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平安時代

【桓武天皇がやったことまとめ】政策や遷都などを簡単に

桓武天皇

桓武天皇(かんむてんのう)といえば、長岡京と平安京に遷都したことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

平安時代の幕を開いた桓武天皇は、遷都の他にも3度にわたる蝦夷征討をするなど積極的に政治を行っており、その剛腕ぶりは歴代天皇のなかでも際立っています。

この記事では桓武天皇についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

桓武天皇のプロフィール

  • 桓武天皇(かんむてんのう)
  • 諱:山部(やまのべ)
  • 父:光仁天皇(第49代天皇)
  • 母:高野新笠
  • 享年70(737年~806年3月17日)
  • 第50代天皇(在位:781年4月3日~806年3月17日)

桓武天皇は何した人?

桓武天皇は本来なら天皇になるはずではなかった人物でした。

それなのに、なぜ即位して天皇となり、さまざまな改革を行うことができたのでしょうか。

誕生と即位まで

737年、桓武天皇は白壁王(後の光仁天皇)の第1皇子として生まれました。

第1皇子として生まれたものの、母・高野新笠(たかののにいがさ)が百済系渡来人和氏の出身だったことと、当時の皇統が天智天皇の弟・天武天皇の系統で引き継がれていたことから、出自が低くて天智天皇の血を引く桓武天皇は、多くの皇位継承候補の一人に過ぎませんでした。

そのため、桓武天皇は皇族としてではなく官僚としての出世を目指していましたが、後継者がいなかった称徳天皇(第48代天皇)が崩御した後、父・白壁王が光仁天皇として即位したことで、皇位を継承できる可能性が見えてきます。

その後、皇位継承をめぐる争いのなかで台頭していった桓武天皇は、藤原百川(ふじわらのももかわ)による策略によって当時皇太子だった異母弟・他戸(おさべ)親王が失脚したため、773年に皇太子となり、781年に45歳で即位しました。

長岡京遷都

当時、平城京では有力貴族による激しい権力争いが繰り返されており、天智天皇系の桓武天皇が即位したことに不満を持つ者が多く、その政権基盤は脆弱なものでした。

また、僧侶たちが政治権力を持ち始め、道鏡(どうきょう)のように天皇の地位を狙う者まで現れるなど、仏教勢力も桓武天皇を悩ませていました。

さらに、平城京そのものも問題を抱えていました。

大きな川から離れている平城京では効率的に荷物を運ぶことができず、小さな川しか流れていないことで常に水が不足し、捨てられた生活排水や汚物が溝に溜まって衛生状態も最悪なものとなっていたのです。

そのため、桓武天皇は反対勢力に囲まれ、問題を抱えている平城京から都を別の土地に遷すことを決意します。

候補地を探すなか、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が平城京の北40㎞に位置し、近くに大きな川が流れている山背国(京都府)長岡が新たな都に相応しいと奏上したことから、784年に長岡京へ遷都します。

そして、政治と結びつきの弱い新たな仏教を取り入れるため、最澄を還学生(短期留学生)として唐に派遣しました。

桓武天皇は長岡京に仏教寺院の建立や移転を認めないことで、仏教勢力を政治から排除し、藤原種継とその一族を重用する一方で、反対勢力を政治の中枢から遠ざけることで、天皇としての地位と政権基盤を強固なものにしていきました。

しかし785年、長岡京造営の責任者になっていた藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良(さわら)親王(光仁天皇の第2皇子)がこの事件に関わっていたことが明らかになります。

桓武天皇は早良親王を幽閉して淡路国(兵庫県淡路島)へ流罪にしましたが、無実を訴えるために絶食した早良親王は、その道中で亡くなってしまいました。

その後、飢饉や疫病によって多くの人が亡くなり、桓武天皇の母や皇后までも亡くなった原因が早良親王の祟りによるものだという占いの結果を受けた桓武天皇は、早良親王の御霊を鎮めるための儀式を行います。

しかし、その2ヶ月後に大雨によって長岡京に流れる川が氾濫し、多くの被害が出てしまいました。

平安京遷都

次から次へと災害が起こり、人々の不満が高まっていくなか、それが天皇の徳のない証拠であり、天子の資格がないと判断されることを恐れた桓武天皇は、2度目の遷都を決断します。

そして、長岡京の北東10㎞に位置し、2つの川に挟まれた山背国葛野(京都府京都市)に新たな都を築くことにし、この都に「平安楽土」になるようにと願いを込めて、平安京と名付け、794年に遷都しました。

