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	<title>奈良時代の有名な人物まとめ｜歴史上の人物外伝</title>
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		<title>【光仁天皇がしたことまとめ】行った政策や桓武天皇・道鏡との関係は？</title>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 24 Sep 2019 09:46:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
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					<description><![CDATA[光仁天皇は奈良時代末期の天皇ですが、教科書などで大きく取り上げられることがなく、道鏡との関係で知られる称徳天皇と平安京に遷都した桓武天皇の間に挟まれた影の薄い存在で、あまりよく知られていません。 この記事では光仁天皇につ]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>光仁天皇は奈良時代末期の天皇ですが、教科書などで大きく取り上げられることがなく、道鏡との関係で知られる称徳天皇と平安京に遷都した<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>の間に挟まれた影の薄い存在で、あまりよく知られていません。</p>
<p>この記事では<span class="marker">光仁天皇についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>光仁天皇のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>光仁天皇（こうにんてんのう）</li>
<li>諱：白壁（しらかべ）</li>
<li>父：施基親王（天智天皇の第7皇子）</li>
<li>母：紀橡姫（紀諸人の娘）</li>
<li>享年73（709年10月13日～781年12月23日）</li>
<li>第49代天皇（在位：770年10月1日～ 781年4月3日）</li>
</ul>
</div>
<h2>光仁天皇は何した人？</h2>
<p>奈良時代末期、光仁天皇は仏教勢力によって乱れていた政治と国家財政の再建に尽力しました。</p>
<h3>光仁天皇の生い立ち</h3>
<p>709年、光仁天皇は施基親王（志貴皇子）の第6皇子として生まれ、「白壁王」と呼ばれていました。</p>
<p>父・施基親王は<a href="https://rekishigaiden.com/tenditenno/">天智天皇</a>の第7皇子でしたが、壬申の乱以降、皇統は天智天皇の弟・<a href="https://rekishigaiden.com/tenmutenno/">天武天皇</a>の系統で引き継がれていたため、天智天皇の孫である白壁王は皇位継承とは無縁の存在でした。</p>
<p>そのため、716年に父・施基親王が亡くなって後ろ盾を失うと、737年に29歳で従四位下に叙せられるまで叙位（五位以上の位階を進授する行事）されませんでした。</p>
<h3>井上内親王と結婚</h3>
<p>749年、<a href="https://rekishigaiden.com/syomutenno/">聖武天皇</a>が譲位して孝謙天皇が即位すると、白壁王は孝謙天皇の異母姉・<span class="marker">井上内親王（聖武天皇の第1皇女）と結婚</span>しました。</p>
<p>白壁王が井上内親王と結婚した年は不明ですが、754年には長女・酒人女王（さかひとないしんのう）が誕生していることから、753年以前だとされています。</p>
<p>皇位継承をめぐる抗争によって多くの皇族が粛清されていくなか、酒におぼれる振りをして争いに巻き込まれることを避けていた白壁王は昇進し続け、766年には大納言に就任しました。</p>
<h3>最高齢で即位</h3>
<p>770年、称徳天皇が崩御すると、白壁王の周辺は一気に緊迫します。</p>
<p>未婚だった称徳天皇には子どもがなかったので、次期天皇についての協議が左大臣・藤原永手（ふじわらのながて）や右大臣・吉備真備（きびのまきび）らによって行われました。</p>
<p>この頃、生存している天皇の皇子は一人もいませんでしたが、天皇の孫は白壁王の他に、臣籍降下していた文室浄三（ふんやのきよみ）と弟・文室大市（ふんやのおおいち）の二人がいました。</p>
<p>この協議で、真備は浄三を推し、浄三が78歳という高齢を理由に辞退すると、その弟・大市を推挙しましたが、白壁王を推す永手は奏上の直前に推挙文の名前の部分を白壁王にすり替えるという暴挙に出て、強引に白壁王を次期天皇にしてしまいました。</p>
<p>永手が白壁王を推した理由は、白壁王と井上内親王の間には他戸親王（おさべしんのう）が生まれており、天智天皇系と天武天皇系の両方の血を引く他戸親王を次の天皇にするため、父・白壁王を天皇にしたと考えられています。</p>
<p><span class="marker">白壁王は62歳で即位</span>し、元号は宝亀と改められました。</p>
<div class="concept-box6">
<p>62歳での即位は、実在が確実とされる継体天皇（第26代天皇）以降、今上天皇に至るまで含めて最高齢とされています。</p>
</div>
<h3>井上内親王事件</h3>
<p>即位後、光仁天皇は井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に定めましたが、771年に光仁天皇の即位と他戸親王の立太子に尽力した永手が急死してしまいます。</p>
<p>北家の永手に代わって実権を握った式家の藤原良継（ふじわらのよしつぐ）は、北家が擁立した他戸親王が即位することを嫌い、772年に皇后・<span class="marker">井上内親王に光仁天皇を呪詛したという無実の罪を押し付けて廃后し、他戸親王も廃太子にしました。</span></p>
<p>この後、式家が擁立する<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">山部親王（後の桓武天皇）</a>が皇太子に立てられたことで、天武天皇系の血筋は途切れ、皇統は天智天皇系へ移ります。</p>
<h3>光仁天皇の政治と最期</h3>
<p>奈良時代は鎮護国家思想（仏教によって国を守り安泰にすること）が広まり、天武天皇系の天皇が仏教に没頭した結果、仏教勢力が権力を持つようになり、道鏡（どうきょう）のように天皇の地位を狙う者まで現れていました。</p>
<p>そのため、光仁天皇は称徳天皇のもとで実権を握っていた道鏡を下野国（栃木県）の薬師寺別当に左遷し、宇佐八幡宮神託事件で大隅国（鹿児島県）に流罪となっていた和気清麻呂（わけのきよまろ）を召還します。</p>
