聖武天皇ってどんな人なんでしょう?
名前すら知らないという方もいるかも知れません。
歴史の授業で習ったのを思い出した方もいるでしょう。
でも頭の片隅にかすかに残っているだけで、具体的に何をした人なのか全然わかりませんよね。
今回は聖武天皇の経歴・偉業について、簡単にわかりやすくご紹介していきますよ。
目次
聖武天皇のプロフィール
- 聖武天皇(しょうむてんのう)
- 第45代天皇
- 名前:首(おびと)
- 尊号:天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
- 享年56(701年~756年5月2日)
- 奈良時代の天皇
聖武天皇は何した人?
聖武天皇といえば、やはり東大寺の大仏です。
10年もの歳月を費やして大仏をつくろうなんて並大抵のことではありません。
その情熱はどこからきたのでしょうか?
そして、もうひとつ忘れてはいけないのは、墾田永年私財法の施行です。
学校で暗記させられた方もいるでしょう。
この2つは聖武天皇を語るうえで欠かせないものです。
順に紹介していきましょう。
東大寺の大仏を作った
聖武天皇は、それ以前の天皇と比べて、非常に熱心に仏教を厚く保護した君主でした。
その理由は頻発する天災。
大地震、干ばつ、飢饉、さらに大地震、おまけに737年には天然痘が全国に広がってしまいます。
そんな時代に伝染病なんて、まさにバイオハザードなみの恐怖です。
庶民だけでなく、貴族も伝染病に斃れていきました。
おまけに人災も加わります。
740年、九州の大宰府で藤原広嗣が反乱を起こしました。
もう踏んだり蹴ったりです。
そんなときに政治をあずかる天皇はどんな対応を取るべきでしょう?
やはり、祈るしかありません。
仏教に国家を守ってもらおう、そう考えたのです。
仏教にそんな力があるかどうか、それは未来永劫解明できない謎でしょうが、当時はそう信じられていました。
- 741年国分寺建立の詔
- 743年大仏造立の詔
という流れになります。
聖武天皇はこれほど仏教に厚く帰依し、唐の鑑真から菩薩戒を受け正式に仏弟子、つまり仏教徒になりました。
ひとえに世を平穏に治めるためです。
日本の支配者である天皇ですら受戒を受け仏教徒になるためには、僧侶に跪かなければならないからです。
世の支配者にマウントを取ったのも同然です。
これ以降、僧侶は日本史において重要なプレイヤーとして成長していくことになるのです。
墾田永年私財法の施行
名前は知られていてもその内容はまったく分からない、それが墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)でしょう。
要は「自分で耕した田んぼは永遠に自分のものにできるよ」という法律です。
そんだけ?といわれそうですが、実は当時、田んぼは個人の所有地ではありませんでした。
国家のものだったのです。
それが、新たに耕した田んぼは子々孫々その人のものにできるとなれば、農民のテンションは爆上がりでしょう。
どんどん開墾していきたいと思うんじゃないでしょうか。
この法律が施行される前は三世一身法(さんぜいっしんのほう)といって、三世(子・孫・ひ孫)まで所有することができたんですが、ということはひ孫の代になったらつぎは国家に取られてしまいます。
農民だってバカじゃありません。
どうせ取られるなら、もうやーめたということで耕作しなくなりますから、田んぼが荒れてしまいます。
結果、租税が減るわけですから損をするのは国家のほうです。
ですから、墾田永年私財法の施行は画期的なことだったのです。
これ以降、有力者が土地をどんどん所有していく事例が増え、やがては「荘園」が現れてきます。
つまり大土地所有の豪族が登場してくるわけです。
大土地所有の豪族はやがて武士となり、各地の大名として中央の統制から離れていきます。
日本史に与えた影響の大きさから見ても、墾田永年私財法の施行は大きな事件だったことは間違いありません。
聖武天皇のエピソード・逸話
聖武天皇のエピソードで有名なものをいくつかご紹介しましょう。
その人となりが少しわかるかもしれません。
皇后(妻)が叔母さん
聖武天皇の皇后は光明子(こうみょうし)といって、聖武天皇と同い年です。
ところが、この光明子のお姉さんが聖武天皇の母親、宮子(みやこ)なのです。
つまり、奥さんは叔母さんなのです。
現代ではちょっと考えられませんが、これは政治的な意味合いが強いのです。
妻の光明子も母の宮子も、どちらも当時の有力者藤原不比等の娘です。
不比等は大化の改新で有名な中臣鎌足の息子ですから、聖武天皇は鎌足のひ孫であり、孫の夫であるわけです。
不比等は天皇との結びつきを強めるため、自分の娘を利用したのでしょうが、利用されるほうは複雑な心境だったでしょう。
見方を変えれば、娘二人を天皇に嫁がせられるほど、不比等の力が強かったということでしょうか。
不比等の死後、四人で政界において大きな実力をもっていましたが、天然痘の流行の際、四人とも亡くなっています。
相次いだ遷都
聖武天皇は何度も都を遷したことでも知られています。
740年藤原広嗣の乱以後、恭仁(くに)京{京都市木津川市}、難波京{大阪市}、紫香楽(しがらき)京{滋賀県甲賀市}、そして746年に平城京に戻っています。
家やアパートの引っ越しでも大変なのに、ましてや都を遷すとなると大ごとです。
膨大な労力と莫大な費用がかかるはずです。
にもかかわらず、これほど何度も遷都するというのはなぜなのでしょうか?
正確な理由は今も不明です。
天皇が正常な判断ができない状態だったのではないか、との説もあるそうです。
たしかに、あいつぐ天災と伝染病そして反乱と、かなり人心が動揺していたのは確かでしょう。
一種の集団ヒステリー状態だったのかもしれません。
4行でわかる聖武天皇のまとめ
- 第45代天皇。
- 東大寺の大仏を作り、墾田永年私財法を施行した。
- 奥さんが叔母さんだった。
- 何度も都を遷した。
日本史において重要なターニングポイントにいる人物である聖武天皇。
こんな重要人物だったかと驚かれた方もいるのではないでしょうか。
後世への影響は非常に大きなものがありますね。
大仏造立と墾田永年私財法、この2つがポイントですね。
ありがとうございます!
このサイトめっちゃ役に立ちました
聖武天皇は、少し…(少しどころじゃないと思うけど…)
金遣いが荒く、5年のうちに4回も遷都したりと、
嫌われもののようですよ…
すごい分かりやすい、、、、感動
学校の勉強に使っております…!