奈良時代

【光仁天皇がしたことまとめ】行った政策や桓武天皇・道鏡との関係は?

光仁天皇

光仁天皇は奈良時代末期の天皇ですが、教科書などで大きく取り上げられることがなく、道鏡との関係で知られる称徳天皇と平安京に遷都した桓武天皇の間に挟まれた影の薄い存在で、あまりよく知られていません。

この記事では光仁天皇についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

光仁天皇のプロフィール

  • 光仁天皇(こうにんてんのう)
  • 諱:白壁(しらかべ)
  • 父:施基親王(天智天皇の第7皇子)
  • 母:紀橡姫(紀諸人の娘)
  • 享年73(709年10月13日~781年12月23日)
  • 第49代天皇(在位:770年10月1日~ 781年4月3日)

光仁天皇は何した人?

奈良時代末期、光仁天皇は仏教勢力によって乱れていた政治と国家財政の再建に尽力しました。

光仁天皇の生い立ち

709年、光仁天皇は施基親王(志貴皇子)の第6皇子として生まれ、「白壁王」と呼ばれていました。

父・施基親王は天智天皇の第7皇子でしたが、壬申の乱以降、皇統は天智天皇の弟・天武天皇の系統で引き継がれていたため、天智天皇の孫である白壁王は皇位継承とは無縁の存在でした。

そのため、716年に父・施基親王が亡くなって後ろ盾を失うと、737年に29歳で従四位下に叙せられるまで叙位(五位以上の位階を進授する行事)されませんでした。

井上内親王と結婚

749年、聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると、白壁王は孝謙天皇の異母姉・井上内親王(聖武天皇の第1皇女)と結婚しました。

白壁王が井上内親王と結婚した年は不明ですが、754年には長女・酒人女王(さかひとないしんのう)が誕生していることから、753年以前だとされています。

皇位継承をめぐる抗争によって多くの皇族が粛清されていくなか、酒におぼれる振りをして争いに巻き込まれることを避けていた白壁王は昇進し続け、766年には大納言に就任しました。

最高齢で即位

770年、称徳天皇が崩御すると、白壁王の周辺は一気に緊迫します。

未婚だった称徳天皇には子どもがなかったので、次期天皇についての協議が左大臣・藤原永手(ふじわらのながて)や右大臣・吉備真備(きびのまきび)らによって行われました。

この頃、生存している天皇の皇子は一人もいませんでしたが、天皇の孫は白壁王の他に、臣籍降下していた文室浄三(ふんやのきよみ)と弟・文室大市(ふんやのおおいち)の二人がいました。

この協議で、真備は浄三を推し、浄三が78歳という高齢を理由に辞退すると、その弟・大市を推挙しましたが、白壁王を推す永手は奏上の直前に推挙文の名前の部分を白壁王にすり替えるという暴挙に出て、強引に白壁王を次期天皇にしてしまいました。

永手が白壁王を推した理由は、白壁王と井上内親王の間には他戸親王(おさべしんのう)が生まれており、天智天皇系と天武天皇系の両方の血を引く他戸親王を次の天皇にするため、父・白壁王を天皇にしたと考えられています。

白壁王は62歳で即位し、元号は宝亀と改められました。

62歳での即位は、実在が確実とされる継体天皇(第26代天皇)以降、今上天皇に至るまで含めて最高齢とされています。

井上内親王事件

即位後、光仁天皇は井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に定めましたが、771年に光仁天皇の即位と他戸親王の立太子に尽力した永手が急死してしまいます。

北家の永手に代わって実権を握った式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)は、北家が擁立した他戸親王が即位することを嫌い、772年に皇后・井上内親王に光仁天皇を呪詛したという無実の罪を押し付けて廃后し、他戸親王も廃太子にしました。

この後、式家が擁立する山部親王(後の桓武天皇)が皇太子に立てられたことで、天武天皇系の血筋は途切れ、皇統は天智天皇系へ移ります。

光仁天皇の政治と最期

奈良時代は鎮護国家思想(仏教によって国を守り安泰にすること)が広まり、天武天皇系の天皇が仏教に没頭した結果、仏教勢力が権力を持つようになり、道鏡(どうきょう)のように天皇の地位を狙う者まで現れていました。

そのため、光仁天皇は称徳天皇のもとで実権を握っていた道鏡を下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷し、宇佐八幡宮神託事件で大隅国(鹿児島県)に流罪となっていた和気清麻呂(わけのきよまろ)を召還します。

そして、道鏡が765年に出した、寺院以外は新たに土地を開墾して私有化してはいけないとする「寺院以外の加墾禁止令」を772年に撤廃するなど、仏教に偏っていた政治を改めました。

さらに、身分の序列や等級によって開墾を制限するという制度も廃止します。

この他にも、不必要な令外官(律令に記されていない官職)を廃止して財政を緊縮し、虚弱な兵士に代えて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとりました。

光仁天皇は70歳を過ぎても政務に励んでいましたが、781年に能登内親王(光仁天皇の第1皇女)を亡くしてから心身ともに衰え始めたため、病気を理由に山部親王に譲位します。

