江戸時代

水野忠邦ってどんな人?強引な改革から失脚までをわかりやすく簡単にまとめてみました

水野忠邦

水野忠邦(みずのただくに)といえば、「天保の改革」を行ったことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

「享保の改革」「寛政の改革」と並んで江戸の三大改革の一つとされる「天保の改革」が、「いやしい(1841)水野の天保の改革」という語呂合わせをされるほど評価が悪い理由は何か。

この記事では水野忠邦についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

水野忠邦のプロフィール

  • 水野忠邦(みずのただくに)
  • 幼名:於莵五郎
  • 父:水野忠光(第3代唐津藩主)
  • 母:中川恂(水野忠光の側室)
  • 享年58(1794年6月23日~1851年2月10日)

水野忠邦は何をした人?

出世欲が強く、出世のためなら手段を選ばなかったとされる野心家水野忠邦の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。

特に関係がある出来事を並べてみると、

  • 老中首座就任
  • 天保の改革

などがあります。

以下で詳しく紹介しますね。

老中首座就任

忠邦は第3代唐津藩主水野忠光(ただあきら/ただあき)の2男として生まれましたが、長兄が早世したので、1812年18歳で第4代唐津藩主になりました。

唐津藩は譜代大名のなかでも名門とされていましたが、長い間老中を輩出していません。

そのため、藩主となった忠邦は幕閣(幕府の最高首脳部)に入ることを強く望み、多額の賄賂をばらまきます。

その結果、1816年22歳で奏者番(城中における武家の礼式を管理する役職)になりましたが、忠邦はさらなる出世を望んでいました。

しかし、唐津藩には長崎警備という任務があるため、唐津藩主は幕政に参加できないことを知った忠邦は、唐津藩から浜松藩への国替えという前代未聞の行動に出ます。

表向きの石高はどちらも6万石で対等でしたが、実際の唐津藩の石高は25万3000石で浜松藩は15万3000石だったので、家臣たちはこの国替えに納得できません。

そのため、家臣たちは国替えに猛反対しましたが、忠邦はこれを押し切って浜松藩主になりました。

この一件で幕閣にも名前が知られることになった忠邦は、寺社奉行、大坂城代、京都所司代へと順調に出世し、ついに老中となって第11代将軍徳川家斉(いえなり)の継嗣である徳川家慶(いえよし)の補佐役を任されます。

その後、老中首座(席次が一番上の老中)だった水野忠成(ただあきら)が病死したことで、1839年忠邦は45歳で老中首座になりました。

天保の改革

忠邦が老中首座になって2年後、家慶に将軍職を譲っても大御所として政治の実権を握り、放漫な政治を行っていた家斉が亡くなります。

大御所政治に危機感を抱いていた忠邦は家斉派を粛正して、幕府の財政再建を目的とする天保の改革を行いました。

忠邦は大御所時代の綱紀の乱れを正すため、奢侈禁止・風俗粛正を命じます。

倹約令を施行し、質素倹約をすすめて贅沢を禁止しましたが、さらに厳しい風俗取締令によって、庶民の贅沢を徹底的に禁止しました。

当時、貨幣経済が発達したことと、1833年に起こった天保の飢饉の影響で、仕事を求めて多くの農民が農村を捨てて都市に流入した結果、年貢が減少してしまい財政難の一因となっていました。

そのため、1843年人返し令によって、農民を強制的に農村に帰らせて農業に従事させることで、年貢による収入を増加させようとしましたが、農村での生活が苦しくて逃げて来た人々を無理やり帰らせても意味がなく、失敗に終わります。

また、物価高騰の原因は株仲間(商工業者の同業組合)による独占販売が原因だと考えた忠邦は、物価を引き下げるために株仲間解散令を施行しました。

これまでは株仲間に商品を売れば上手く回っていましたが、株仲間が解散してバラバラになったことで商品の売り先もバラバラになってしまうなど、それまでの流通システムが混乱してしまいます。