<p>そして、道鏡が765年に出した、寺院以外は新たに土地を開墾して私有化してはいけないとする「寺院以外の加墾禁止令」を772年に撤廃するなど、仏教に偏っていた政治を改めました。</p>
<p>さらに、身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。</p>
<p>この他にも、不必要な令外官（律令に記されていない官職）を廃止して財政を緊縮し、虚弱な兵士に代えて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとりました。</p>
<p>光仁天皇は70歳を過ぎても政務に励んでいましたが、781年に能登内親王（光仁天皇の第1皇女）を亡くしてから心身ともに衰え始めたため、病気を理由に<span class="marker">山部親王に譲位</span>します。</p>
<p>その8ヶ月後の781年12月23日、光仁天皇は73歳で崩御しました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>光仁天皇のエピソード・逸話</h2>
<h3>『水鏡』に記された「井上内親王事件」</h3>
<p>『水鏡』（鎌倉時代初期に成立したとされる歴史物語）によると、光仁天皇が井上内親王に博打をしようと持ちかけ、「私が負けたら、そなたに若くて逞しい男を紹介しよう。そなたが負けたら、絶世の美女を紹介してくれぬか？」と言ったとされています。</p>
<p>その結果、光仁天皇が負けてしまったため、井上内親王は「いつになったら、男を紹介してくれるのですか？」と冗談半分に責めました。</p>
<p>その話を聞いた藤原百川（ふじわらのももかわ）が山部親王を勧めたので、光仁天皇は山部親王に井上内親王のもとへ行くように命じます。</p>
<p>山部親王はこれを拒否しましたが、光仁天皇が早く行くように責め立てたので、仕方なく井上内親王のもとへ行きました。</p>
<p>山部親王を殺害しようと考えた井上内親王は、いつも山部親王を呼んで相手をさせ、それを見せつけるようになります。</p>
<p>光仁天皇がこれを恥じて恨んでいることを察した百川は、井上内親王が井戸に呪いを入れて光仁天皇を殺し、他戸親王を即位させようとしているとして、井上内親王に仕えていた者を殺害しました。</p>
<p>激怒した井上内親王に対し、百川は「后をしばらく縫殿寮（ぬいどのりょう）に押し込めて反省してもらいましょう。」と言い、皇后の位を奪います。</p>
<p>井上内親王はその後も巫女を呼び集めて光仁天皇を呪詛していたため、百川は巫女の親に自白を迫りました。</p>
<p>すると、「帝に危害を加えようした罪は逃れることができません。后は私たちを召し、多くの贈物を下さったので、どうしようと思っていましたが、ただ帝のために寺で読経し、悪い心を起こさないように願って下さいと言われました。」と答えたので、光仁天皇は涙を流しながら、「私は后を少しも嫌いではないのに何故こんなことになるのだ。どうしたらいいのか。」と言いました。</p>
<p>そして、百川から処罰するように求められたため、井上内親王の御封などを没収しましたが、その後も井上内親王は光仁天皇の悪口を言い続けていました。</p>
<p>そのため、百川は「東宮もしばらくの間退けて、心が鎮まるのを待ちましょう。」と言い、光仁天皇がこれを許可すると、偽りの宣命を作成して発表します。</p>
<p>この宣命は皇后と皇太子を解任して追放するというものだったので、驚いた光仁天皇は百川を呼び、「后が懲りないから、しばらくの間、東宮を退けよと申したのに、どうしてこういうことになったのだ。」と言いました。</p>
<p>すると、百川は「退けよとは、永遠に退けよということと同じです。母に罪があれば、子も然りです。」と返答します。</p>
<p>すべては自分のためだと言われ、それ以上の追求をすることができなかった光仁天皇は、とても悲しむことになったとされています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
このことから、井上内親王事件は百川の策略であったことが分かります。
</div>
</div></div>
<h3>井上内親王の怨霊</h3>
<p>光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃された井上内親王は、さらに光仁天皇の姉・難波内親王を呪詛して殺害したという嫌疑がかけられ、他戸親王とともに身分を庶民に落とされました。</p>
<p>そして、大和国（奈良県）にある没官の邸宅に幽閉され、775年に他戸親王と同じ日に亡くなりました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
二人の死因は分かっていませんが、親子が同じ日に死亡することは不自然なため、自殺か他殺と考えられています。
</div>
</div></div>
<p>井上内親王が非業の死を遂げてから4ヶ月後、伊勢国（三重県）・尾張国（愛知県）・美濃国（岐阜県）が暴風雨に襲われ、かつて井上内親王が斎王として仕えていた伊勢神宮にも大きな被害が出ました。</p>
<p>このような場合、通常なら伊勢国司が修繕費用を負担しますが、このときは被害が大きかったため、朝廷から修理使が派遣されています。</p>
<p>しかし、『帝王編年記』によると、このとき井上内親王が竜に化けて暴れ回ったとされているので、井上内親王の怨霊を鎮めるために朝廷が使者を送ったとも考えられています。</p>
<p>祟りを恐れた光仁天皇は秋篠寺の建立を命じましたが、その後も災害が続き、777年には光仁天皇が病に伏し、山部親王も大病を患ってしまいました。</p>
<p>これは井上内親王の怨霊による祟りだと恐れられるようになったため、井上内親王の遺骨を改葬して、その墓を御墓とします。</p>
<p>しかし、その後も天皇家と藤原家には不幸が続いたので、800年に<a href="https://rekishigaiden.com/kanmutenno/">桓武天皇</a>は井上内親王を皇后に復して名誉を回復し、その墓を山陵としました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
桓武天皇を悩ませた井上内親王は奈良県五條市の御霊神社をはじめ、各地にある御霊神社に他戸親王とともに祀られています。
</div>
</div></div>
<h2>光仁天皇のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>709年：施基親王（志貴皇子）の第6皇子として生まれる</li>
<li>770年：62歳で第49代天皇に即位する</li>
<li>772年：井上内親王を廃后し、他戸親王を廃太子にする</li>
<li>773年：山部親王を皇太子に立てる</li>
<li>781年：山部親王に譲位した後、73歳で崩御する</li>
</ul>
</div>
<p>最高齢で即位した光仁天皇は、約10年の在位中に崩壊の危機に直面していた律令体制を再建するために尽力しました。</p>
<p>しかし、そのほとんどが桓武天皇のもとで完成されているため、評価されることは少ないですが、平安時代の基礎を築くという大きな功績を残しています。</p>
