平安時代

最澄ってどんな人?空海との関係や名言をまとめてみました

最澄

最澄(さいちょう)といえば、天台宗の開祖として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

同じ時代に真言宗を開き、多くの伝説を残している空海の影に隠れて地味なイメージがありますが、実際はどうだったのでしょう。

この記事では最澄についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

最澄のプロフィール

  • 最澄(さいちょう)
  • 俗名:三津首広野(みつのおびとひろの)
  • 諡号:伝教大師(でんぎょうだいし)
  • 父:三津首百枝(みつのおびとももえ)
  • 母:藤子(妙徳夫人)
  • 享年56(766年/767年8月18日~822年6月4日)

最澄は何した人?

誕生と出家

766年(一説には767年)、最澄は近江国(滋賀県)坂本の生源寺の辺りで、地元の豪族・三津首百枝の長男として生まれました。

幼名は広野と言い、幼い頃からとても優秀だった広野は、さまざまな学問に励みました。

778年、仏教への信仰が厚い両親の影響で、12歳のときに僧侶となる道を選び、近江国の国分寺に入って出家し、行表(ぎょうひょう)の弟子となります。

そして780年、14歳で得度(僧侶となるための出家の儀式)し、名前を最澄と改めました。

その後、厳しい修行と勉学に励んだ最澄は、785年に奈良の東大寺で具足戒(僧侶として守らなければならない生活規範)を受け、国に認められた正式な僧侶となりました。

比叡山入山

国家公認の僧侶となった最澄は出世の道を選ぶことができましたが、受戒後3ヶ月足らずで奈良を離れ、仏道修行のために比叡山に入ることを決意します。

788年、最澄は一乗止観院(後の延暦寺根本中堂)という小堂を建て、そこに自ら刻んだ薬師如来像を安置し、仏の教えが永遠に伝えられることを願って灯明を供えました。

この灯明は「不滅の法灯」と呼ばれており、1200年以上経った現在でも大切に受け継がれて、根本中堂に灯されています。

比叡山で修行を続けるなかで、あらゆる仏教書を読破した最澄は、中国天台宗の祖・智顗(天台大師)の教えと出会い、『法華経』を中心とする天台宗こそが、全ての人を仏へ導くための最善の教えだと確信しました。

天台宗の教えに大きく心を動かされた最澄は、さらに厳しい修行に励み、その評判は朝廷にまで広がります。

797年、最澄は宮中で天皇の側に仕え、病気回復を祈る内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命されました。

801年には南都六宗(奈良時代の6つの仏教宗派)の高僧10人を比叡山に招いて『法華経』についての法会を開き、天台教学による『法華経』の見解を披露するとともに、南都六宗の学識を学びました。

そして、802年に桓武天皇の側近である和気広世(わけのひろよ)から、高雄山寺(神護寺)法華会の講師に招かれたことで最澄の名声は高まり、桓武天皇から還学生(短期留学生)として入唐する許可を得ることができました。

入唐

804年、最澄は天台宗を極めるため、遣唐使船に乗って唐に渡ります。

そして、修禅寺の道邃(どうすい)から天台法門の書写を許された後、天台宗の聖地である天台山に赴き、仏隴寺の行満(ぎょうまん)から天台教学を学び、翛然(しゅくねん)からは坐禅の教えを受けました。

さらに、日本への帰国が延期されたため、竜興寺で順暁(じゅんぎょう)から密教を学ぶことができました。

帰国と天台宗の樹立

805年、帰国した最澄は天台宗を広めるため、年分度者に天台宗の2名を加えることを求め、許可されました。

年分度者とは国家が正式に認めた僧侶のことで、毎年各宗派によって人数が決められていましたが、これに天台宗の2名を加えることを許可されたことで、南都六宗と並んで天台宗は正式に認められることになりました。

空海との交流

桓武天皇が崩御した後、即位した嵯峨天皇は唐で密教の教えを受けた空海を高く買っていました。

そのため、最澄は教えを請うために弟子とともに空海のもとを訪ね、灌頂(さまざまな戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を受けることを懇願します。