勘解由使設置

桓武天皇は崩壊の危機に直面していた律令体制を再建するため、新しい官職である令外官(律令に記されていない官職)を設置します。

令外官の一つである勘解由使(かげゆし)は、国司交替の際に立ち会って不正を防止することを職務とするもので、後任者が前任者に与える解由状(事務引き継ぎ完了を示す文書)を検査して、不正をしていないか確かめさせました。

蝦夷征討

当時、律令体制は地方で大きく揺らいでいましたが、それが最も酷かったのは東北地方でした。

780年、帰属した蝦夷の豪族・伊治呰麻呂(これはり/これはるのあざまろ)が反乱を起こして、伊治城や多賀城を襲撃したことをきっかけに、東北地方で蝦夷の反乱が相次いで起こります。

そのため789年、紀古佐美(きのこさみ)を征夷大使、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷副使とする軍勢が蝦夷征討に向かいましたが、蝦夷の軍事指導者・アテルイに打ち破られて失敗に終わりました。

794年、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使、坂上田村麻呂を征夷副使とする大軍を送り、成果を挙げることができました。

797年、桓武天皇は蝦夷討伐のために設けられた令外官である征夷大将軍に坂上田村麻呂を任じます。

そして801年、坂上田村麻呂を征夷大将軍として送り、蝦夷を討伏しました。

その後、4802年に胆沢城を設置して鎮守府を多賀城から移し、803年に志波城を設置したことで、北上川の北部にまで律令制の支配を及ぼすことが可能となりました。

桓武天皇は引き続き征討計画を立てましたが、平安京の造営と東北への軍事遠征が財政を圧迫し、国民に大きな負担をかけているという藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の建言を受け容れ、805年に蝦夷征討と平安京造営という二大事業を打ち切ることを決定します。

その4か月後、806年3月17日に桓武天皇は70歳で崩御しました。

桓武天皇のエピソード・逸話

へそ石

京都市の中京区に建つ六角堂の境内には、へそ石と呼ばれる六角形の石があります。

この六角堂は平安京を造営する際に、東西に走る予定の道にあたってしまいました。

そのため、六角堂を壊すことも考えられましたが、聖徳太子が建立した寺だったため、何とか壊さずにしたいと思った桓武天皇は、使者を送って南北どちらかに移動するように祈願したところ、周りに黒雲がたちこめて北に15メートル移動し、礎石だけが元の位置に取り残されてしまいました。

これ以後、礎石は明治時代頃まで六角堂の前の通りにありましたが、道の妨げとなることから境内の中へと移され、そこが京都の中心にあたることから「へそ石」と呼ばれています。

彼岸会の始まり

桓武天皇の実の弟である早良親王は11歳の頃に出家し、親王禅師と呼ばれていましたが、桓武天皇が45歳という高齢で即位したため、還俗して皇太子となりました。

しかし785年、藤原種継暗殺事件に関与していたとされた早良親王は、皇太子を廃されて流罪となりましたが、その道中で亡くなってしまいます。

その後、桓武天皇の身内が相次いで亡くなり、長岡京で疫病や水害が起こった原因が早良親王の祟りだとされた桓武天皇は鎮魂の儀式を執り行い、800年に追号という形で早良親王に崇道天皇の名を送り、早良親王が天皇に即位したということにしました。

しかし、怨霊への恐れがおさまらなかった桓武天皇は早良親王の遺骸を大和国(奈良県)に移葬し、806年に平城天皇が崇道天皇社を創建しました。

そして、早良親王ために諸国の国分寺の僧に命じ、7日間金剛般若経を読んだことが、日本で初めての彼岸会とされています。

桓武天皇のまとめ

まとめ
  • 737年、光仁天皇の第1皇子として生まれる
  • 781年、45歳で第50代天皇に即位する
  • 784年、長岡京に遷都する
  • 789年、第1次蝦夷征討を行うが敗北する
  • 794年、平安京に遷都し、第2次蝦夷征討を行う
  • 801年、第3次蝦夷征討を行う
  • 806年、70歳で崩御する

桓武天皇は2度の遷都と3度にわたる蝦夷征討を行ったことで、国民に多くの負担を強いてしまいましたが、『日本後記』には、その事業は「当年の費えといえども、後世の頼り」と記されています。

つまり、その時代では出費であっても、後の時代に頼りにすることができるものと評価されているのです。

千年の都の原点となった平安京は全国から人や物資が集まり、日本の中心として栄えていきました。

その後、平安京ではさまざまな芸術や文化が育まれましたが、その技術や精神は現在に至るまで引き継がれています。

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