新井白石は江戸時代に政治家や学者として活躍した人物です。
名前は聞いたことがあるけど、何をした人かいまいちピンとこない方が多いのではないでしょうか?
この記事では、新井白石は何をした人物なのか、その生涯について簡単にご紹介します。
目次
新井白石のプロフィール
- 名前:新井白石(あらい はくせき)
- 出身地:江戸(現・東京)
- 生誕:1657年3月24日
- 死没:1725年6月29日
- 享年:68歳
- 時代:江戸時代中期
新井白石は何をした人?
新井白石は江戸時代中期の1657年3月24日に生まれました。
誕生の前日に明暦の大火という江戸の大半を焼いた大火災が起き、焼け出された避難所で生まれました。
父は新井正済といい、新井家は現在の群馬県あたりの下級武士でしたが、正済31歳のときに江戸に出奔し、縁があって上総久留里城主の土屋利直に仕えることになりました。
真面目に仕え、目付職にまで出世しました。
その後土屋利直は死去し、息子の直樹が跡を継いだのですが、この土屋直樹という人物はちょっと狂気がある変わった人物でした。
そのため、正済は仕え続けることができず、出勤拒否してしまいます。
このことで、土屋家からはクビを宣告。
新井家は親子揃って藩を追放されてしまいました。
木下順庵に入門
一方の新井白石は幼い頃からとても賢かったようです。
3歳で父の読む学問の書物をそっくり書き写していたというエピソードも残っています。
また気が強く、怒ると眉間に「火」に似た皺ができることから、「火の子」とも呼ばれていました。
藩を追い出された後も白石は独学で儒学を勉強していました。
そんな優秀な白石の名は、密かに知れ渡り、複数の豪商から婿養子にならないか、という話を持ち掛けられます。
しかし、白石は学問の世界で生きていきたいという想いがあったようで、この誘いをすべて断ってしまいました。
1686年、29歳のときに白石は朱子学者の木下順庵に入門することになりました。
通常、入門には入学金が要りますが、白石はそれを免除されるほど優秀だったそうで、数年で弟子の代表になるまでになりました。
正徳の治
その後順庵の勧めもあり、37歳のときに甲府藩主に仕えることになりました。
このときの甲府藩主は徳川綱豊で、江戸幕府では生類憐みの令で有名な徳川綱吉が将軍でした。
この綱吉が死去してしまうと、後継ぎがいませんでした。
そこで新たに徳川綱豊が選ばれ、第6代将軍徳川家宣として即位することになりました。
徳川家宣は白石を重用し、幕府は「正徳の治」と呼ばれる政治改革を行いました。
正徳の治については後述する項目で詳しく解説しています。
幕府から失脚
改革を進めていた徳川家宣ですが、将軍に即位してからわずか3年でこの世を去ってしまいました。家宣の息子である徳川家継が第7代将軍として跡を継ぎますが、幼く病弱であったため家継も数年で死去してしまい、第8代将軍に徳川吉宗が着任します。
そうすると白石は用済みと見なされてしまい、幕府から失脚し引退することになってしまいました。
失脚後は自身の屋敷も没収され、幕府から与えられた土地に隠居しました。
引退後は書物の執筆に力を注いだそうで、学者としての情熱は最後まで持ち続けていました。
そして68歳のときに永眠しました。
正徳の治とは?
徳川家宣の代に新井白石らが中心となって行った政治改革「正徳の治(しょうとくのち)」。
どのような政策が行われたのか、ここで簡単に解説しておきますね。
生類憐みの令の廃止
まず、徳川綱吉が将軍のときに始めた「生類憐みの令」をすぐに撤廃しました。
この生類憐みの令は、綱吉が死に際にも継続するよう懇願したといわれていますが、人々を苦しめるとんでもない法令でした。
犬や猫などの動物だけでなく、小さな虫にいたるまで一切の生き物の殺生を禁止したため、農作物の害虫を駆除することもできませんでした。
また、家宣が将軍になったとき、生類憐みの令などで理不尽な処罰を受けていた人が、なんと8千人以上もいました。
この人々の処罰もすぐに免除してあげました。
貨幣改鋳
経済では、貨幣改鋳を行いました。
綱吉の時代に、荻原重秀という人が、お金を作るときに使う金や銀の量を減らすという政策をしました。
当時はお金に金や銀がたくさん混ざっており、これではお金が足りなくなると判断し、混ぜる量を減らして世にたくさん出回らせていました。
しかし、お金の価値が下がって物価が上昇するインフレになっていました。
そのため、白石はお金に含まれる金や銀の量を増やすことにしました。
正徳新令
正徳新令という法令を出し、貿易も見直しました。
当時、長崎では日本で唯一外国(中国・オランダ)と貿易をしていました。
しかし、ここから金や銀が海外に流失してしまっていました。
これに歯止めをかけるために、貿易額を制限したのです。
これらにより、インフレ状態から脱却することができましたが、逆にデフレになってしまい、新たな問題も作ってしまったようです。
新井白石のエピソード・逸話
新井白石の著書として有名なものに、「西洋紀聞」「采覧異言」という書物があります。
白石がまだ幕府で政治を取り仕切っていた頃、ローマ教皇の命令を受けて、イタリア人宣教師のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチという人物が日本にカトリックの布教にやってきました。
日本におけるカトリック迫害をなんとかしたいと不法入国してきましたが、たどり着いた瞬間に即御用となってしまいました。
白石がシドッチの尋問を担当することになり、2人は言葉は通じませんでしたが、身振り手振りで意思疎通をしたようです。
シドッチから聞くキリスト教の観念については、白石も否定的だったようですが、西洋の文化や学問、地理については大きな感銘を受け、後に書き残すことにしました。
当時はまだ日本は鎖国をしていたので、公表されることがありませんでしたが、白石が亡くなってから80年ほど後の1800年頃から世の中で注目されるようになったそうです。
3行でわかる新井白石のまとめ
- 下級武士の家に生まれたが、学問を極めて幕府に仕えるまでになった
- 徳川家宣が将軍の時代に、「正徳の治」という改革を行った
- 晩年は書物の執筆にも勤しんだ
後の評価では、学者としては頭脳明晰だが、政治家としてはいまいちといわれています。
しかし、身分の低い地位から幕府に仕えるまでに出世したのですから、相当な努力をした人物だったようですね。
江戸時代中期と新井白石について、興味を持っていただけると嬉しいです。