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飛鳥時代

天武天皇ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

天武天皇

飛鳥時代の女帝、持統天皇の夫である天武天皇。

この記事では、天武天皇はどんな人物なのか、エピソードや逸話を交えてご紹介します。

天武天皇のプロフィール

天武天皇は、父は舒明天皇、母は斉明天皇の次男として生まれました。
名前は大海人皇子(おおあまのみこ)と言います。

持統天皇の叔父であり、夫ですが生まれ年などはいっさい不明で謎に包まれている人物です。

一般には、天智天皇(中大兄皇子)の弟になり、皇太弟(こうたいてい)として政治を補佐したことになっていますが、「日本書記」には天武天皇の生年を詳しく示したことは書いてはなく、実際は兄弟ではなかったのではないかと言われています。

まさむね
まさむね
「日本書記」はそもそも、天武天皇が命じて書かせた書物なのになんで自分の正確な生年を書かせなかったのでしょうか。

たぶん、はっきりとした生年を書くことに何か不都合があったのかも知れません。

天智11年(672年)、壬申の乱が起きます。

天武2年(673年)、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇になりました。

天武4年(675年)、日本で初めての占星台(天文台)を建てたほかに五節の舞などの民間習俗を国家的祭祀に取り入れました。

まさむね
まさむね
五節の舞というと、源氏物語にも出てきます。

光源氏の息子のお嫁さんとして出てきますが、五節の舞は天武天皇の時から行っていた習俗だったのですね。

天武15年(686年)5月、天武天皇は病気になり倒れました。

人々は、神仏に祈り快癒を願いましたが効果はなく、9月に崩御しました。

このように、天武天皇の生涯は端的で多くの事は謎の天皇です。

天武天皇は何をした人?

壬申の乱

天武天皇がしたことで最大の有名なことは、大海人皇子の時に起こった「壬申の乱」です。

この乱は、兄、天智天皇が崩御後、大海人皇子(天武天皇)は吉野で出家していました。

そこへ、天智11年(672年)5月、家来の朴井雄君(えのいのおきみ)が「近江朝が天智天皇のお墓を作る名目で人夫を集め、彼らに武器を持たせている」といい、また「近江から吉野まで監視人を置いて、家来たちが吉野への食糧を運ぶのを妨害している」という報告も聞き、大海人皇子は、挙兵を決意しました。

壬申の乱は、大海人皇子軍が戦いを優位にすすめて、7月22日、瀬田で最後の決戦が行われ、近江朝廷軍は後退し朝廷軍のトップの大友皇子が自害して終わりました。

大友皇子は、天智天皇の息子ですが、母親の身分が低いのにもかかわらず天皇の位についていました。

この戦いは、大海人皇子が即位するためには、しないといけない戦でしたが大友皇子は、大海人皇子の娘、十市皇女の夫でもあります。

これによって十市皇女は微妙な立場に置かれてしまいます。

律令国家の建設

天武天皇は即位をした後、律令国家の建設にむけて邁進します。

天武天皇が行ったことは、

  • 暦の制定・・・時や暦の編纂を担当する陰陽寮を設置しました。
  • 天皇号の制定・・・それまでの大王から天皇に号を改めました。
  • 正史の編纂に着手・・・皇族や臣下に正史の編纂を命じました。
  • 神祇制度の整備・・・日本古来の神を重んじて神祇信仰を復興させました。
  • 飛鳥浄御原令の編纂・・・唐の政治制度にならった新たな法律の制度にとりかかりました。
  • 宮城の設定と設計・・・新都造営の構想を練りました。
  • 八色の姓の制定・・・真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8つの姓を定めました。
  • 国家仏教の確立・・・仏教を手厚く保護しました。
  • 三種の神器の制定・・・八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を「三種の神器」として制度化しました。
  • 践祚大嘗祭の制定・・・天皇の威厳を高めるため、即位の儀式を「大嘗祭」として制度化しました。

以上、10のことをしましたが、特に三種の神器や大嘗祭は今でも行われていて、なんと1300年以上も天皇家に受け継がれています。

天武天皇のエピソード・逸話

天武天皇は、後継者問題にずっと頭を悩ませていました。

「自分に万が一のことがあれば、また壬申の乱のような大乱が起こりかねない」と悩んでいました。

そこで天武8年(679年)、吉野に行幸した天武天皇は皇后と草壁・大津・高市・川島・忍壁(おさかべ)・志貴(しき)の息子たち6皇子に互いに争わないことを誓わせました。(吉野の盟約)

まさむね
まさむね
この息子たちというより天武天皇は皇后の讃良皇女(持統天皇)のことが心配だったのかもしれません。

現に天武天皇が亡くなってすぐに讃良皇女(持統天皇)は大津皇子を処刑しましたから。

また、天武天皇のエピソードとしては、動物愛護にものすごく積極的で狩猟や漁猟を制限し、一部の動物の肉食を禁じました。

これがきっかけで「肉食=悪しきもの」というイメージがつき、肉食文化は明治期まで停滞しました。

天武天皇のまとめ

まとめ
  • 天武天皇は、父は舒明天皇、母は斉明天皇の次男として生まれた。名前は大海人皇子(おおあまのみこ)と言う。持統天皇の叔父であり、夫ですが生まれ年などはいっさい不明で謎に包まれている。
  • 天智11年(672年)、壬申の乱がおきる。
  • 天武2年(673年)、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇になる。
  • 天武4年(675年)、日本で初めての占星台(天文台)を建てたほかに五節の舞などの民間習俗を国家的祭祀に取り入れた。
  • 天武15年(686年)5月、天武天皇は病気になり倒れました。人々は、神仏に祈り快癒を願いましたが効果はなく、9月に崩御。

天武天皇と持統天皇は同じお墓に葬られ、持統天皇の病気平癒として天智天皇は薬師寺を建てるなどをしたことで夫婦仲は良かったと言われていますが、しかし、後世の資料によって作られたという説もあります。

天武天皇は持統天皇の事を妻としてより政治のパートナーとしてみていたのかもしれません。

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