飛鳥時代

大津皇子はどんな人?万葉集の歌から紐解く石川郎女との関係

大津皇子

持統天皇に暗殺された悲劇の皇子、大津皇子。

なぜ、大津皇子は殺されなくてはいけなかったのでしょうか?

そもそも大津皇子って誰?という方もいるでしょう。

そこでこの記事では大津皇子を取り上げてみました。

陰謀うずまく飛鳥時代の悲劇の皇子の人生を紐解いていきます。

大津皇子のプロフィール

大津皇子(おおつのみこ)は、天智2年(663年)に、父、天武天皇(大海人皇子)、母、持統天皇(讃良皇女)の姉、大田皇女の長男として生まれました。

持統天皇の息子、草壁皇子の1歳下になります。

2歳年上に姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)がいますが、天智6年(667年)、大津が4歳の時に母の大田皇女が亡くなります。

この母、大田皇女の早すぎる死が後々、大津皇子に影響を与えることになります。

天武10年(681年)頃、山辺皇女(やまべのひめみこ)と結婚します。

山辺皇女は、父は天智天皇、母は蘇我赤兄の娘、常陸娘です。

まさむね
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難しい話になりますが、大津皇子は叔母さんにあたる人と結婚したのですね。

古代は本当に血族結婚が多いです。

この結婚に対し、持統天皇はあまりいい顔をしませんでした。

なぜかというと、山辺皇女の母が蘇我赤兄の娘で、蘇我赤兄は持統天皇の初恋の人、有間皇子(ありまのみこ)の暗殺を企てた、張本人だったからです。

まさむね
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飛鳥時代はサスペンスドラマのような話がゴロゴロしていますね。

天武14年(685年)、大津皇子に浄大弐が授けられます。

朱鳥元年(686年)10月2日、川島皇子の密告で大津皇子の他30人余りが逮捕されます。

有名な大津皇子の変と言われる事件ですが、この事件は、大津皇子が処刑された後、大半が赦免されていることから大津皇子のことが邪魔になった持統天皇のでっちあげと最近では言われています。

まさむね
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自分の子供可愛さに血のつながった甥を消してしまうとは持統天皇はすぐれた政治家でしたが母親の気持ちも強い人だったのですね。

10月3日には早くも大津皇子は、磐余・訳後田(おさだ)の家で死を賜りました。

才気はふれる大津皇子は、ここで24歳という若さで亡くなりました。

大津皇子は、奈良県葛城市の二上山に葬られました。

大津皇子は、何をした人?

大津皇子は、いったい何をした人だったのでしょう。

大津皇子の功績は、日本書記などの文献には書かれていませんが、8世紀半ばに作られた漢詩集「懐風藻」には、「大津皇子の容姿は大きく立派で度量が広く文武両道に秀で、小さなことにこだわらず礼節をもって人に接したため多くの者に慕われた」と書かれています。

これが本当なら大津皇子は王者の風格をもった人だったのでしょう。

天武天皇もそれがわかっていたから持統天皇が産んだ草壁皇子を皇太子にしていましたが、大津皇子も政治に参加させていました。

このことも持統天皇の癪にさわっていたのでしょう。

大津皇子の変が起きるのは、時間の問題だったのだと思います。

まさむね
まさむね
飛鳥時代は本当にサスペンスドラマが作れるほどの陰謀が絡み合っています。

万葉集から見る大津皇子のエピソード

大津皇子と草壁皇子は、一人の女性を巡って恋のさや当てをしたと万葉集は言っています。

相手の女性は、石川郎女(いしかわのいらつめ)です。

彼女のことは謎に包まれていますが、どうやら蘇我一族だったようです。

ここで、大津皇子・石川郎女・草壁皇子との間に交わされた万葉集をご紹介します。

【大津皇子の、石川郎女に送りし御歌一首】

あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに
(山のしずくに、あなたを待ち続けて、立ち濡れてしまいました、山のしずくに)

【石川郎女の返歌一首】

我を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
(私を待ってあなたが濡れたという、山のしずくに、私はなりたかった)

【大津皇子が密かに石川郎女と男女の関係になったときに、津守連道がその事実を占いにより、露見したときに大津皇子がお作りになった歌一首(事情ははっきりしていない)】

大船の 津守が占に 告(の)らむとは  まさしく知りて 我が二人寝し
(津守の占いで、知られてしまうなど、承知の上で私たちは、二人寝をしたのだ)

【日並皇子尊(ひなしめのみこみこと・草壁皇子)の、石川郎女に贈り賜いし御歌一首】

大名児を 彼方野辺(をちかたのへ)に 刈る草の 束の間も われ忘れめや
(大名児を、向こうの野原に刈る草の、一束の間も、私は忘れることができるのだろうか)

順に追っていくと、石川郎女は大津皇子と逢瀬を重ね、やがて露見してしまいます。

しかし石川郎女のことが好きだった草壁皇子は「あなたを忘れるものか」と歌を贈ります。

石川郎女は、この草壁皇子の歌の返歌はしていません。

まさむね
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まぁ、要するに草壁皇子は振られてしまったわけですが、石川郎女も当代きっての大物の大津皇子と草壁皇子に好かれていてどんな美女だったのでしょうか。

もう一つ、エピソードなのですが、これは天武天皇崩御の直後、大津皇子は都から行方をくらましていました。

どこに行っていたかというと、伊勢神宮に斎宮になっていた姉、大伯皇女のところに行っていました。

これも万葉集でわかったことですが、万葉集に「大津皇子、密かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の作りませる御作歌 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて 暁露に わが立ち濡れし」とあります。

大和に戻っていく弟を心配し、見送った後もそこにたちつくしている大伯皇女。

まさむね
まさむね
大津皇子はいったい何が目的で天武天皇のお葬式を抜けだしたのでしょうか。

大津皇子のまとめ

まとめ
  • 大津皇子は、天智2年(663年)に生まれ、父は天武天皇(大海人皇子)、母は持統天皇(讃良皇女)の姉・大田皇女。
  • 天武10年(681年)頃、山辺皇女(やまべのひめみこ)と結婚。
  • 天武14年(685年)、大津皇子に浄大弐が授けられる。
  • 朱鳥元年(686年)10月2日逮捕される。
  • 朱鳥元年(686年)10月3日、24歳で死去。
  • 大津皇子と草壁皇子は、石川郎女を巡って恋のさや当てをした。
  • 天武天皇崩御の直後、大津皇子は伊勢の大伯皇女の元に行った。

大津皇子の悲劇は天武天皇が崩御した後に起こりました。

最大の庇護者を失った大津皇子。

もっと長く生きていたら、もしかしたら日本の歴史ももっと変わっていたかもしれません。

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