その結果、江戸へ商品が届かなくなり、物価は高騰して景気の低下を招いてしまいました。

このように失敗が続く天保の改革のなかでも大失敗だったのが、1843年に出された上知令でした。

これは、江戸と大坂周辺の領地を幕府の直轄地とし、全国各地に分散している直轄地を集中させることで、統治の効率化と治安維持を図ろうとします。

そのため、江戸と大坂周辺の大名に領地替えを命じましたが、大名と旗本から猛烈な反対を受けてしまい、忠邦は老中を罷免されて失脚しました。

その後、忠邦は老中首座に復帰しましたが、一度罷免された忠邦の復帰に反対する阿部正弘に、天保の改革における不正を追及されて、強制隠居と謹慎が命じられます。

それから6年後の、1851年忠邦は失意のうちに58歳(満56歳)で亡くなりました。

水野忠邦のエピソード・逸話

スパイにスパイをつける

忠邦は風俗取締令によって庶民の贅沢を徹底的に禁止しましたが、そのやり方は異常なものでした。

庶民が贅沢をしていないか監視するために、市中にスパイを放っていたのです。

役人スパイを店に行かせ、贅沢品として禁止されている品物を注文させて、店主が品物を用意すると逮捕。

華美な服装をしている女性は、その場で役人スパイに逮捕されて、大衆の面前で恥辱を受けました。

さらに、スパイにスパイをつけるというビックリなこともしていました。

まず、華美な服装をした女性スパイに町中を歩かせます。

当然ながら役人スパイが捕まえようとしますが、これに女性スパイが色香を使って賄賂を渡そうとします。

そして、賄賂を役人スパイが受け取って女性スパイを見逃したら、役人スパイをクビにしていたのです。

まさむね
まさむね
やり方が卑劣すぎる……。

悪魔外道

忠邦による質素倹約は、どんどん庶民の娯楽を奪っていきました。

当時、500軒以上あった寄席を15軒に制限し、演目は神道講釈や心学など「ためになる話」「ありがたい話」に限定します。

忠邦は歌舞伎を「諸悪の根源」とみなし、当時の人気役者だった市川團十郎を追放するなど厳しく弾圧しました。

「芝居小屋は風俗を乱す」という理由で、江戸三座(中村座・市村座・守田座)を繁華街から郊外(浅草)に移転させた他、興行できる場所を江戸・大坂・京都に限定します。

さらに、忠邦は出版規制も行い、為永春水(ためながしゅんすい)と柳亭種彦(りゅうていたねひこ)を処罰しました。

為永春水の人情本『春色梅児誉美』を「いやらしいからダメ」、柳亭種彦の合巻(ごうかん)『偐紫田舎源氏』を「大奥の内情を書いている」「徳川家斉をモデルにしている」という理由で絶版を命じます。

人情本とは恋愛小説のようなもので、合巻は挿絵の入った小説を集めた本のことで、いずれも当時のベストセラーでした。

このように、徹底的に贅沢を禁止されて娯楽を奪われた庶民の怒りは凄まじく、老中を罷免されたことを知った庶民は忠邦の屋敷に押しかけ、「この悪魔外道!」と罵声を浴びせて石を投げつけたそうです。

庶民に憎まれた忠邦とは対照的に、「遠山の金さん」として有名な遠山景元(とおやまかげもと)は、庶民を苦しめる忠邦の政策に反対したことで庶民の人気者となりました。

水野忠邦のまとめ

まとめ
  • 18歳で第4代唐津藩主になる
  • 幕閣に入ることを強く望んで多額の賄賂を贈り、22歳で奏者番になる
  • さらに出世するために、家臣の反対を押し切って唐津藩から浜松藩へ国替えする
  • 国替えによって名前が幕閣に知れ渡った結果、順調に出世して、45歳で老中首座になる
  • 幕府の財政再建を目的とする天保の改革を行う
  • 大御所時代の綱紀の乱れを正すために、奢侈禁止・風俗粛正を命じる
  • 人返しの令により、年貢による収入を増加させようとするが失敗する
  • 物価を引き下げるために株仲間を解散させたが、逆に物価が高騰して景気の低下を招く
  • 上知令を出し、江戸と大坂周辺の領地を幕府の直轄地とするために領地替えを命じたことで猛烈な反対を受け、老中を罷免されて失脚する
  • 老中首座に復帰するが、復帰に反対する阿部正弘に強制隠居と謹慎を命じられる
  • 風俗取締令により、庶民の贅沢を徹底的に禁止して娯楽を奪ったことで恨まれ、悪魔外道と呼ばれる

忠邦は天保の改革に失敗しましたが、目指していたことは間違っていませんでした。

出世することに全力を注いでいた忠邦は、実力で老中首座になったわけではありません。

政治家としての実績がない忠邦が、現状を把握せずに思い描いた理想を強引に実現しようとしたことが問題だったのです。

忠邦の失敗は「理想と現実は違う。知識だけではなく、現実の社会状況をしっかりと把握することが何よりも大切だ」ということを教えてくれているのではないでしょうか。

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