その8ヶ月後の781年12月23日、光仁天皇は73歳で崩御しました。

光仁天皇のエピソード・逸話

『水鏡』に記された「井上内親王事件」

『水鏡』(鎌倉時代初期に成立したとされる歴史物語)によると、光仁天皇が井上内親王に博打をしようと持ちかけ、「私が負けたら、そなたに若くて逞しい男を紹介しよう。そなたが負けたら、絶世の美女を紹介してくれぬか?」と言ったとされています。

その結果、光仁天皇が負けてしまったため、井上内親王は「いつになったら、男を紹介してくれるのですか?」と冗談半分に責めました。

その話を聞いた藤原百川(ふじわらのももかわ)が山部親王を勧めたので、光仁天皇は山部親王に井上内親王のもとへ行くように命じます。

山部親王はこれを拒否しましたが、光仁天皇が早く行くように責め立てたので、仕方なく井上内親王のもとへ行きました。

山部親王を殺害しようと考えた井上内親王は、いつも山部親王を呼んで相手をさせ、それを見せつけるようになります。

光仁天皇がこれを恥じて恨んでいることを察した百川は、井上内親王が井戸に呪いを入れて光仁天皇を殺し、他戸親王を即位させようとしているとして、井上内親王に仕えていた者を殺害しました。

激怒した井上内親王に対し、百川は「后をしばらく縫殿寮(ぬいどのりょう)に押し込めて反省してもらいましょう。」と言い、皇后の位を奪います。

井上内親王はその後も巫女を呼び集めて光仁天皇を呪詛していたため、百川は巫女の親に自白を迫りました。

すると、「帝に危害を加えようした罪は逃れることができません。后は私たちを召し、多くの贈物を下さったので、どうしようと思っていましたが、ただ帝のために寺で読経し、悪い心を起こさないように願って下さいと言われました。」と答えたので、光仁天皇は涙を流しながら、「私は后を少しも嫌いではないのに何故こんなことになるのだ。どうしたらいいのか。」と言いました。

そして、百川から処罰するように求められたため、井上内親王の御封などを没収しましたが、その後も井上内親王は光仁天皇の悪口を言い続けていました。

そのため、百川は「東宮もしばらくの間退けて、心が鎮まるのを待ちましょう。」と言い、光仁天皇がこれを許可すると、偽りの宣命を作成して発表します。

この宣命は皇后と皇太子を解任して追放するというものだったので、驚いた光仁天皇は百川を呼び、「后が懲りないから、しばらくの間、東宮を退けよと申したのに、どうしてこういうことになったのだ。」と言いました。

すると、百川は「退けよとは、永遠に退けよということと同じです。母に罪があれば、子も然りです。」と返答します。

すべては自分のためだと言われ、それ以上の追求をすることができなかった光仁天皇は、とても悲しむことになったとされています。

まさむね
まさむね
このことから、井上内親王事件は百川の策略であったことが分かります。

井上内親王の怨霊

光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃された井上内親王は、さらに光仁天皇の姉・難波内親王を呪詛して殺害したという嫌疑がかけられ、他戸親王とともに身分を庶民に落とされました。

そして、大和国(奈良県)にある没官の邸宅に幽閉され、775年に他戸親王と同じ日に亡くなりました。

まさむね
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二人の死因は分かっていませんが、親子が同じ日に死亡することは不自然なため、自殺か他殺と考えられています。

井上内親王が非業の死を遂げてから4ヶ月後、伊勢国(三重県)・尾張国(愛知県)・美濃国(岐阜県)が暴風雨に襲われ、かつて井上内親王が斎王として仕えていた伊勢神宮にも大きな被害が出ました。

このような場合、通常なら伊勢国司が修繕費用を負担しますが、このときは被害が大きかったため、朝廷から修理使が派遣されています。

しかし、『帝王編年記』によると、このとき井上内親王が竜に化けて暴れ回ったとされているので、井上内親王の怨霊を鎮めるために朝廷が使者を送ったとも考えられています。

祟りを恐れた光仁天皇は秋篠寺の建立を命じましたが、その後も災害が続き、777年には光仁天皇が病に伏し、山部親王も大病を患ってしまいました。

これは井上内親王の怨霊による祟りだと恐れられるようになったため、井上内親王の遺骨を改葬して、その墓を御墓とします。

しかし、その後も天皇家と藤原家には不幸が続いたので、800年に桓武天皇は井上内親王を皇后に復して名誉を回復し、その墓を山陵としました。

まさむね
まさむね
桓武天皇を悩ませた井上内親王は奈良県五條市の御霊神社をはじめ、各地にある御霊神社に他戸親王とともに祀られています。

光仁天皇のまとめ

まとめ
  • 709年:施基親王(志貴皇子)の第6皇子として生まれる
  • 770年:62歳で第49代天皇に即位する
  • 772年:井上内親王を廃后し、他戸親王を廃太子にする
  • 773年:山部親王を皇太子に立てる
  • 781年:山部親王に譲位した後、73歳で崩御する

最高齢で即位した光仁天皇は、約10年の在位中に崩壊の危機に直面していた律令体制を再建するために尽力しました。

しかし、そのほとんどが桓武天皇のもとで完成されているため、評価されることは少ないですが、平安時代の基礎を築くという大きな功績を残しています。

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