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			</item>
		<item>
		<title>大伴家持ってどんな人？万葉集を編集した男のエピソードをまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/yakamochi/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 22 Sep 2019 03:38:04 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
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					<description><![CDATA[新元号が「令和」と決定されましたが、その典拠は日本最古の歌集である『万葉集』に収められた「梅花の歌三十二首 序文」にある、 初春の令月にして、気淑（よ）く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披（ひら）き、蘭は珮後（はいご）の香を薫ら]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>新元号が「令和」と決定されましたが、その典拠は日本最古の歌集である『万葉集』に収められた「梅花の歌三十二首 序文」にある、</p>
<div class="simple-box9">
<p>初春の令月にして、気淑（よ）く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披（ひら）き、蘭は珮後（はいご）の香を薫らす。</p>
</div>
<p>の文言を引用したものです。</p>
<p>大伴家持は万葉集の編纂者の一人といわれており、令和の由来となった「梅花の宴」を主催した父・大伴旅人とともに注目されています。</p>
<p>この記事では<span class="marker">大伴家持についてどんな人物だったのか</span>、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。</p>
<h2>大伴家持のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>大伴家持（おおとものやかもち）</li>
<li>父：大伴旅人（おおとものたびと）</li>
<li>母：丹比郎女（たじひのいらつめ）</li>
<li>享年68（718年？～785年8月28日）</li>
</ul>
</div>
<h2>大伴家持は何した人？</h2>
<p>大伴家持は『万葉集』の編纂に関わった歌人として取り上げられていますが、大伴氏は本来武門の氏族で、家持は中納言まで昇進しています。</p>
<h3>大伴家持の生い立ち</h3>
<p>718年頃、大伴家持は大伴旅人（おおとものたびと）の長男として生まれました。</p>
<p>728年頃、父・旅人が大宰帥（大宰府の長官）に任命されたので、母・丹比郎女と弟・大伴書持（おおとものふみもち）とともに大宰府に赴きます。</p>
<p>その後、母・丹比郎女が亡くなり、歌人である叔母・大伴坂上郎女（おおとものさかのうえのいらつめ）に育てられた家持は歌が得意な若者として成長し、730年に帰京しました。</p>
<h3>越中国に赴任</h3>
<p>731年、父・旅人が亡くなり、家持は14歳で大伴家を背負うことになります。</p>
<p>738年、内舎人（武装して宮中に宿直し，天皇の雑役や警衛にあたる役職）となり、<a href="https://rekishigaiden.com/syomutenno/">聖武天皇</a>の伊勢行幸に随行しました。</p>
<p>そして、745年に従五位下に昇叙され、746年には宮内少輔に任じられましたが、わずか3か月後に<span class="marker">越中守に任じられ、地方官となってしまいます。</span></p>
<p>越中国（富山県）に赴任した家持は下級官吏・大伴池主（おおとものいけぬし）と盛んに歌を贈答し、都と異なる越中の風土に接した新鮮な感動を伝える歌など、223首の和歌を詠んでいます。</p>
<h3>因幡国と薩摩国に赴任</h3>
<p>751年、家持は少納言となって帰京しましたが、橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、758年に<span class="marker">因幡守に任じられ、再び地方官となってしまいました。</span></p>
<p>因幡国（鳥取県）に赴いた家持は、759年に因幡国庁で催された新年の宴で、</p>
<div class="simple-box9">
<p>新しき 年の始めの初春の 今日降る雪の いや重（し）け吉事（よごと）</p>
<p>（新しい年の初めに降る雪よ、どうかこの世に良いことを積もらせてくれないか。）</p>
</div>
<p>という歌を詠み、これが『万葉集』の最後の歌になっています。</p>
<p>その後762年、家持は信部大輔に任じられて帰京しましたが、藤原良継（ふじわらのよしつぐ）らと、藤原仲麻呂（ふじわらのなかまろ）の暗殺計画を企てていたことが露見し、764年に<span class="marker">薩摩守に任じられ、左遷されてしまいました。</span></p>
<h3>大伴家持の最期</h3>
<p>770年、称徳天皇が崩御すると、家持は左中弁兼中務大輔という要職に就任し、<a href="https://rekishigaiden.com/konintenno/">光仁天皇</a>の即位に伴って正五位下となりました。</p>
<p>そして、光仁天皇のもとで要職を歴任し、778年に正四位下へ昇進しました。</p>
<p>さらに、780年に参議に任じられて公卿の末席に連なり、781年には従三位に昇進しましたが、氷上川継の乱に関与していたとされて解官されてしまいます。</p>
<p>しかし、4カ月後に嫌疑が晴れて参議に復帰すると、783年に<span class="marker">中納言となりました。</span></p>
<p>そして、784年に<span class="marker">持節征東将軍（蝦夷征討の将軍）に任じられた</span>後、785年8月28日に68歳で亡くなりました。</p>
<p><!--Ads1--></p>
<h2>大伴家持のエピソード・逸話</h2>
<h3>大伴家持と万葉集</h3>
<p>『万葉集』は日本に現存する最古の和歌集で、全20巻4500首以上の歌が収められていますが、「序文」がないため、成立年代と編纂者に関しては詳しくわかっていません。</p>
<p>成立年代については、一番古い写本が平安時代のものであることから、奈良時代末期に成立したと考えられています。</p>
<p>一方、編纂者については様々な説がありますが、</p>
<ul>
<li>1割以上にあたる480首が家持の歌であること</li>
<li>家持と恋愛関係にあった女性や大伴氏の歌が多数収められていること</li>
