などがあります。

以下で詳しく紹介しますね。

蛮社の獄

家慶は第11代将軍徳川家斉(いえなり)の2男として生まれ、1837年45歳で第12代将軍に就任します。

家慶が将軍になった直後、アメリカの商船モリソン号が来航しましたが、異国船打払令(日本に近づく外国船は砲撃して追い返す)によって、モリソン号を砲撃して退去させました。

しかしその後、モリソン号は通商・布教と救助した日本人漂流民を送り届けるために来航していたことが分かると、来航の目的も聞かずに一方的に追い返した幕府の鎖国政策を、渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)などの蘭学者が厳しく批判します。

そのため、幕府は渡辺崋山と高野長英を処罰して言論統制を行いました。

当時の江戸では蘭学が盛んに学ばれており、蘭学を学ぶ学者の集団は国学者から「蛮社」と呼ばれていたことから、この弾圧事件は蛮社の獄と呼ばれています。

天保の改革

50年間も将軍職に就いていた家斉は、将軍職を家慶に譲った後も大御所として政治の実権を握って放漫な政治を行っており、幕府は腐敗して財政は危機的状況に陥っていました。

そのため1841年家斉が亡くなると、家慶は家斉派を粛正して水野忠邦(ただくに)を登用し、幕府の財政再建を目的とする天保の改革を行います。

大御所時代の綱紀の乱れを正すために奢侈禁止・風俗粛正を命じ、倹約令によって質素倹約をすすめましたが、徹底的に贅沢を禁止したことで庶民の反感を買ってしまいました。

この他にも、人返しの法や株仲間解散令によって増収と景気回復を試みましたが、いずれも失敗。

さらに、1843年上知令を出し、江戸と大坂周辺の領地を幕府の直轄地とするために、該当する領地の大名・旗本に領地替えを命じたことで猛烈な反対を受け、忠邦は失脚して天保の改革は失敗に終わります。

黒船来航

その後、家慶は阿部正弘を登用して幕政の立て直しを図り、次第に強まる欧米列強諸国の脅威に対応するための体制を整えていきました。

1853年ペリー提督が開国と通商を求めるアメリカ大統領フィルモアの親書を持って浦賀に来航します。

「開国」か「攘夷(外国を追い出そう)」か、ペリーの要求に対して幕府が混乱する中、家慶は暑気当たりで倒れてしまいました。

そして、黒船来航から19日後、家慶は61歳で亡くなりました。

まさむね
まさむね
死因は熱中症による心不全とされています。

徳川家慶のエピソード・逸話

そうせい様

家慶は45歳でようやく将軍になったものの、実権は家斉が握っていました。

家斉が亡くなるまでの4年間、実権がなかった家慶は何も決めることができなかったので、何を聞いても「そうせい」としか答えませんでした。

そのため、家臣たちに「そうせい様」というあだ名をつけられてしまうことに……。

似たもの親子

家慶と家斉は不仲だったとされていますが、家慶には家斉と似ていることがあります。

子だくさんで「オットセイ将軍」と呼ばれた家斉は53人(55人という説もあります)もの子どもを作りましたが、家慶も27人(14男・13女)の子どもを作りました。

27人の子宝数は歴代将軍のなかでも第2位で、第1位の家斉と親子でトップ2を独占するという“快挙”を成し遂げています。

この他にも、家慶は家斉と同じく生姜が大好物でした。

家慶は焼き魚の添え物として出される生姜を食べることを楽しみにしていましたが、ある日の膳から生姜が無くなってしまいます。

不思議に思った家慶が「なぜ生姜がない?」と聞くと、家臣が「生姜も倹約の対象となったので、今後も膳には出せません」と答えたので、家慶は顔を真っ赤にして「生姜は倹約から外せ!」と激怒したそうです。

まさむね
まさむね
「子だくさん」で「生姜好き」、仲が悪くても似たもの親子だった家慶と家斉。

違ったことといえば女性との接し方で、家斉は手当たり次第に多くの女性と関係を持っていましたが、家慶は特定の女性と関係を持ち、ある程度の期間はその女性を大切にしていたことくらいではないでしょうか。

徳川家斉についてはこちらの記事で詳しくまとめています。

徳川家斉
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一橋慶喜を次期将軍に

家慶は27人も子どもを作りましたが、成人したのは4男家定だけでした。

家定以外の子どもが早くに亡くなった理由は、将軍の子どもは顔中に白粉を塗られて重臣たちに顔見せされていたことと、化政文化の影響で顔からお腹の辺りまで白粉を塗った女性の母乳を飲んだことで、水銀中毒になったことが考えらえています。

ただ一人生き残った家定にも障害があったとされており、家定を可愛がった家慶は懸命に家定のリハビリに励みましたが思うような結果を得られませんでした。

そのため、家慶は「病弱でキレやすく、人前に出ることを嫌う家定より、聡明な一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の方が次期将軍に相応しいのでは」と考えるようになりましたが、阿部正弘たちが反対して説得したことで、家慶は家定を正式な後継者とします。

まさむね
まさむね
歴代将軍の中でも、自分の子どもを将軍にしたがらなかったのは家慶だけでした。

徳川家慶のまとめ

まとめ
  • 45歳で第12代征夷大将軍になる
  • モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判した渡辺崋山と高野長英を処罰する(蛮社の獄)
  • 水野忠邦を登用して天保の改革を行うが失敗する
  • 黒船来航直後に病に倒れ、61歳で亡くなる
  • 将軍になってからも家斉に実権を握られて決定権がなかったので、家臣に「そうせい様」というあだ名をつけられる
  • 家斉と同じく、子だくさんで生姜好きだった
  • 27人の子どもを作ったが、ただ一人生き残った家定が病弱で障害があったので、聡明な一橋慶喜を後継者にしようと考えたが、反対されたので家定を後継者にする

大御所として権力を握り続けた父と、病弱で障害のあった息子に悩まされた家慶。

越前藩主松平慶永は家慶のことを「凡庸の人」と評価しています。

しかし、家慶は家斉による大御所政治を是正するために水野忠邦を登用して天保の改革を行い、天保の改革が失敗に終わると直ぐに阿部正弘を登用して幕政を立て直すなど、優れた人材登用を行っており、決して暗君ではありませんでした。

緊迫する内憂外患の時代を生きながら、存在が地味なために功績を評価されていない家慶ですが、お由羅騒動(薩摩藩の家督争い)に介入したことで、自分の後継者として考えていた徳川慶喜の他に、島津斉彬(なりあきら)や西郷隆盛などの有能な者を表舞台に引き出し、明治維新の下地を作ったことは家慶の功績と言えるのではないでしょうか。

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