江戸時代

徳川家綱は何した人?政策や性格を簡単にまとめてみました

徳川家綱

徳川家綱は徳川幕府の4代将軍です。

3代の家光、5代の綱吉という強烈なキャラクターの間に挟まれて、一般的な知名度は低いのではないでしょうか。

ですので、この記事では徳川家綱がどんな人だったのか、何をした人なのか、できるだけわかりやすく紹介していきたいと思います。

徳川家綱のプロフィール

  • 生誕 1641年8月3日
  • 死没 1680年5月8日
  • 在職 1651年8月18日~1680年5月8日
  • 享年 40歳

家綱は3代将軍徳川家光の長男として1641年に生まれました。

家光は幕藩体制の一応の完成者でありましたが、しかし、家光までの政策にたいする不満もマグマのように溜まっていたのです。

慶安の変

それが表面化したのが慶安の変でした。

家光が1651年に逝去し、家綱がわずか11歳で将軍職を継いだその年に起きたクーデター未遂事件です。

大名の改易に次ぐ改易で大量に発生した牢人たちが企てた幕府転覆計画でした。

家綱の治世は、この事件とともに始まりました。

もちろん11歳の子どもに何の決定権も方針もありはしませんが、家綱を補佐する大老や老中たちは、さっそく幕政の軌道修正を迫られた格好でした。

末期養子の禁止の緩和などは、その政策の一環です。

これは、当主が50歳未満で病気により死の床にある場合、末期養子を入れて家の存続を許すという政策です。

大老・酒井忠勝や老中・保科正之らの補佐の甲斐もあって、幕政は安定しました。

明暦の大火

1657年には江戸時代最大の火事である明暦の大火もありました。

10万人もの人々が亡くなったといわれる大災害に対処するため、幕閣たちの苦労は相当なものだったでしょう。

家綱が成人して政務をとるようになると、彼は武家諸法度を改め、殉死を厳しく禁止しました。

まさむね
まさむね
末期養子の禁止緩和と殉死の禁止は、家綱時代の傾向を象徴する政策だと思います。

それは、教科書的には、武断政治から文治政治への転換といえましょう。

同時に、家綱の優しい人柄がよくあらわれている政策ともいえます。

病弱のため家臣に政務を任せる

1666年に酒井忠清が老中に就任すると、忠清は独裁的な権力をふるうようになります。

家綱は優しい性格と生来の病弱とで、あまり政策の表舞台には登場しなくなるのです。

家綱は子どもにも恵まれませんでした。

家綱が養子として迎えたのが、館林藩藩主徳川綱吉でした。

1680年、家綱は40歳の若さで死去します。

死因は不明ですが、心臓発作ではないかといわれています。

徳川家綱は何した人?

殉死の禁止

1663年、家綱が22歳のときに武家諸法度を改定し、殉死の禁止を命じました。

殉死とは、主君が亡くなった際に、後を追って家臣たちが切腹するという習慣です。

当時は普通に行われていました。

まさむね
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また、主君が亡くなったときは、家臣は殉死するものだという一般通念が強かったのでしょう。

それが忠義と考えられていたのです。

たとえば、1651年に家光が亡くなったときには、堀田正盛や阿部重次らの側近が殉死しています。

1636年に伊達政宗が死去したときは、殉死者15人、それに殉死するもの5人というありさまでした。

まさむね
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ちなみに政宗などは殉死をどう考えていたのかというと、「自分が死んだあとのことだから、殉死を止めることもできないし、ただ涙がでるだけだ」と書状で書いており、殉死の習慣は、当主の弱さが原因ともいえます。

この悪習を禁止したのが家綱です。

殉死するものがいれば、それは主君の落ち度であるとし、その跡を継ぐ息子も殉死を止めなかったということで、連帯責任としたのです。

この殉死の禁止によって、それまでの主従関係というものも大きな影響を被りました。

主君と家臣という個人対個人の関係だった主従関係が、殉死禁止以降、「家」という組織に属する個人という意識に変わっていったのです。

まさむね
まさむね
いわば、武士のサラリーマン化です。

この意識の変化によって、下のものが上をしのぐ下剋上の風習は息の根をとめられました。

名実ともに、戦国は完全に過去のものとなったのです。

幕藩体制の安定化

政治が安定しなければ、庶民の暮らしも安定しないものです。

制度の確定と、その確定した制度のもとで経済活動が活発化し、その恩恵が庶民にまで及ぶには時間がかかるものです。

家綱の治世は、保科正之などの優れた補佐役の存在もあって、比較的安定した時代だったといえるでしょう。

1664年には、領地宛行状を日本すべての大名に発給しています。

これは領地を保証するという証文ですが、家光までは個々の大名と主従関係を明確にして、それぞれに発給していたものです。

これを一度に発給したということは、この領地安堵の証文ももはや形式的になってきたということでしょう。

幕府体制が確立してきた何よりの証拠です。

また、経済活動の分野においても目覚ましい発展がありました。

河村瑞賢などの活躍で東廻り航路と西廻り航路が開拓され、それによって、船による大量輸送が可能になり、物流の革命がおきたのも家綱の時代です。

まさむね
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綱吉時代に花咲く元禄文化は、家綱の時代にひそかに準備されていたといっても過言ではないでしょう。

徳川家綱のエピソード・逸話

家綱のエピソードをいくつか紹介していきましょう。

優しい心をもつ将軍

家綱は性格が優しい人でした。

あるいは、一般的にそう見られていました。

「武野燭談」という著作のなかに、家綱が11歳のときのエピソードがあります。

遠島に島流しにあった罪人の話を聞きつけた家綱は、「遠き島へ遣さるることならば、其島に食物なくば定めて飢死すべし」とことのほか気の毒に感じたようで、この時代には遠島のものには農具・種物などが給付されたということです。

父親である家光がこの家綱の発言を聞いて「今迄誰も心付かざること」と非常に喜んだ、とあります。

大老・酒井忠清の専制

優しい性格と病弱さで、家綱が政務に邁進することは難しかったろうと思います。

やはり、優れた補佐役が必要でした。

初期には保科正之がいました。

そして後期を代表するのがこの酒井雅樂頭忠清です。

酒井忠清は人物登用にすぐれていたと伝えられています。

また、「大海」と評されるように、清濁併せ呑む度量があったのだろうと推察されます。

ただ、1666年に老中に就任してから長く統治を担当した忠清は、自らの政治手腕にも相当自信があったのでしょう、京都より親王を迎えて将軍に立てる計画など、増長が見られます。

まさむね
まさむね
たとえ将軍職を徳川家より皇族にかえても、統治はいささかも揺るがない、そういう自信を抱かせるほど幕府の官僚機構などが整理され、社会が安定してきた証拠のひとつともいえるかもしれません。

3行でわかる徳川家綱のまとめ

まとめ
  • 殉死という悪習を厳禁した
  • 幕藩体制をさらに盤石なものとした
  • 病弱のため、家臣に政務をまかせることが多かった

この記事を読んで、徳川家綱の時代が少しでもイメージできるようになりましたでしょうか。

3代家光と5代綱吉というアクの強いキャラクターにはさまれて影の薄い家綱ですが、家光を継承し、そして綱吉の元禄を用意したという点で家綱の存在は興味深いものです。

関心を抱いた方は、ぜひ深く調べてみることをおススメします。

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