<li>最後の4巻は家持の歌日記が基になっていると考えられること</li>
</ul>
<p>から、<span class="marker">家持が『万葉集』を編纂した</span>といわれています。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
しかし、作者層が天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠まれた土地も東北から九州まで日本各地に及んでいることから、一人の編者によってまとめられたとは考え難く、<span class="marker">複数の編者によるものを最終的に家持がまとめたとする説が有力</span>となっています。
</div>
</div></div>
<p>『万葉集』の名前については、</p>
<ul>
<li>「万の言の葉」を集めたもの、つまり「多くの言の葉＝歌を集めたもの」とする説</li>
<li>「葉」を「世」の意味にとって、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」とする考え方</li>
</ul>
<p>があります。</p>
<p>家持が深く関わったとされる『万葉集』は1200年以上経った現在まで伝えられ、多くの人に親しまれています。</p>
<h3>大伴家持と雨乞い</h3>
<p>家持が赴任した越中国は、749年の6月下旬から1ヶ月近く雨が降りませんでしたが、7月下旬になって、ようやく雨雲の気配が見られました。</p>
<p>そのとき、家持は雨乞いの歌を詠み、天に祈っています。</p>
<div class="simple-box9">
<p>この見ゆる　雲ほびこりて　との曇り　雨も降らぬか　心足（だ）らひに</p>
<p>（今見えている雲がはびこって、空一面に曇り、雨が降らないだろうか、心行くまで。）</p>
</div>
<p>家持がこの歌を詠んだ3日後に雨が降り出し、次の歌を詠んでいます</p>
<div class="simple-box9">
<p>我が欲りし　雨は降り来ぬ　かくしあらば　言挙げせずとも　年は栄えむ</p>
<p>（私が求めていた雨が降って来た。これならば、神に神事を捧げなくても、今年は豊作でしょう。）</p>
</div>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
雨が降ってしまえば、神への感謝など忘れてしまうとは……家持の正直すぎる心情が詠まれています。
</div>
</div></div>
<h3>友情？愛情！？</h3>
<p>一説では、日本で最初の男性同士の特別な感情が記録されたのは奈良時代ではないかといわれています。</p>
<p>『万葉集』には次の歌のやり取りがあるためです。</p>
<div class="simple-box9">
<p>我が背子は　玉にもがもな　ほととぎす　こゑにあへぬき　手に巻きてゆかむ</p>
<p>（愛しいあなたがもし装飾品だったなら、ホトトギスの声とともに手に巻いて　どこへでも一緒に行けるのに。）</p>
</div>
<div class="simple-box9">
<p>うらごひし　我が背のきみは　なでしこが　花にもがもな　朝な朝なみむ　</p>
<p>（愛しいあなたがもし撫子の花だったなら、毎朝毎朝その花を眺めるのに。）</p>
</div>
<p>最初の歌は家持が詠んだもので、返歌は大伴池主が詠んだ歌です。</p>
<p>奈良時代、和歌は宴席を盛り上げるために、男性が女性の視点で恋の歌を詠み合うこともあったため、家持と池主の関係は友情と捉えられていますが、都に残した妻よりも池主に「会えなくて寂しい」と詠んでいる歌が多いことから、二人の間にはプラトニックな愛があったのでは！？ともいわれています。</p>
<p>池主との10年に及ぶ歌のやり取りは家持の歌の才能を磨き、それは『万葉集』の成立にも影響したとされています。</p>
<h2>大伴家持のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>718年頃：大伴旅人の長男として生まれる</li>
<li>746年：越中守に任じられる</li>
<li>758年：因幡守に任じられる</li>
<li>764年：薩摩守に任じられる</li>
<li>783年：中納言に任じられる</li>
<li>784年：持節征東将軍に任じられる</li>
<li>785年：68歳で亡くなる</li>
</ul>
</div>
<p>何度も左遷されながら中央政界に復帰し、政争の中を生き抜いて中納言にまで昇進した家持ですが、亡くなった直後に起こった藤原種継暗殺事件に関与していたとされ、罰せられてしまいました。</p>
<p>その結果、家持は埋葬することを許されず、官籍からも除名され、子・大伴永主（おおとものながぬし）は隠岐国（島根県）へ流罪となりました。</p>
<p>その後、806年に恩赦によって従三位に復されましたが、死後も政争に関与したとされたことは、政治家としての家持の人生を象徴しているようです。</p>
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		<title>行基ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/gyoki/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 27 Jun 2019 07:30:27 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
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					<description><![CDATA[行基と聞いて、すぐにピンとくる人はあまりいないかもしれません。 教科書に出てくる出来事では、聖武天皇とともに東大寺の大仏建立に携わった、というのが一番印象強いでしょうか。 しかし実際には、行基は時に国家を脅かし、時に国家]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>行基と聞いて、すぐにピンとくる人はあまりいないかもしれません。</p>
<p>教科書に出てくる出来事では、<a href="https://rekishigaiden.com/syomutenno/">聖武天皇</a>とともに東大寺の大仏建立に携わった、というのが一番印象強いでしょうか。</p>
<p>しかし実際には、行基は時に国家を脅かし、時に国家から協力を迫られるほど、大きな影響力を持った人物なのです。</p>
<p>では、具体的に<span class="marker">行基はどのようなことをした</span>のでしょうか。<br />
また、そのエピソードや逸話は？</p>
<p>簡単にまとめてみました！</p>
<h2>行基のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>行基（ぎょうき、ぎょうぎ）668-749。</li>
