渡辺崋山(わたなべかざん)といえば、蛮社の獄で処罰されたことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。
多彩な才能を持ちながら自害に追い込まれてしまった“悲運”の渡辺崋山。
この記事では渡辺崋山についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。
目次
渡辺崋山のプロフィール
- 渡辺崋山(わたなべかざん)
- 通称:登(のぼり)
- 父:渡辺定通(田原藩士)
- 母:栄
- 享年49(1793年9月16日~1841年10月11日)
渡辺崋山は何した人?
武士でありながら、肖像画の名手としても知られる“偉人”渡辺崋山の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。
苦難の幼少時代
渡辺崋山は三河国田原藩士渡辺定通(さだみち)の長男として生まれました。
定通は上級藩士でしたが、石高が1万2000石しかない田原藩は慢性的な財政難に苦しめられており、本来なら100石の禄を与えられるはずが12石しか与えられませんでした。
そのため、11人家族だった渡辺家の生活はとても貧しく、幼い弟や妹たちが奉公に出されるなか、崋山は得意としていた絵を描いて売ることで家計を支えるようになります。
田原藩士としての崋山
崋山は8歳で第8代田原藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役(夜の話し相手)になり、亀吉が亡くなった後も弟の元吉の伽役になったことで、康友から目をかけられるようになりました。
16歳で江戸屋敷に出仕した崋山は納戸役や使番など藩主に近い役職に任じられ、32歳で家督を継ぎ、33歳で取次役となります。
ところが、1827年第10代田原藩主三宅康明が病死してしまいました。
康明には後継ぎがいなかったので、上層部は財政難を克服するために裕福な姫路藩から持参金付きで養子を迎えようとします。
藩主三宅家への忠誠心が強かった崋山は、康明の異母弟である友信を藩主にすることを求め、上層部の考えに強く反対しました。
結局、姫路藩から康直を次の藩主として迎えることになりましたが、崋山は上層部と姫路藩の両方と交渉して、友信の息子と康直の娘を結婚させて次の藩主にすることを承諾させます。
その後、崋山は前藩主の格式を与えられた友信の側用人となり、1832年39歳で家老に就任しました。
家老になった崋山は藩政改革に尽力し、家格よりも役職を基準に俸禄を与える格高制を導入したり、農学者である大蔵永常(おおくらながつね)を招いて稲作の技術改良を行います。
また、あらかじめ報民倉という食料備蓄庫を設置したり、『凶荒心得書』という対応策を書いて災害への備えを徹底させていたことで、1836年に起こった天保の大飢饉の際に一人も餓死者を出さず、全国で唯一幕府から表彰されました。
さらに、助郷を免除してもらうために外国船の旗印を描き、それを沿海の村に配って見張りに当たらせるなど、海防政策にも取り組みました。
蛮社の獄
外国事情に関心を持つようになった崋山は蘭学や兵学の研究を始めます。
尚歯会という蘭学者や儒学者などの集会に参加し、
- 高野長英(たかのちょうえい)
- 小関三英(こせきさんえい)
- 江川英龍(えがわひでたつ)
- 川路聖謨(かわじとしあきら)
などと海防について議論を交わし、世界情勢を知るようになりました。
そして、強大な力を持つ欧米列強諸国に、異国船打払令(日本に近づく外国船は砲撃して追い返す)で対応している幕府の鎖国政策に危機感を持つようになります。
そのなか、1837年モリソン号事件が起こりました。
来航したアメリカの商船モリソン号を砲撃して退去させましたが、モリソン号が通商・布教と救助した日本人漂流民を送り届けるために来航していたことが分かると、来航の目的も聞かずに一方的に追い返した幕府に対する批判が強まります。
