遠山景元は時代劇「遠山の金さん」のモデルとして有名で、江戸時代に実在した人物です。
時代劇では悪人を成敗するときに、背中の桜吹雪の刺青を見せつけるのが印象的ですよね。
この刺青は遠山景元にも本当にあったのでしょうか?
またどのような人物だったのでしょうか?
実像に迫ってみましょう。
目次
遠山景元のプロフィール
- 名前:遠山 景元(とおやま かげもと)
- 出身地:江戸(現・東京)
- 生誕:1793年9月27日
- 死没:1855年4月15日
- 享年:63歳
- 時代:江戸町時代後期
遠山景元は何をした人?
遠山景元は1793年、江戸に生まれました。
時代は江戸時代後期で、第12代将軍・徳川家慶の誕生と同じ年でした。
父は遠山景晋で、長崎奉行を務めた人物です。
「奉行」とは幕府の命令を受けて、地方の行政・司法などを取り仕切るとても高い位の役職です。
景晋は無名の家柄であったにも関わらず、試験をクリアして異例の出世をしました。
若い頃はグレて放蕩生活をしていた
そのエリート景晋の子として生まれた景元ですが、景晋はすでに景善という養子を迎えて跡取りに決めていました。
このような複雑な家庭環境にあったため景元はグレてしまい、若い頃はしばらく家を出て、酒と女に明け暮れる生活をしてしまっていたようです。
しかしその後はちゃんと家に戻り、22歳のときには結婚もしました。
相手は由緒ある堀田伊勢守家の娘けいでした。
遠山家とは釣り合いの取れない家柄でしたが、この頃景晋は長崎奉行に就任しており、その息子である景元の将来性を見込んで嫁いだといわれています。
最初は跡取りになれなかった景元ですが、景善は若いうちに亡くなってしまい、結局35歳のときに遠山家の家督を継ぐことになりました。
出世後、水野忠邦と対立して庶民の支持を得る
父親がエリートへの地盤を築いてくれたおかげもあり、その後は順調に出世を重ねます。
はじめは江戸城西丸の小納戸に勤務し、将軍になる前の徳川家慶の世話役も務めました。
小普請奉行・作事奉行・勘定奉行と昇進し、そして1840年、48歳のときに北町奉行に就任しました。
この頃、幕府では老中・水野忠邦による天保の改革が始まりました。
「天保の改革」とは財政難にあった幕府を立て直すための改革で、庶民の贅沢も徹底的に取り締まるようになりました。
景元も最初の頃は幕府の命令に従っていましたが、徐々に水野忠邦に反抗するようになります。
水野忠邦の極端な法令は娯楽にも及び、町の芝居小屋を次々に廃止にしようとしました。
景元はこれに反対し、交渉の末、なんとかして小規模な移転だけに留めることに成功しました。
この一件は瞬く間に広く知れわたり、一躍庶民のヒーローになりました。
景元は水野忠邦との対立を深めたことで、北町奉行を罷免されてしまいますが、やがて天保の改革は失敗に終わり、水野忠邦は失脚してしまいました。
この結果、景元は南町奉行に昇進することができました。
その後も庶民のために尽力し、63歳で死去しました。
東京の巣鴨にある本妙寺で永眠しています。
遠山景元のエピソード・逸話
遠山の金さんのトレードマークである「桜吹雪の刺青」は本当にあったのでしょうか?
これについては、はっきりとした証拠はどうやらないようです。
残っている文献も、明治時代に中根香亭という人物が雑誌「史海」に執筆した「帰雲子伝」のみで、その中では刺青はなんと桜吹雪ではなく、口に絵巻物をくわえて髪を振り乱した女の生首だったと書かれています。
ですがこれも伝聞記事のようです。
しかしこの言い伝えから、歌舞伎界では刺青をした金さんの作品をたくさん上演するようになりました。
最初の頃は記事の通りに女の生首の刺青を取り入れていましたが、次第に観客の受けがよい桜吹雪に代わり、こちらの方が主流になっていきました。
他にも刺青は実は右腕のみだったとか、桜の花びら1枚だけだったなど、様々な説が出回っています。
そもそも北町奉行を務めていた際には、景元は人々が刺青を入れることに反対をしていたとも伝えられています。
そのため若い頃に放蕩生活をしていた時彫られたのではないかという説もあります。
奉行時代には袖を気にして、めくりあがるとすぐに下す癖があったようで、肘まであった彫り物を隠すための仕草ではないかともいわれています。
しかしこれについても、結局ははっきりとしたことは分かっていないようです。
3行でわかる遠山景元のまとめ
- 若い頃は複雑の家庭環境のため、放蕩生活をしていた
- 出世してからは、天保の改革の水野忠邦と対立し、庶民の支持を得た
- 桜吹雪の刺青が本当にあったかどうかははっきりとしていない
これからは時代劇を見るときも、より一層理解が深まりそうですね。