<li>奈良時代の日本の僧。</li>
<li>生地　河内国（現・大阪府堺市）</li>
<li>寺院　家原寺、東大寺ほか</li>
</ul>
</div>
<p>法相宗を信仰し、人々にその教えを説いて回りました。</p>
<h2>行基は何をした人？</h2>
<p>行基に関しては、次のものがあります。</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>法相宗</li>
<li>国家による布教の弾圧</li>
<li>東大寺大仏の建立</li>
</ul>
</div>
<p>以下、詳しく見ていきましょう。</p>
<h3>法相宗を信仰</h3>
<p>行基が信仰した<span class="marker">法相宗</span>は、インドで生まれた思想を受け継ぎ、中国の唐で創始された宗派です。</p>
<p>その教義は、「我々は存在現象の在り方をどのように認識しているのか、一切の存在現象は自分の認識の中にしかないのではないか」というかなり哲学的なものでした。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
うーん、考えるだけで頭が痛くなってきますね……。
</div>
</div></div>
<p>行基は<span class="marker">貧しい人々の救済を目的に、教えを説いて布教を広めていった</span>のです。</p>
<h3>国家による布教の弾圧</h3>
<p>新たな形の宗教集団を作り近畿地方を中心に布教を進めていく行基は、貧民救済の他に治水や架橋などの社会事業でも活動していきました。</p>
<p>しかし717年、それらの活動が<span class="marker">僧尼令（そうにりょう）に違反しているとして、詔により国家からの弾圧を受けてしまいます。</span></p>
<div class="concept-box6">
<p>僧尼法とは、簡単に言えば国家を危険にさらさないように僧尼の活動を規制するための法令です。</p>
<p>国家が敵だという思想を広められてしまえば、民衆が国家への敵対心を持ってしまいますからね。</p>
</div>
<p>行基の活動が大きくなりすぎたせいか、国家にまで目をつけられてしまったというわけです。</p>
<p>ちなみに、奈良時代に僧尼令を理由に処分を受けたのは行基のみだったということからも、その活動がどれだけ大きく普及していたのかが窺えます。</p>
<p>しかし、行基はそこで諦めません。</p>
<p>たとえ弾圧されようとも、自分の活動は人々の救済のためであると、なおも布教を続けます。</p>
<p>続日本紀によれば、時には数千人から1万人を集めて説教をしているともされていたようです。</p>
<p>そのひたむきな姿勢が功を奏したのか、活動により社会事業に進展があったことや内容が反国家的なものではないと判断されたことなどから、<span class="marker">731年には弾圧が緩和され、さらに翌年には国家側が行基へ協力を要請するまでに至りました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
自分の活動の正当性を信じて疑わなかったことが、民衆の心だけでなく国家さえも動かしたのですね。
</div>
</div></div>
<h3>東大寺大仏建立</h3>
<p>行基の活動が認可されて以来、国家は逆にその影響力を最大限に活用しようとしていきます。</p>
<p>その一つとして、740年には<a href="https://rekishigaiden.com/syomutenno/">聖武天皇</a>が行基に近づき、大仏の建立の協力を依頼するようになりました。</p>
<p>743年には東大寺の大仏造営の勧進（寺院や仏像を造るために庶民に寄付を求めること）に起用され、その効果は絶大だったといいます。</p>
<p>その功績から、<span class="marker">行基は仏教界における最高位である「大僧正」の位を朝廷より贈られるまでになりました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
もともと行基が民衆を惑わせていると恐れられていた国家は、活動を認めさらに民衆の行基への支持を高めさせることで、うまくそれを利用したというわけですね。</p>
<p>なんだか自分勝手なような気もしますが、これも民衆のためになっているのだと行基は判断したのでしょう。
</p></div>
</div></div>
<h2>行基のエピソード・逸話</h2>
<p>行基のエピソードや逸話としては、以下のものがあります。</p>
<h3>救済の対象は階層を問わなかった</h3>
<p>困窮者の救済を目的に布教活動をしていた行基ですが、その<span class="marker">対象は民衆だけでなく、豪族にも向けられていました。</span></p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
生活が苦しいものや貧しい者ならば、みな平等に救われるべきだと考えていたのですね。
</div>
</div></div>
<p>区別をつけないその姿勢が、多くの人々の心を引き付けたのでしょう。</p>
<h3>行基図（古い日本地図）を作成していた</h3>
<p>行基の作成したものの一つに、<span class="marker">「行基図」と呼ばれる日本地図</span>があります。</p>
<p>実際には行基が作ったのかどうかははっきりとされていませんが、この図は日本地図の原型として用いられ、江戸時代に<a href="https://rekishigaiden.com/inotadataka/">伊能忠敬</a>などが詳細な日本地図を作り出すまではこの行基図をもとに考えられていたと言われています。</p>
<p>よって、それまでの日本地図はまとめて「行基図」と呼ばれる場合が多いです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
もしこれを造ったのが本当に行基だとしたなら、彼の影響力は凄まじいものであると言えますね。
</div>
</div></div>
<h2>3行でわかる行基のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>法相宗を信仰し、困窮者の救済を目的に広く布教活動を行った</li>
<li>その影響力への危惧から国家は活動の弾圧を行ったが、後に緩和、さらには国家への協力を仰ぐようにまでなった</li>
<li>東大寺大仏の建立の際には、民衆からの支持率を利用し寄付を募り、その功績から「大僧正」の位を贈られた</li>
</ul>
</div>
<p>行基の活動はあくまで救済者の救済をしたいがためであり、そこに階級の差などはありませんでした。</p>
<p>人間は誰しもが救われるべきだとするその平等な心が、多くの人々から支持される所以になったわけですね。</p>
<p>国家の弾圧にも負けず、己の信念を貫き通し、遂には「大僧正」の位にまで上り詰めた行基。</p>