モリソン号事件を知った崋山は『慎機論』を書きましたが、田原藩の家老という立場上、表立って幕府を批判することができなかったため、論旨が不明確ながら幕府高官を激しく批判するという不可解な文章になってしまいました。
『慎機論』を提出することを躊躇した崋山は、草稿をそのまま放置します。
当時の江戸では蘭学が盛んに学ばれていましたが、儒学を学ぶ者が多い幕府にとって蘭学者は目障りな存在でした。
そのため、幕府は蘭学者を弾圧するために密偵を放ち、無人島渡航計画を理由に崋山を捕らえます。
渡航の罪は晴れましたが、家宅捜索の際に反故にしていた『慎機論』が発見され、幕政を批判したとして重罪となり、崋山は田原へ蟄居することになりました。
謹慎中の崋山の生活はとても困窮しており、何とか助けようとした門人福田半香(ふくだはんこう)らは江戸で書画会を開いて崋山の絵を売り、その代金を崋山の生活費に充てることにします。
そのため、崋山は絵に専念して多くの名作を描きましたが、この活動に対して「罪人の身でありながら何をしている!」と、悪評が立ってしまい、藩主に迷惑が生じることを恐れた崋山は自刃して49歳の生涯を終えました。
渡辺崋山のエピソード・逸話
立志のきっかけは不平等
崋山は12歳の時、父の薬を買いに行き(お腹が減ってという説もあり)、日本橋で誤って岡山藩の大名行列と接してしまい、家来から暴行を受けました。
殴り倒された崋山が顔を見上げると、駕籠には自分と同じ年頃の若君が乗っています。
同じ年頃でも身分によってここまで違うことに不平等を感じた崋山は、これをきっかけに発奮し、学問の世界で立身出世する決意をしたとされています。
蘭学にて大施主
崋山は12歳で決意した通り学問に励み、初めは鷹見星皐(たかみせいこう)から、18歳になると昌平坂学問所に通って佐藤一斎(さとういっさい)と松崎慊堂(まつざきこうどう)から儒学(朱子学を)を学び、佐藤信淵(さとうのぶひろ)からは農学を学びます。
さらに、海防政策を担当したことから外国事情に興味を持つようになり、西洋の地理歴史・兵学・文化など広範囲にわたる知識を吸収しました。
崋山は蘭学者ではなかったものの、知識が豊富な崋山のもとには多くの蘭学者が集まり、リーダー的な存在となったことから、「蘭学にて大施主」と呼ばれるようなります。
画家としての崋山
崋山は貧しかった家計を支えるために絵を描いていました。
当初は白川芝山(しらかわしざん)に入門しましたが、謝礼を支払えなかったので破門されます。
そのため、身内のつてを頼って金子金陵(かねこきんりょう)に入門しました。
金陵は江戸時代後期を代表する南画家谷文晁(たにぶんちょう)の弟子だったので、崋山は文晁の指導も受けるようになります。
文晁を文人画家の手本として、南画だけではなく様々な画法を習得した崋山は、26歳頃には画家として名前が知られるようになりました。
写実的で西洋画における遠近法と陰影法を、線を主体とする東洋画に取り入れた崋山の肖像画はとても人気があり、国宝「鷹見泉石像」をはじめとする多くの作品が残っています。
渡辺崋山のまとめ
- 上級藩士の家に生まれたが生活が貧しく、家計を支えるために絵を描くようになる
- 8歳で伽役になり、藩主三宅康友から目をかけられるようになる
- 39歳で家老になり、藩政改革に尽力する
- 幕府の鎖国政策に危機感を持ち、『慎機論』を書いたことで処罰される(蛮社の獄)
- 謹慎中に絵を描いて売ったことで悪評が立ち、藩主に迷惑をかけないために自刃する
- 博識だったので、蘭学者ではなかったが蘭学者のリーダー的存在となる
- 西洋画の技法を東洋画に取り入れ、肖像画家として人気を博す
多くの苦難を乗り越えて学問に励み、日本を代表する知識人となった崋山は、西洋事情と比べた日本の現状を危惧したことで自害に追い込まれました。
理不尽な罪に問われたことに
天(てん)を怨(うら)まず、人(ひと)を尤(とが)めず。
実(じつ)に僕左様心得(さようにこころえ)、一点(いってん)の憤(いきどお)りなし
と詠み、「不忠不孝渡辺登」と書き遺して亡くなった崋山。
これらの言葉は、苦労人だったが故に寛容で、最後まで藩主への忠誠心を貫いた崋山の生真面目さを物語っています。