徳川家斉(とくがわいえなり)といえば、「子だくさん」な将軍として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
多くの妻子を持ち、贅沢三昧な生活をしたことで幕府の財政を危機的状況に陥らせたと言われていますが、実際はどうだったのでしょう。
この記事では徳川家斉はどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
徳川家斉のプロフィール
- 徳川家斉(とくがわいえなり)
- 幼名:豊千代
- 父:徳川治済(一橋家第2代当主)
- 母:お富の方(徳川治済の側室)
- 享年69(1773年10月5日~1841年閏1月7日)
- 江戸幕府第11代征夷大将軍(在任:1787年~1837年)
徳川家斉は何をした人?
寛政の改革を行った松平定信を失脚させた後、大御所として政治の実権を握った徳川家斉の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
特に関係がある出来事を並べてみると、
- 将軍就任
- 寛政の改革
- 大御所時代
などがあります。
以下で詳しく紹介しますね。
将軍就任
徳川家斉は御三卿(ごさんきょう)の一つである一橋家第2代当主徳川治済(はるさだ/はるなり)の長男として生まれました。
御三卿とは徳川家から分立した大名家のことで、田安家・一橋家・清水家の3家が、将軍家に後嗣がいない場合に後継者を提供していました。
1779年第10代将軍徳川家治(いえはる)の後継者だった徳川家基(いえもと)が急死したため、家斉は家治の養子となります。
その後、家治が急死したことで、1787年家斉は15歳で第11代将軍に就任しました。
寛政の改革
将軍になった家斉は、家治の時代に権勢を振るっていた田沼意次(おきつぐ)を罷免して、松平定信(さだのぶ)を老中首座(席次が一番上の老中)に任命します。
第8代将軍徳川吉宗(よしむね)の孫である定信は、吉宗と同じように寛政の改革と呼ばれる政治改革を行いました。
この頃、1782年に起こった天明の飢饉による被害が深刻なものとなっており、定信は飢饉で荒れた社会を復興させることを目標に改革を行います。
その結果、財政難だった幕府の財政は一時的に建て直されましたが、定信の政策があまりにも厳しかったので不満や批判が起こりました。
さらに、家斉が父である治済に「大御所」という尊号を贈ろうとしたことに定信が反対したこともあって、家斉と定信は対立するようになり、家斉は定信を罷免してしまいます。
定信が失脚したことで寛政の改革は終わりましたが、家斉が定信と一緒に改革に取り組んでいた松平信明(のぶあきら)を老中首座に任命したことで、定信の政策は受け継がれていきました。
大御所時代
1817年松平信明が病死すると、家斉は側近の水野忠成(ただあきら)を老中首座に任命し、政治の実権を握ります。
家斉が自ら政治を行ったこの時期を大御所時代といいますが、家斉は放漫な政治を行いました。
忠成が贈賄を公認したことで賄賂政治が横行し、家斉は贅沢三昧な生活をおくり、頻繁に現れた外国船に対する海防費が増えたことで、幕政は腐敗して財政も危機的状況に陥ってしまいます。
そのため、質の悪い貨幣を作って大量発行しましたが、物価が高騰してしまって効果がありませんでした。
このような状況の中、1833年天保の飢饉が起こります。
忠成が死去した後、家斉は水野忠邦(ただくに)を老中首座に任命しましたが、実際は家斉の側近を中心とした側近政治が続けられました。
家斉による腐敗政治は天保の飢饉に対して有効な救済策を立てられず、甚大な被害をもたらしてしまい、幕府に対する不満が高まります。
その結果、大塩平八郎の乱や生田万の乱など反乱が相次いで起こったので、家斉は2男家慶(いえよし)に将軍職を譲りましたが、政治の実権は握り続けました。
その後、1841年閏1月7日家斉は69歳で亡くなります。
徳川家斉のエピソード・逸話
オットセイ将軍
「子だくさん」といわれる家斉は分かっているだけで16人の妻と妾を持ち、17歳から55歳まで毎年のように子どもを作っていましたが、その数はなんと53人(26男・27女)!