<p>そのひたむきな姿勢から我々が学べるものは多そうです。</p>
]]></content:encoded>
					
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		<title>鑑真ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/ganjin/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/ganjin/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Jun 2019 04:51:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
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					<description><![CDATA[幾たびもの失敗を乗り越え、失明という苦難を味わいながらも、日本にやってきた偉人、それが鑑真です。 彼を語るとき、「失明した」というエピソードが強調され過ぎて他が浮いてしまいがちですが、もちろんそれ以外にも、彼は日本で大事]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>幾たびもの失敗を乗り越え、失明という苦難を味わいながらも、日本にやってきた偉人、それが鑑真です。</p>
<p>彼を語るとき、「失明した」というエピソードが強調され過ぎて他が浮いてしまいがちですが、もちろんそれ以外にも、彼は日本で大事な功績を残しています。</p>
<p>唐の僧だった鑑真は、なぜ危険を冒してまで日本へやってきたのか？</p>
<p>また他にどのようなことを成し遂げたのでしょうか。</p>
<p>エピソードや逸話はを交えながら簡単にまとめてみました！</p>
<h2>鑑真のプロフィール</h2>
<p>鑑真（がんじん）688-763。</p>
<p>唐の生まれで、奈良時代の帰化僧（他国からやってきて、その国に移り住んだ僧）。</p>
<p><span class="marker">日本における律宗の開祖</span>です。</p>
<p>754年に日本にやってきて以来、亡くなるまで日本で過ごしました。</p>
<h2>鑑真は何をした人？</h2>
<p>では、具体的に鑑真はどのようなことをした人なのでしょうか。</p>
<p>鑑真で欠かせないものは、次の通りです。</p>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>律宗</li>
<li>5度の日本への渡航失敗と失明</li>
<li>日本への戒律制度の普及</li>
</ul>
</div>
<p>それでは、詳しく見ていきましょう。</p>
<h3>律宗の僧</h3>
<p>律宗とは、戒律（修行僧の生活規範を定めるもの）の研究と実践を第一の目的とする、仏教の一宗派です。</p>
<p>鑑真はこの律宗を学び、唐で高名な僧として名を上げました。</p>
<h3>5度の日本への渡航失敗</h3>
<p>仏教が伝来したばかりのころの日本では、自誓授戒（自分で自分に規律を課すこと）が盛んでした。</p>
<p>しかし、奈良時代に入るとこれをないがしろにする人たちが多くなってきます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
今日はこのくらいまで勉強するぞ！と決めたけど、気が乗らないから今日はこの辺まででいいや……というちょっとだらけ気味の人が増えてきたんですね。
</div>
</div></div>
<p>その状況を危惧した人たちは、授戒（10人以上の僧尼の前で儀式を行うこと）の制度化を主張します。</p>
<p>要するに、「自分一人で決めさせるよりもみんなの前で宣言した方がサボらないだろ？」と考えたわけです。</p>
<p>留学僧の栄叡と普照はさっそく唐に渡り、当時戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れ、日本に来て授戒をお願いできないかと頼みました。 </p>
<p>これを快く承諾した鑑真は、弟子に向けて「誰か日本に行きたいやついない？」と聞きますが、誰も行きたがりません。</p>
<p>海を渡ることは命の危険さえあったので、当然と言えば当然です。</p>
<p>そこで鑑真は、「じゃあ俺が行くよ」と自ら日本へ赴くことを決めました。</p>
<p>それを聞いた弟子たち、流石に自分たちが行かないというわけにもいかなくなり、結局21人の弟子たちも随行することになります。</p>
<div class="m50"></div>
<p>しかしその後、<span class="marker">日本への渡海を5回にわたり試みた鑑真一行は、ことごとく失敗に終わりました。</span></p>
<p>1度目は743年。</p>
<p>海を渡ることを嫌がった弟子の1人が、「日本の僧って実は海賊なんですよ！」と嘘をついたため、日本僧は追放され、渡航は一度中止となります。</p>
<p>2度目は翌年744年。</p>
<p>よく準備をして船を出しましたが、途中で激しい暴風に見舞われ、唐へ戻らざるを得なくなりました。</p>
<p>その後、3度目と4度目も、周囲の人間の妨害により失敗に終わってしまいます。</p>
<div class="m50"></div>
<p>そして5度目。</p>
<p>日本へ向けて出発した鑑真一行は、再び激しい暴風に遭い、日本から遠く離れた海南島（中国南部にある島）へ漂着しました。</p>
<p>ここで1年過ごし、医薬の知識などを伝えた彼は、一度唐へ戻ろうとしますが、その途中で<span class="marker">留学僧の栄叡の死、さらに気候や疲労による失明と、数々の不幸に襲われました。</span></p>
<p>両目の光を失いながらも、彼は754年、ついに念願の来日を果たします。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
海を渡るということは、当時それだけ危険が多かったということなのですね。
</div>
</div></div>
<h3>日本への戒律制度の普及</h3>
<p>754年に太宰府に到着した鑑真は、戒壇院で初の授戒を行います。</p>
<p>その翌年には平城京に到着し、戒壇の設立と授戒について全面的に任され、東大寺に住することとなりました。</p>
<p>その後、彼の活躍により日本で戒律制度が急速に整備されていきます。</p>
<p>また、唐招提寺の建立、悲田院（仏教の慈悲思想をもとに、貧しい人や孤児を救うための施設）の創設など、仏教に深く関わる建物を多く生み出し、日本の仏教文化をより強固なものとしました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ちなみに鑑真によって建立された唐招提寺は、1998年にユネスコの世界遺産としても認定されています。
</div>
</div></div>
<h2>鑑真のエピソード・逸話</h2>
<p>鑑真のエピソード・逸話には、以下のようなものがあります。</p>
