聖徳太子といえば、日本最大の偉人といってもいい人物。
昭和の時代には1万円札に描かれてもいました。
近年「聖徳太子は実在しなかった」という話題が出たことがあります。
専門家の間でも喧々諤々様々な説が出て、実在した派と実在しなかった派の間に論争が繰り広げられました。
現在では、聖徳太子のモデルである厩戸皇子(または厩戸王)は実在したが、聖徳太子の業績として伝わっているものは厩戸皇子が関与していたとははっきりしないというところに落ち着いているようです。
それを受け、高校の日本史教科書でも現在では「厩戸王(聖徳太子)」などという表記になっているようです。
ここでは、実在したかしなかったかはひとまず置いておいて、日本の歴史の中で伝えられてきた聖徳太子について見ていこうと思います。
目次
聖徳太子のプロフィール
『日本書紀』の記述によれば、後の聖徳太子、つまり厩戸皇子が生まれたのは、第30代天皇、敏達天皇の3年。
西暦に直すと574年。
ちなみに、日本で元号が用いられたのは「大化の改新」で有名な大化からで、厩戸皇子が生まれた頃にはまだ元号は使われていなかったので、史書では時の天皇の在位の年で著されます。
厩戸皇子の父君は橘豊日皇子。
第29代天皇・欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟にあたります。
そして母君は穴穂部間人皇女。
実は、厩戸皇子のご両親は異母兄妹の間柄にあります。
厩戸皇子が11歳の西暦585年、敏達天皇が崩御され、橘豊日皇子が天皇に即位、しかしわずか2年で天然痘により崩御(諡号用明天皇)。
用明天皇の弟の泊瀬部皇子が天皇に即位したものの、西暦592年に蘇我馬子により暗殺(諡号崇峻天皇)。
崇峻天皇の異母姉が天皇として擁立(崩御後の諡号は推古天皇)され、厩戸皇子は皇太子となりました。
そして、摂政として天皇を補佐。
数々の献策を行います。
推古天皇の30年、西暦622年、厩戸皇子は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
享年は49歳だったといいます。
聖徳太子は何した人?
さてでは、次に史書に聖徳太子の業績として記されているものを見ていきましょう。
現代の研究では「厩戸皇子」がここに関与している明確な史料は見つかっていませんが、あくまで「聖徳太子」の業績として記していきたいと思います。
遣隋使の派遣と冊封体制からの脱出
推古天皇の御代、中国を支配していたのは隋帝国でした。
『隋書』によれば、日本は西暦600年に初めての遣隋使を送っています。
ただ、これは『日本書紀』には記されていません。
聖徳太子によると『日本書紀』に記されているのが、推古天皇15年、西暦607年に小野妹子を派遣した2回目の遣隋使です。
このとき、小野妹子が携え、隋帝に差し出したのが「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」で知られる国書です。
それまで日本は中国の皇帝に王と認められることで権威を保っていました。
卑弥呼然り、倭の五王然りです。
他国の王が中華帝国の家臣として認められることを冊封といいます。
天子は天命を受けて即位した中国皇帝のみが名乗れるというのが、当時の東アジアの常識です。
ところが、聖徳太子は日本の天皇も天子であるとして、隋と日本が対等の関係であると表明しました。
もちろんこれは隋側を怒らせました。
しかし、これから後、日本は冊封体制から脱し、現代に至るまで中華帝国の属国となることはありませんでした。
ただ、この後も遣隋使、遣唐使などの朝貢は行っています。
実力主義による冠位十二階の制定
聖徳太子以前の日本の朝廷では「氏姓制度」が用いられていました。
これは、朝廷から役職を伴う氏(うじ)、姓(かばね)が下賜され、それが世襲されるというもの。
つまり特権階級の固定化が行われていました。
聖徳太子はそれを改め、世襲ではなく個人の能力によって冠位が決まる冠位十二階を導入しています。
これは、有能な人材を得るためと、中華帝国に模した制度を取り入れ、国としての権威を高めようとしたためという2つの目的があったと考えられています。
十七条憲法の制定
次に聖徳太子は「十七条憲法」を制定しました。
よく知られる「和を以て貴しとなす」で始まる十七条の条文です。
ただし、内容としては他に
「仏教を敬いましょう」
「君臣の分をわきまえましょう」
「人それぞれに心があるから、違いがあることを認めて怒らないようにしましょう」
といったことが書かれており、現代の感覚でいう憲法というよりは、みんなが守るべき心構え的な文言が並んでいます。
- 江戸時代から聖徳太子が制定したのではなく、まったくの創作であるという説
- 十七条憲法自体は実在するが、聖徳太子より後の時代に制定されたものであるという説
などがあります。
聖徳太子のエピソード・逸話
次に、史書や、その他の書物などで伝えられた聖徳太子伝説です。
こちらはだいたい荒唐無稽で、話を盛りすぎた感が強いですが、お話としてはおもしろいです。
聖徳太子馬に乗って富士山を飛び越える
聖徳太子は全国から馬を集めたといいます。
そして、その中から甲斐の国より献上されたたてがみとしっぽが白い黒駒を選びました。
その黒駒に太子が乗ると、馬は空を飛んで、富士山を飛び越えたというのです。
そして、そのまま甲斐の国まで飛んでいき、飛び越えた山が「駒ヶ岳」と名付けられました。
さらに、駒ケ岳のふもとを流れる川は、馬のしっぽが白かったことから尾白川と名付けられたといいます。
ちなみに尾白川の源流では、サントリーがウイスキーの仕込み水、天然水の水などを採水しています。
聖徳太子聖人を助ける
聖徳太子が奈良県の片岡山を訪れたときのこと、道端に旅人が倒れていました。
太子は旅人が飢えていた様子だったので、食べ物を与えて、服をかけてあげました。
次の日に太子がその旅人の様子を見に行かせると、旅人がすでに亡くなっていたという知らせ。
そこで太子は、旅人を埋葬して墓をつくってあげました。
それから何日か後、太子はあれはきっと「真人」だったはずだと墓を見に行かせると、果たして棺の中には遺体がなく、服だけが残されていたので、人々は聖人は聖人を知るものだなあと感心したといいます。
真人というのは、中国の道教における道を得た人のこと。
イコール仙人であると言ってもいいでしょう。
誰かが亡くなった後、棺を開けると服だけが残っていた、剣だけが残っていたというのは、中国の説話によく見られるオチ。
これは「尸解仙」といい、その人が死んだ後に仙人となって天に登ったことを表します。
聖徳太子「忍びの者」を使う
聖徳太子が、伊賀国の大伴細人なる人物を「志能備(シノビ)」として使い、周囲の情報を探らせていたという伝説があります。
つまり、忍者は聖徳太子が使った「志能備」がルーツにあるというのですね。
聖徳太子には、10人の人が一度に喋ったことを全て聞き分けたという伝説もありますが、これは「志能備」により情報を集め、様々なことに通じていたことがそのような形で伝わったのだという人もいます。
もっとも大伴細人や志能備自体、民間伝承に過ぎません。
聖徳太子まとめ
これまで見てきたように、聖徳太子には実像と虚像が入り混じっています。
ただ、そこに古代日本の現実が反映されていることも事実だと思います。
「盛り過ぎだから実在しない」と、ばっさり切って捨ててしまうのはちょっと短絡過ぎるのではないでしょうか?
聖徳太子は、日本が日本として成り立っていく最中に行きた人物です。
聖徳太子を通じて、古代の日本にアクセスしてみるのもきっとおもしろいですよ?
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