江戸時代

大岡忠相はなにした人?徳川吉宗を支えた町奉行のエピソード

大岡忠相

大岡忠相(おおおか ただすけ)と聞いて「?」が浮かぶ人も、大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)と言えばピンとくるのではないでしょうか?

大岡忠相は、江戸時代の名裁判官として知られています。

しかし、史実の彼の功績は、フィクションよりはるかに重要で偉大なものでした。

大岡忠相のプロフィール

大岡忠相は1677年生まれ。

大阪夏の陣が1615年ですから、徳川の世も安定し、人々の頭から戦乱の記憶が薄れていたころです。

父親は幕府旗本の大岡忠高。

旗本というのは、将軍にお目通りは許されているけれど、1万石以下の禄高の武士のことです。

1万石以上で領地を与えられた武士は大名といいます。

忠相3歳のときに、第4代将軍徳川家綱が死去し、徳川綱吉が将軍位につきました。

4男だった忠相は、9歳のときに親戚の大岡忠真の養子となります。

大岡忠真は唯一の跡継ぎだった長男を亡くしていました。

23歳のときに、養父・忠真が亡くなったため、当主となります。

25歳のとき、将軍綱吉直属の親衛隊である書院番になります。

1703年、忠相26歳のとき、死傷者およそ6700人を出した元禄関東地震が発生。

忠相は復興活動に従事します。

31歳で、旗本の監視役である目付に就任。

その翌年の1709年に、徳川綱吉が死去し、徳川家宣が将軍位につきました。

35歳で山田奉行として伊勢に赴任します。

山田奉行は、伊勢神宮を統治し、祭礼や遷宮などを統括するという重要な役職です。

1712年、徳川家宣がわずか3年の治世で病没。

その子でまだ4歳の家継が7代将軍となりました。

山田奉行を39歳まで4年間勤めた忠相は江戸に呼び戻され、今度は普請奉行とされます。

「普請奉行」とは、簡単に言えば土木建築関係を統括する役人です。

その年、1716年、幼い将軍が7歳という若さで病没。

紀州藩藩主の徳川吉宗が8代将軍となりました。

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そして、忠相40歳のとき、南町奉行に就任し、同時に越前守を名乗るようになりました。

徳川吉宗は将軍就任と同時に享保の改革に着手。

忠相は、町奉行として改革の推進を行います。

その期間はおよそ20年に及びます。

60歳で寺社奉行となり、71歳で、禄高が1万石になるとともに、三河の西大平を領地として与えられ、大名となりました。

しかしそのころから体調を崩しがちになり、75歳で寺社奉行を辞任。

その年に亡くなりました。

大岡忠相は何した人?

南町奉行大岡越前守、北町奉行遠山金太郎、ドラマの町奉行はいわば裁判官の役割で、法に則るというよりは、悪人には厳しく、事情がある者には人情をもって裁くという、いわば人民裁判的な民衆の快感原則に寄り添った人物像です。