<h3>日本最古の肖像彫刻になった</h3>
<p>鑑真の死後、その死を惜しんだ弟子の忍基により、本人そっくりの彫像が作られました。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
一度、教科書などで見たことがある人も多いのではないでしょうか。</p>
<p>静かに座禅を組み、失明による影響か瞳を閉じたその姿からは、どこか厳かな雰囲気を感じさせますよね。
</p></div>
</div></div>
<p>これが、日本最古の肖像彫刻となっています。</p>
<p>鑑真は死してなお、その姿と功績を後世に残したのです。</p>
<h3>来日時の年齢は66歳だった</h3>
<p>5度もの失敗を乗り越え日本に辿り着いた鑑真ですが、その時の年齢はなんと66歳。</p>
<p>こんなに高齢にもかかわらず、失明という苦難を乗り越え日本の戒律文化の発展に多大な助力をしてくれた彼は、まさに偉人と呼ぶべき人ですね。</p>
<h2>3行でわかる鑑真のまとめ</h2>
<div class="kaisetsu-box3">
<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>律宗を深く学び、日本の律宗の開祖となった</li>
<li>5度に渡り日本への渡航が失敗し、その途中で失明もしたが、66歳の時に来日して以来は日本の戒律文化に多大なる功績を残した</li>
<li>死後、弟子により彫像が作られ、日本最古の肖像彫刻となった</li>
</ul>
</div>
<p>鑑真が日本へ来たのはあくまでも留学僧からの要請によるものですが、彼の5度に渡ると孝と、その後日本へ与えた大きな影響から考えると、来日は本望だったのかもしれません。</p>
<p>弟子たちが後世にその姿を残そうとしたのも、鑑真の偉大さを潰えさせたくなかったからなのでしょうね。</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>聖武天皇ってどんな人？わかりやすく簡単にまとめてみました</title>
		<link>https://rekishigaiden.com/syomutenno/</link>
					<comments>https://rekishigaiden.com/syomutenno/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[まさむね]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 20 Jun 2019 04:31:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[奈良時代]]></category>
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					<description><![CDATA[聖武天皇ってどんな人なんでしょう？ 名前すら知らないという方もいるかも知れません。 歴史の授業で習ったのを思い出した方もいるでしょう。 でも頭の片隅にかすかに残っているだけで、具体的に何をした人なのか全然わかりませんよね]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>聖武天皇ってどんな人なんでしょう？</p>
<p>名前すら知らないという方もいるかも知れません。</p>
<p>歴史の授業で習ったのを思い出した方もいるでしょう。</p>
<p>でも頭の片隅にかすかに残っているだけで、具体的に何をした人なのか全然わかりませんよね。</p>
<p>今回は<span class="marker">聖武天皇の経歴・偉業</span>について、簡単にわかりやすくご紹介していきますよ。</p>
<h2>聖武天皇のプロフィール</h2>
<div class="simple-box1">
<ul>
<li>聖武天皇（しょうむてんのう）</li>
<li>第45代天皇</li>
<li>名前：首（おびと）</li>
<li>尊号：天璽国押開豊桜彦天皇（あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと）</li>
<li>享年56（701年～756年5月2日）</li>
<li>奈良時代の天皇</li>
</ul>
</div>
<h2>聖武天皇は何した人？</h2>
<p>聖武天皇といえば、やはり<span class="marker">東大寺の大仏</span>です。</p>
<p>10年もの歳月を費やして大仏をつくろうなんて並大抵のことではありません。</p>
<p>その情熱はどこからきたのでしょうか？</p>
<p>そして、もうひとつ忘れてはいけないのは、<span class="marker">墾田永年私財法の施行</span>です。</p>
<p>学校で暗記させられた方もいるでしょう。</p>
<p>この2つは聖武天皇を語るうえで欠かせないものです。</p>
<p>順に紹介していきましょう。</p>
<h3>東大寺の大仏を作った</h3>
<p>聖武天皇は、それ以前の天皇と比べて、非常に熱心に仏教を厚く保護した君主でした。</p>
<p>その理由は頻発する天災。</p>
<p>大地震、干ばつ、飢饉、さらに大地震、おまけに737年には天然痘が全国に広がってしまいます。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
科学的知識など当時はまったくありません。<br />
そんな時代に伝染病なんて、まさにバイオハザードなみの恐怖です。
</div>
</div></div>
<p>庶民だけでなく、貴族も伝染病に斃れていきました。<br />
おまけに人災も加わります。</p>
<p>740年、九州の大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしました。<br />
もう踏んだり蹴ったりです。</p>
<p>そんなときに政治をあずかる天皇はどんな対応を取るべきでしょう？</p>
<p>やはり、祈るしかありません。<br />
仏教に国家を守ってもらおう、そう考えたのです。</p>
<p>仏教にそんな力があるかどうか、それは未来永劫解明できない謎でしょうが、当時はそう信じられていました。</p>
<ul>
<li>741年国分寺建立の詔</li>
<li>743年大仏造立の詔</li>
</ul>
<p>という流れになります。</p>
<p>聖武天皇はこれほど仏教に厚く帰依し、唐の<a href="https://rekishigaiden.com/ganjin/">鑑真</a>から菩薩戒を受け正式に仏弟子、つまり仏教徒になりました。</p>
<p>ひとえに世を平穏に治めるためです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
一方で、ほくそ笑んだのは僧侶階級でしょう。</p>
<p>日本の支配者である天皇ですら受戒を受け仏教徒になるためには、僧侶に跪かなければならないからです。</p>
