江戸時代

徳川吉宗ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめました

徳川吉宗

徳川吉宗という名前はよく聞くし、暴れん坊将軍の人だということは知っているけど、「具体的に何をした人かは知らない……」という人は多いのではないでしょうか。

徳川15代将軍の中でもネームバリューがある将軍ではありますが、その功績は初代の家康や15代の慶喜などに比べるとあまり知られていませんね。

この記事では徳川吉宗の生涯や、その功績と逸話を歴史に詳しくない人でもわかるように、簡単にご紹介したいと思います。

徳川吉宗のプロフィール

徳川吉宗は江戸幕府の8代目将軍です。

1716~45年の29年間在職しました。

■1684年
10月21日に紀伊藩主、光貞の四男として生まれました。

■1697年(元禄10)
14歳のときに越前国丹生(うに)郡に3万石を与えられましたが、1705年(宝永2)に紀伊藩主だった長兄と次兄が相次いで没したため、22歳で第5代紀伊藩主になりました。
就任の際、当時の将軍綱吉から一字もらって、吉宗に改名しています。
紀伊藩主時代は藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して藩財政の再建を推進しました。

■1716年(享保元)
将軍家継が8歳で夭逝し、老中らに推されて将軍に就任しました。
在職中は「諸事権現様(家康)御掟の通り」をスローガンに掲げ、家康時代の復古を目指します。
吉宗が行った幕政の改革を享保の改革といいます。
有能な人材を多く登用し、財政の再建や都市政策、法整備に文教政策と幅広く改革に着手しました。

■1745年(延享2)
長男家重に将軍職を譲るも、家重は体が弱く、政務が執れる状態ではなかったため、大御所として家重に代わり、実権を握りました。

■1751年(寛延4)
6月20日に68歳で死去。
死因は脳卒中と言われています。

徳川吉宗は何した人?

先にも触れましたが、吉宗の着手した幕政改革をまとめて享保の改革と言います。

ここからは享保の改革について5つの項目に分けて見ていきたいと思います。

人材登用

それまでの幕府は柳沢吉保・間部詮房・新井白石ら側用人による、側近政治が行われていました。

これにより、譜代大名らは不満を強めていました。

吉宗はこの側近政治を廃止し、譜代大名からなる老中・若年寄を重視し、新たに御用取次という側近を設けました。

さらに、旗本や名主など役職に関係なく、有能な人材を多く取り入れています。

その例を下に上げました。

  • 大岡忠相・・・旗本。有名な大岡越前はこの人のことです。吉宗に抜擢されて江戸町奉行に就任しました。小石川養生所や町火消制度の設置、「公事方御定書」の編纂に携わりました。
  • 田中丘隅・・・東海道川崎宿の名主。
  • 荻生徂徠・・・儒者。吉宗の政治の相談役。
  • 室鳩巣・・・朱子学者。吉宗の学問の先生(侍講)。
  • 青木昆陽・・・甘藷(さつまいも)の栽培を研究。

また吉宗は人材を登用しやすいように足高の制を定め、家柄が低くても能力や素質がある者が要職に就けるようにしました。

財政政策

紀伊藩主のときも藩の財政再建に尽力した吉宗でしたが、幕政でも大胆な財政政策を行っています。

吉宗が将軍に就任した頃、幕府の財政はひっ迫していました。

そこで吉宗は以下のような財政政策を行いました。

  • 倹約令・・・支出を抑えるため、贅沢を禁じる。
  • 上げ米・・・諸藩の参勤交代を減らす代わりに、石高1万石につき、100石を臨時に上納させるもの。
  • 定免法・・・年貢率を一定にし、年貢量を安定させる。
  • 新田開発・・・商人資本を借り、米の増産を奨励。
  • 商品作物栽培の奨励・・・甘藷(さつまいも)、さとうきび、櫨、朝鮮人参など、新しい産業を奨励。