(※55人という説もあります。)
この驚異的な子宝数は歴代将軍のなかでも第1位で、ある意味“快挙”です。
正室・近衛寔子(広大院)と婚姻を結ぶ前に「どうせ結婚するのだからいいだろ」と婚姻前にもかかわらず手を出してしまうほど、家斉の女好きはズバ抜けていました。
そんな家斉は子づくりだけではなく、精力を維持することにも熱心でした。
大好物だった生姜は毎日かかさずに食べ、オットセイの陰茎を粉末にした精力剤も飲み続けます。
そのため、家斉は「オットセイ将軍」というあだ名をつけられてしまいました。
精力剤を愛飲し続けた家斉の身体は健康体だったので大病を患うこともなく、生姜のおかげで体がポカポカだったから冬も薄着で過ごせました。
しかし、家斉が薄着でいたのは「どうせコトの最中には脱ぐし、いつでもコトに及べるようにしていたから」とも言われています……。
子だくさんだった理由
家斉がたくさん子どもを作った理由は、父である治済の命令だったとされています。
家斉は一橋家から誕生した初めての将軍でした。
そのため、将軍家の血筋を一橋家の血筋に変えてしまおうと考えた治済は、家斉にたくさん子どもを作るように命じたといわれています。
父の命令で53人(※55人という説もあります。)も子どもを作りましたが成人できたのは28人で、2男の家慶以外の全員が全国各地の大名家に養子に入ったり、嫁いだことで、水戸藩以外の御三家と御三卿の血筋は家斉の血筋に変わりました。
ちなみに、家斉の21女溶姫(ようひめ)は前田家に嫁ぎましたが、当時は将軍家から姫をもらうときには「門を赤く塗る」という決まりがあったので、加賀藩の上屋敷に新しく門が建てられて朱色に塗られました。
この「前田屋敷溶姫御殿の表門」は現在「赤門」と呼ばれ、東京大学のシンボルとなっています。
祟りを恐れた?
家斉は父である治済に対して頭が上がらなかったとされています。
大の酒好きだった家斉の酒の量が増えていることを心配した治済が「深酒は身体に悪いから控えるように」と忠告すると、1日3杯以上の酒を飲まなくなったと言われるほど、家斉は父に逆らいませんでした。
もはや、言いなりというより父を恐れていたのではないでしょうか。
そんな家斉が父以外に恐れていたとされるのが徳川家基です。
家基はとても聡明で、将軍になる前から名前に「家」の字を賜るほど次期将軍として期待されていましたが、18歳で急死してしまったので「幻の第11代将軍」といわれています。
家斉は家基の命日には毎年必ず墓参りをしていて、家斉が行けない場合は代わりに家臣を行かせるほど、家基に執着していました。
家斉がここまで家基の霊を慰めようとしていたのは、治済が家斉を将軍にするために家基を暗殺したのではないかと疑っていたからだと考えられています。
「父ならやりかねない」と思った家斉は、自分のために殺された家基への贖罪と祟りを恐れて墓参りを欠かさなかったのかもしれません。
徳川家斉のまとめ
- 一橋家の長男として生まれたけど将軍家の後継者が亡くなったことで、15歳で第11代征夷大将軍になる
- 松平定信を登用して寛政の改革を行う
- 松平定信を罷免して自ら政治の実権を握り、大御所時代と呼ばれる腐敗政治を行う
- 幕府に対する不満が高まって反乱が相次いだことで将軍職を2男家慶に譲るが、政治の実権は握り続ける
- 一橋家の血筋を主流にするためにたくさん子どもを作り、精力を維持するために精力剤を飲んでいたことから「オットセイ将軍」と呼ばれる
- 自分が将軍になるために暗殺された可能性がある徳川家基の祟りを恐れていた
50年にわたって将軍の座に留まり、大御所時代と呼ばれる最悪な腐敗政治を行った家斉。
子どもをたくさん作ったことで養育費や結婚の祝儀のための費用がかさみ、さらに家斉自身が贅沢三昧な生活を送ったことで、幕府の財政は窮地に追い込まれました。
幕府が腐敗して財政が傾いていく一方で、「改革なんて迷惑だ、あんなことはやるものじゃない」と、それまで続けられていた締め付け政策を緩めた結果、化政文化と呼ばれる町人を中心とした文化が発展したことだけが家斉の功績と言えるのではないでしょうか。