<p>世の支配者にマウントを取ったのも同然です。</p>
<p>これ以降、僧侶は日本史において重要なプレイヤーとして成長していくことになるのです。
</p></div>
</div></div>
<h3>墾田永年私財法の施行</h3>
<p>名前は知られていてもその内容はまったく分からない、それが墾田永年私財法（こんでんえいねんしざいほう）でしょう。</p>
<p>要は<span class="marker">「自分で耕した田んぼは永遠に自分のものにできるよ」という法律</span>です。</p>
<p>そんだけ？といわれそうですが、実は当時、田んぼは個人の所有地ではありませんでした。<br />
国家のものだったのです。</p>
<p>それが、新たに耕した田んぼは子々孫々その人のものにできるとなれば、農民のテンションは爆上がりでしょう。</p>
<p>どんどん開墾していきたいと思うんじゃないでしょうか。</p>
<div class="concept-box6">
<p>この法律が施行される前は三世一身法（さんぜいっしんのほう）といって、三世（子・孫・ひ孫）まで所有することができたんですが、ということはひ孫の代になったらつぎは国家に取られてしまいます。</p>
<p>農民だってバカじゃありません。</p>
<p>どうせ取られるなら、もうやーめたということで耕作しなくなりますから、田んぼが荒れてしまいます。</p>
<p>結果、租税が減るわけですから損をするのは国家のほうです。</p>
<p>ですから、墾田永年私財法の施行は画期的なことだったのです。</p>
</div>
<p>これ以降、有力者が土地をどんどん所有していく事例が増え、やがては「荘園」が現れてきます。</p>
<p>つまり大土地所有の豪族が登場してくるわけです。</p>
<p>大土地所有の豪族はやがて武士となり、各地の大名として中央の統制から離れていきます。</p>
<p>日本史に与えた影響の大きさから見ても、墾田永年私財法の施行は大きな事件だったことは間違いありません。</p>
<h2>聖武天皇のエピソード・逸話</h2>
<p>聖武天皇のエピソードで有名なものをいくつかご紹介しましょう。</p>
<p>その人となりが少しわかるかもしれません。</p>
<h3>皇后（妻）が叔母さん</h3>
<p>聖武天皇の皇后は光明子（こうみょうし）といって、聖武天皇と同い年です。</p>
<p>ところが、この光明子のお姉さんが聖武天皇の母親、宮子（みやこ）なのです。</p>
<p>つまり、<span class="marker">奥さんは叔母さん</span>なのです。</p>
<p>現代ではちょっと考えられませんが、これは政治的な意味合いが強いのです。</p>
<p>妻の光明子も母の宮子も、どちらも当時の有力者藤原不比等の娘です。</p>
<p>不比等は大化の改新で有名な中臣鎌足の息子ですから、聖武天皇は鎌足のひ孫であり、孫の夫であるわけです。</p>
<div class="balloon-box balloon-right balloon-gray balloon-bg-none clearfix">
<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
<div class="balloon-serif">
<div class="balloon-content">
ややこしいですね。
</div>
</div></div>
<p>不比等は天皇との結びつきを強めるため、自分の娘を利用したのでしょうが、利用されるほうは複雑な心境だったでしょう。</p>
<p>見方を変えれば、娘二人を天皇に嫁がせられるほど、不比等の力が強かったということでしょうか。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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ちなみに不比等には四人息子がいて、武智麻呂（むちまろ）、房前（ふささき）、宇合（うまかい）、麻呂（まろ）といいます。</p>
<p>不比等の死後、四人で政界において大きな実力をもっていましたが、天然痘の流行の際、四人とも亡くなっています。
</p></div>
</div></div>
<h3>相次いだ遷都</h3>
<p>聖武天皇は<span class="marker">何度も都を遷した</span>ことでも知られています。</p>
<p>740年藤原広嗣の乱以後、恭仁（くに）京｛京都市木津川市｝、難波京｛大阪市｝、紫香楽（しがらき）京｛滋賀県甲賀市｝、そして746年に平城京に戻っています。</p>
<p>家やアパートの引っ越しでも大変なのに、ましてや都を遷すとなると大ごとです。</p>
<p>膨大な労力と莫大な費用がかかるはずです。</p>
<p>にもかかわらず、これほど何度も遷都するというのはなぜなのでしょうか？</p>
<p>正確な理由は今も不明です。</p>
<p>天皇が正常な判断ができない状態だったのではないか、との説もあるそうです。</p>
<p>たしかに、あいつぐ天災と伝染病そして反乱と、かなり人心が動揺していたのは確かでしょう。</p>
<p>一種の集団ヒステリー状態だったのかもしれません。</p>
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<div class="balloon-icon maru"><img loading="lazy" src="https://rekishigaiden.com/wp-content/uploads/2019/06/masamune_icon.jpg" alt="まさむね" width="80" height="80"></div>
<div class="icon-name">まさむね</div>
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この遷都の件といい、大仏造立といい、聖武天皇の治世はずいぶん出費もかさんだことでしょうね。
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<h2>4行でわかる聖武天皇のまとめ</h2>
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<div class="kaisetsu-box3-title">まとめ</div>
<ul>
<li>第45代天皇。</li>
<li>東大寺の大仏を作り、墾田永年私財法を施行した。</li>
<li>奥さんが叔母さんだった。</li>
<li>何度も都を遷した。</li>
</ul>
</div>
<p>日本史において重要なターニングポイントにいる人物である聖武天皇。</p>
<p>こんな重要人物だったかと驚かれた方もいるのではないでしょうか。</p>
<p>後世への影響は非常に大きなものがありますね。</p>
<p>大仏造立と墾田永年私財法、この2つがポイントですね。</p>
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