このように幕政の引き締めを行うことにより、吉宗は幕府の財政再建の見通しを立てました。

都市政策

吉宗が打ち出した改革の第二の柱として、江戸の都市政策があげられます。

先にも触れた町奉行大岡忠相が中心となって進められました。

■江戸の大火対策
明暦の大火以後も繰り返し大火に見舞われた江戸に、広小路・日除け地などを設置し、また消火制度を強化するために、町火消を組織させました。

■目安箱の設置
評定所に目安箱を設置し、広く庶民や浪人たちの意見を求めました。
その意見の中から、貧民の救済施設として小石川養生所が設けられました。
学校などに設置されている目安箱は吉宗が始めたものだったのです。

法制整備

吉宗は司法制度の整備にも着手しました。

大岡忠相公事方御定書を編纂させ、これまでの裁判の判例を集めて裁判や刑罰の基準にしました。

また金銭に関する争いは当事者間で解決することを定めた相対済まし令を制定しました。

倹約令により、裁判でかかる支出を抑えるためです。

実学奨励

吉宗はそれまで規制が厳しかった漢訳洋書の輸入制限を緩和し(ただしキリスト教は除きます)、甘藷・さとうきび・櫨・朝鮮人参の栽培のような新しい産業の開発を進めました。

先にも出てきた青木昆陽に飢饉対策のための甘藷(さつまいも)の栽培を研究させ、青木・野呂元丈にオランダ語を習わせ、蘭学興隆の基礎を築きました。

徳川吉宗のエピソード・逸話

ここまでは徳川吉宗の実務的な面をみてきました。

この項では徳川吉宗はどんな人物だったのか、現在残されている逸話から、吉宗の人格面についてみていきたい思います。

吉宗は幕府の財政再建のために、様々な改革を行い、結果財政の安定化に成功しましたが、庶民にとっては楽なものではなく、一揆や打ちこわしも多く発生しています。

では、吉宗は時代劇などでよく見る、庶民にばかりつらい政策を押し付け、自分は贅沢をするようなお殿様だったのでしょうか。

決してそのようなことはありませんでした。

将軍なのに質素な暮らしをしていた

幕府の財政を立て直すために、吉宗が倹約令を出したことは先出の通りです。

しかし、贅沢に慣れてしまった役人たちに質素な生活をさせることは簡単なことではありませんでした。

そこで吉宗は将軍自ら質素倹約に努めることにより、部下たちに模範を示そうとしました。

吉宗は将軍の地位にありながら、着物は絹ではなく安価な木綿を着用し、食事は一日二回の一汁三菜という質素なものにしていたそうです。

大奥で綺麗な女性をクビにした

また当時の幕府の財政を圧迫していた原因の一つに大奥の維持費がありました。

大奥の維持費は幕府の財政の25%を占めていました。

吉宗は大奥にも倹約を進めるべく、ある方法を取ります。

吉宗は大奥の中で容姿端麗かつ、25歳以下のものを50人選び出すように申し付けます。

女中たちは、これは側室選びに違いないと色めき立ちます。

ところが吉宗は選ばれた50人に暇を出したのです。

吉宗は「容姿端麗であれば良縁も多いはず。」と述べています。

つまり、年齢の高い者や容姿端麗ではないものは大奥を離れると苦労するかもしれないが、若くて綺麗な女性なら、大奥を離れてもさほど苦労はしないだろうということです。

まさむね
まさむね
これらのエピソードから、吉宗は政策を一方的に押し付けたり、私利私欲で政治を行う人物ではなかったということが窺い知れます。

3行でわかる徳川吉宗のまとめ

まとめ
  • 江戸幕府の8代目将軍。
  • 享保の改革を実施し、幕府の政治を大きく変えた。
  • 部下の模範となるよう質素倹約な生活をしたり、無駄な財政を抑えたりしていた。

徳川吉宗は幕府の財政を立て直すために、享保の改革と呼ばれる様々な政策を打ち出し、有能な人材を多く登用して財政の安定化を成功させました。

暴れん坊将軍のように町に自ら繰り出して、悪党を退治したというのは史実ではないでしょうが、目安箱を設置して庶民の意見を広く聞いたり、自らも倹約に勤しむなど、庶民との距離は比較的近い将軍だったと言えるでしょう。

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