江戸時代

荻生徂徠はどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

荻生徂徠

荻生徂徠(おぎゅうそらい)の名前を知っている人は少ないでしょう。

一体何をした人なのか、どんな人物だったのか、イメージもわかないと思います。

今回は荻生徂徠について、みなさんに説明していきたいと思います。

荻生徂徠のプロフィール

  • 生誕 1666年3月21日
  • 死没 1728年2月28日
  • 享年 63歳
  • 名前 双松(なべまつ)
  • 通称 惣右衛門(そうえもん)
  • 号 蘐園(けんえん)

荻生徂徠は何をした人?

荻生徂徠は、ひとことでいえば学者です。

でも、ただの学者じゃありません。
日本が生んだ初めてのワールドワイドな学者といっていいでしょう。

どういった点が世界級だったんでしょう。

まずは教科書にも載っている徂徠の代名詞ともいうべき「古文辞学」から紹介していきます。

古文辞学を広める

まず古文辞学を理解するための背景として、江戸時代の思想状況についてちょっと見てみましょう。

当時は幕府公認の思想、考え方というものがありました。

思想というのは、ときに危険なものです。

「民衆を苦しめる幕府を倒せ」なんて考え方が流行りでもしたら一大事です。

幕府としても統制する必要があります。

そのための幕府公認の思想というのが、「朱子学」です。

12世紀南宋の朱熹という人が完成した学問です。

まさむね
まさむね
内容はというと、せせこましい道徳のマニュアルとでもいうべきもので、学校にもよくいる細かいことに口うるさい先生といった印象です。

この朱子学を完膚なきまでに叩きつぶしたのが、荻生徂徠の古文辞学といっていいでしょう。

朱子学は、まず原則を立ててそれを現実に押し付けていく窮屈さがありましたが、徂徠はまず現実を見据えることから出発します。

まさむね
まさむね
例えるなら、

  • 靴を作って、それをフィットしない足に無理やり履かせようというのが朱子学
  • 靴というフォーマットはすばらしいから、どうせなら足に合った靴を作ろうというのが徂徠の立場

といった感じでしょうか。

徂徠の古文辞学は一世を風靡しました。

朱子学はこの後も命脈は保ちますが、もはや以前のような影響力をもつことはありませんでした。

赤穂浪士討ち入り事件についての評価

徂徠の存命中に赤穂浪士の討ち入り事件が起こりました。

【赤穂浪士討ち入り事件とは?】

赤穂藩の47人が、主君浅野内匠頭の仇である吉良上野介を深夜襲撃し、殺害した事件です。

世論は沸騰しました。

赤穂浪士は忠義の士として、大絶賛されました。

知識人層も赤穂浪士を高く評価し、その罪を免じようというムードでした。

その中で、徂徠の評価はやはり興味深いものでした。

まず、徂徠は赤穂浪士を「忠義の士」として評価します。

それは武士道にかなっている。
しかし、所詮「わたくしごと」であると言っています。

浪士たちのしたことは明白な犯罪で、「公」の秩序を乱した犯罪者なのです。

もし「私」を「公」より優先したなら政治は成り立たない、そう言うのです。

そして、「義士」である浪士たちを罪人として処刑するのではなく、武士として名誉ある切腹に処すべきである、これが徂徠の意見でした。

赤穂浪士の名誉ある切腹という形でこの事件は幕を閉じました。

まさむね
まさむね
徂徠の意見が採用されたのかどうかはわかりませんが、徂徠の合理的な思考がよくわかる事例だといえるでしょう。

儒学の政策への反映

徂徠の学問は儒学です。

儒学は倫理学であり、政治学でもあります。

学問が成熟すれば、やはり現実の政治に役立てたくなるものでしょう。

彼の政治論「政談」は、まさに集大成というべき作品です。

内容はいろんな分野に及んでいますので、簡単に要約するのは難しいですが、ひとつ大きな特徴としては、徂徠の現実直視の姿勢です。

原理原則をひたすら振り回すのではなく、まず現実を見つめ問題点を明らかにし、その上で対策を講じていく。

この合理的な姿勢はここでも健在です。

まさむね
まさむね
徂徠が説いた対策が効果的であったかどうかは疑問ですが、彼が書き残した当時のもろもろの事実は、現在の私たちにとって江戸時代を理解する上で大変貴重な史料なのです。

荻生徂徠のエピソード・逸話

清帝国の学者にも認められた語学力

当時の学問というのは結局、漢文を読みこなすということにつきます。

なぜなら、当時日本にとっての先進国は中国(当時は清帝国)でしたし、中国の文章とは漢文(古代中国語)だったからです。

今でも学校で漢文を学びますが、その漢文にはヲコト点があります。

まさむね
まさむね
文字の横にあるレ点や一二などの漢数字ですね。

徂徠はこれらのヲコト点を使わず、中国音で漢文を読むことを実践しました。

それが古代中国人のこころにせまる唯一の方法だと信じたからです。

その努力の甲斐もあって、徂徠の書く漢文は中国人が読んでも感心するレベルに達していました。

劉宝楠という有名な学者が書いた「論語正義」という論語の決定版のような名著があります。

この中に徂徠の説がいくつか引用されているのです。

まさむね
まさむね
本場の清帝国の学者も一目置くほど徂徠の学問が進んでいたということですね。

こういったことは徂徠以前には考えられなかったことです。

実は悪趣味?

あるとき、「好きなことは何ですか」と尋ねられた徂徠はこう答えたそうです。

「炒り豆を食べながら、昔や現在の人物たちを罵るのが一番の楽しみだ」

まさむね
まさむね
学問に全力を傾けた徂徠ですが、友達にはなりたくないようなキャラクターだったようです。

5行でわかる荻生徂徠のまとめ

まとめ
  • 古文辞学を広めた
  • 合理的な思想を持っていた
  • 儒学を政策へ反映させた
  • 中国に認められるほど漢文のレベルが高かった
  • 「炒り豆を食べながら人を罵るのが1番の楽しみ」という悪趣味を持っていた

荻生徂徠についておぼろげながらわかってもらえたでしょうか。

荻生徂徠のおかげで、それ以降の学問上の地平線は大きく広がりました。

後に続いた人々は、好むと好まざるとにかかわらず、徂徠の影響を大きく受けています。

彼は偉大な先駆者として、これからも記憶されることでしょう。

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