しかし、実際の忠相の活躍はそこに留まりません。

町奉行として享保の改革を牽引

江戸町奉行は司法だけではなく、江戸の町の行政も執り行います。

いわば、裁判官と都知事を兼任するような重職で、旗本としては最高位の役職となります。

忠相の町奉行としての功績は、どちらかといえば行政官としてのものです。

まず忠相は、町火消を再編成して「いろは四七組」を組織

区分けを細かく、フレキシブルな消化作業ができるようにしました。

それと同時に、屋根瓦の推奨など家屋の防火対策もすすめています。

現在東京ドームの近くに小石川植物園として残る場所は薬草園で、そこには小石川養生所が設置されていました。

小石川養生所は無料の病院です。

これを設置したのも忠相でした。

小石川薬園では、青木昆陽により救荒作物としてサツマイモ栽培が行われていました。

この青木昆陽を抜擢したのも忠相で、サツマイモ栽培に関する費用を助成しています。

売春行為は吉原だけに限定し、それ以外の場所での売春は禁じ、あるいは賭博の摘発を行うなど、江戸の治安維持も積極的に行いました。

武蔵野新田開発

忠相が南町奉行になってから5年後の1722年。

幕府は忠相及び北町奉行の中山時春を、江戸のみならず関東周辺の農政を司る関東地方御用掛に任命しました。

この役職の使命は、新田開発と灌漑設備の造成です。

なぜ町奉行にこの役割が任されたのかというと、新田を開発することで幕府の税収(年貢)を増やすためです。

そこで忠相は、治水、灌漑などの技術者を集め、武蔵野台地、現在で言えば東京西部から埼玉西南部あたりでの新田開発に着手しました。

町奉行として多忙な忠相は、2人の代官に現場を任せ、自分は新田開発の総司令官の役割を果たして、それまで土地が痩せて農業には向かなかった土地を開発していきました。

忠相がこの新田開発にかかわったのは20年以上です。

60も半ばを過ぎたころに辞任し、事業は関東代官の伊奈氏に引き継がれ、最終的には82もの農村ができました。

埼玉県の入間市、川越市、朝霞市、東京都の立川市、青梅市などそのとき開発された地域では現在でも農業が盛んです。

大岡忠相のエピソード・逸話

大岡裁きで知られる大岡越前守。

実は彼は、現代にも続く重要な決まりごとを定めました。

本の奥付を義務化

なんでもいいので書籍を手にとって、その後ろのほうを見てください。

本によって内容は変わりますが、書名、著者、発行者、発行所、印刷所、出版年月日などが記載された部分があります。

この部分を「奥付」と言います。

忠相の時代、元禄の世を経て町人文化が発展し、庶民も絵物語や草紙などの本に親しむようになりました。

しかし、その反面海賊版も横行するようになりました。

忠相は、海賊版対策として『新作書籍出板之儀に付触書』を発布。

出版物には作者と版元を記した「奥書」をつけることを義務付けました。

これは明治以降にも引き継がれ、出版法で奥付をつけることが義務とされました。

現在では、一般書籍は義務ではないものの慣習として奥付がつけられ、また教科書については今でも奥付が義務となっています。

まさむね
まさむね
日本の書籍に極端に海賊版が少ないのも、忠相がこれを定めたからであり、文化的な功労者としてもっと注目されてもいいのではないかと思います。

大岡政談はだいたいパクリ

昭和の時代劇ドラマ『大岡越前』は、加藤剛さん主演で、2クール放送2クール休止で放送されていた『水戸黄門』の休止期間に放送されて人気を博しました。

大岡忠相が、時には悪人を厳しく島流しにし、時には人情をもって優しく情状酌量をするという裁判ドラマです。

このドラマの初期に使われた「三方一両損」などのエピソードは、忠相の死後に創作された講談『大岡政談』が元になっています。

しかしこの『大岡政談』、ほとんどは忠相本人の実話はではなく、『棠陰比事』という中国の裁判録からのパクリや、他の奉行による裁判を忠相にすげ替えただけというもの。

中国のほうがパクリだと言い出しかねない人のために一応付け加えると、『棠陰比事』が成立したのは南宋代・日本だと鎌倉時代ごろです。

まさむね
まさむね
海賊版撲滅に努めた忠相が、後の世に他からのパクリでエピソードを作られてしまったのは、本人にとっても不本意ではないかと思われます。

4行でわかる大岡忠相のまとめ

江戸時代の名奉行・大岡忠相のまとめです。

まとめ
  • 旗本として幕府の出世街道を歩む
  • 徳川吉宗のもとで享保の改革を推進
  • 武蔵野新田を開発し、首都圏の農業生産力を高める
  • 奥付を義務化し、海賊版書籍を撲滅

現実の大岡忠相は、吉宗のもとで八面六臂の活躍をして、江戸や周辺地域の発展をもたらしました。

その功績は、ドラマでの作られた姿よりもはるかに偉大です。

江戸時代の偉人として、もっと本来の姿が知られるべきではないかと思います。

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