江戸時代を通じて評判が悪い人物が何人かいます。
例えば汚職の象徴であるかのように言われる田沼意次。
「犬公方」徳川綱吉など。
主君の仇討ちを見事果たした赤穂浪士を切腹させた柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)もその一人。
でも、彼は本当にそんなに悪い人物なのでしょうか?
目次
柳沢吉保のプロフィール
柳沢吉保は1658年生まれ。
4代将軍徳川家綱の時代でした。
その年に真田信繁(後世の通称は幸村)の兄の真田信之が93歳で大往生しています。
戦国時代が薄れ、社会が安定して元禄の繁栄へと向かう時代でした。
父親の柳沢安忠は、徳川家光の弟・徳川忠長の元家臣。
忠長が家光によって切腹させられたために浪人となった後、江戸城で働くようになります。
そのとき幼少時の徳川綱吉のお世話係になった縁で、綱吉が館林藩の藩主となったときに藩士となりました。
吉保が17歳のとき、安忠が引退したため家督を継ぎ、綱吉の小姓となりました。
徳川綱吉に仕える
1680年、吉保が22歳のとき、綱吉が第5代将軍となりました。
吉保はそのまま江戸城へと移って綱吉に仕えます。
役職は小納戸。
将軍の日常のお世話をする係で、食事の毒味なども行います。
30歳になると綱吉の側用人となりました。
側用人は、将軍の命令を老中など家臣に伝えるという非常に重要な役目です。
また同時に1万2000石の禄高と、お取り潰しとなっていた佐貫藩を与えられて大名となります。
さらに2年後には2万石加増、従四位下出羽守となり、その2年後には3万石、その2年後、吉保36歳のときには7万2000石にまで加増され、川越藩主となりました。
最終的には15万石の大名に
43歳のとき、綱吉から松平姓を許され、同時に「吉」の名を与えられます。
実は「吉保」と名乗るのは実際にはここからで、それまでは保明と名乗っていました。
その年に赤穂浪士の討ち入り事件が発生。
吉保は赤穂浪士の切腹を進言します。
46歳のとき、綱吉の次の将軍として綱吉の甥にあたる徳川家宣(当時は綱豊)が選ばれた結果、家宣の居城の甲府城に空きができました。
吉保はその甲府城を与えられて15万1200石になり、甲斐に領地を得ました。
1709年、吉保が51歳のときに、徳川綱吉が死去。
予定通り家宣が将軍を継ぎました。
吉保はその時点で家督を長子の吉里に譲って隠居。
名も保山と変え、邸宅内の庭園の整備などにいそしんでいたようです。
57歳のときに江戸の屋敷で病没。
遺骸は甲斐へうつされて葬られました。
柳沢吉保は何した人?
徳川綱吉の懐刀として幕政に深く関与した吉保。
時代劇では悪役とされることが多い彼ですが、実際のところは非常にまじめな人物で、癇癪持ちと言われる綱吉と老中たちの間に入り、調整役ともなっていました。
武田家の再興に尽力
柳沢家は、もともとは甲斐武田家の家臣で、武田家の傍流でもあります。
この当時、武田本家は滅びたものの、武田信玄の次男の系統がまだ残っており、東北陸奥の磐城平藩の家臣となっていました。
吉保はその末裔である武田信興を綱吉に引き合わせ、また武田家を高家旗本として再興するために働きかけています。
高家旗本とは、家柄に格式があり、幕府の儀礼などを司る立場で、吉保の時代に暗殺された吉良上野介も高家旗本でした。
また、甲斐を拝領した後には、甲斐において武田信玄の百三十三回忌法要を行っています。
実は吉保は少年時代に父とともに武田信玄の百回忌に列席したこともあります。
武田家は吉保が再興したおかげで保たれ、またその縁で、その後何度か吉保の子孫から養子を迎えています。
三富新田開発に尽力
吉保は36歳のときに、川越藩の藩主となりました。
そこで行ったのが三富(さんとめ)新田の開発です。
吉保は儒者の荻生徂徠を抜擢。
政策ブレーンにします。
その献策により、当時は川越藩の領地であった現在の入間郡、所沢市の一部の台地を開拓し、農地としました。
もともとこの地区は水源に乏しく、土地が痩せて農業に向かなかったといいます。
そこで吉保は、入植した一軒一軒の農家に竹、カシ、ケヤキなどを植えさせました。
これは、植物に根を張らせることで保水力を上げるとともに、農具や建材などを確保するためだったといいます。
それと同時にクヌギやコナラなどの雑木林も育成。
その落ち葉は肥料となり、枝は薪や炭として利用されました。
いわば、現在再評価される「里山の知恵」を構築したといえます。
柳沢吉保のエピソード・逸話
柳沢吉保の「悪名」が高まったのは、やはり赤穂浪士に切腹を命じたのが原因だと思われます。
しかし、綱吉政権は武力ではなく法律により世を治める法治主義を推進する立場。
幕府に無断で徒党を組み、家屋に押し入って殺人を犯した赤穂浪士は法的にはただの犯罪者です。
現代の法治の観点から見ても吉保の判断は誤っているとは言えず、武士として切腹をさせたところに吉保の温情も見て取れます。
甲斐の領民には慕われた
吉保は最終的には先祖が出た甲斐を拝領します。
吉保自身は幕府重鎮であったためあまり甲斐には行かなかったようです。
しかし、国家老の薮田重守を通じて様々な政策を実施しています。
例えば、居城として与えられた甲府城の整備。
甲府城は、武田信玄が住んだ躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた城です。
同時に城下町も整備されて発展しました。
その様子は「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り(家や門が重なり並んで建つ様子の甲府は花盛りのようだ)」と評されるほどでした。
また、農地や灌漑用水路の整備も行っています。
当時の年貢は検地を行い、所有地の広さに賦課されるものでした。
吉保も検地を行っていますが、それまでの検地の結果より広い土地が発見されたとき、その分への課税を免じています。
これは生産高に対する年貢の割合が減るということなので、実質減税であり、農民からも感謝されています。
六義園を造成した風流人
現在、山手線駒込駅近くにある都立庭園「六義園」は、柳沢吉保の屋敷でした。
この場所はもともとは加賀前田家の江戸屋敷があったところで、吉保には37歳のときに与えられています。
吉保は和歌にも造詣が深く、この屋敷の庭を、和歌の6つのスタイル「六義」にのっとった姿に造営していきます。
戦国時代の「数寄者」に通じるところがある人物でもあったようです。
この庭園の造営には7年も費やされ、完成後には綱吉が58回も訪問しています。
江戸城から六義園までルート検索をすると、徒歩でも1時間程度。
駕籠で移動するにしても将軍が気軽にちょっとそこまでというわけにもいきません。
それを58回ですからどれだけ吉保の庭が気に入っていたのかがわかります。
5行でわかる柳沢吉保のまとめ
時代劇の悪役にされがちな幕臣・柳沢吉保のまとめです。
- 甲斐武田氏に連なる柳沢氏
- 小姓としてつかえていた徳川綱吉が将軍になったことで幕臣に
- 一介の小姓から、最終的には15万石の大大名に
- 三富新田開発、甲斐の城下発展などに尽力
- 六義園を造営
赤穂浪士への果断な処分により悪いイメージがついてしまっている柳沢吉保。
しかし、こうして見るとかなり優秀な官僚であり為政者であったことがわかります。