空海はこれを了承しましたが、灌頂を受けるためには、最低でも3年間修行に励まなければならないと言われたので、最澄は自分の代わりに弟子の泰範(たいはん)を空海のもとに送りました。

その後、最澄は空海から経典を借りて密教への理解を深めていきましたが、密教の重要な経典である『理趣釈経』を貸して欲しいと頼んだことで空海との交流に亀裂が入ってしまいます。

「理趣経」は欲を肯定し、男女の性愛でさえも清いものと説く経典だったため、注釈書を読むだけでは誤った解釈をしかねないと思った空海は、最澄に直接学びにくるように促し、注釈書を貸すことを断りました。

さらに、空海のもとに送っていた泰範に帰ってくるように要請しましたが、空海に師事していた泰範は最澄のもとに帰ることを拒んだこともあり、最澄は空海との交流を断ってしまいます。

大乗戒壇の設立と最澄の最期

818年、最澄は20歳のときに東大寺で受けた具足戒を破棄しました。

当時、正式な僧侶となるためには、奈良の東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に設けられていた戒壇で受戒しなければいけませんでしたが、最澄はこの戒壇で授ける戒律は、自分だけの悟りを目指す小乗仏教の戒律だと考え、人々を仏へ導くことを目指す大乗仏教の戒壇を設置しようとします。

そのため、比叡山に天台宗独自の大乗戒壇を設立することを朝廷に願い出ましたが、南都六宗の僧侶たちが猛反対したため、許可されませんでした。

最澄は南都六宗の僧侶と論争を続け、比叡山で僧侶を育成することを求めましたが、許可を得ることができないまま、822年6月4日56歳で亡くなりました。

そして866年、功績が称えられ、日本で初めての大師号である「伝教大師(でんぎょうだいし)」の諡号(しごう)が清和天皇から贈られました。

最澄のエピソード・逸話

最澄の名言

真面目で秀才だった最澄は多くの名言を残しています。

一燈照隅 万燈照国(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく)

(一人ひとりが自分の身近にある一隅を照らす。
それだけでは小さいあかりかもしれないが、その一隅を照らす人が増えていき、万のあかりとなれば、国全体を照らすことができる。)

一隅を照す、これ則ち国宝なり。

(世の中で自分の役割をしっかり果たすことができる人物こそが、国の宝である。)

忘己利他(もうこりた)

自分のことは忘れて、他人のために尽くすことを言い、最澄は「己を忘れて他を利するは慈悲の究極なり」と説いています。

八舌の鑰(はちぜつのかぎ)

中国で天台宗を開いた智顗(ちぎ)は、亡くなる前に「自分の死後200年後に、東方の国で天台の思想が再び興隆するだろう。その時までこの蔵は閉ざす」と言って錠をかけ、そのカギを東の空へ向けて高く投げました。

投げられたカギは行方が分からなくなり、以来その蔵は「開かずの経蔵」となってしまいましたが、最澄が比叡山の土の中からこのカギを発見しました。

このカギは八つの突起を持っていることから、「八舌の鑰」と呼ばれています。

その後、唐に渡って天台山を訪ねた最澄が、開かずの経蔵となっていた蔵に比叡山の地中から発見したカギを合わせると扉は開きました。

これに驚いた天台山の僧侶たちは、最澄を智顗の生まれ変わりとし、蔵に納められていた経典や密教の道具を贈ったとされています。

まさむね
まさむね
一説には、初めて最澄が比叡山に登ったときに、人の姿に変身した仏様から授けられたともいわれているこのカギは、重宝として比叡山延暦寺に保管されています。

最澄のまとめ

まとめ
  • 766年/767年、近江国の豪族の長男として生まれる
  • 780年、得度して最澄と名乗る
  • 785年、東大寺で具足戒を受けた後に比叡山に入る
  • 804年、天台宗を極めるために唐に渡る
  • 805年、帰国して天台宗を樹立する
  • 822年、大乗戒壇を設立する許可を得られないまま、56歳で亡くなる
  • 866年、清和天皇から伝教大師の諡号が贈られる

最澄が亡くなってから7日後、比叡山に戒壇を設立することが許可され、最澄の死を惜しんだ嵯峨天皇は「延暦寺」という寺号を授けました。

その後、延暦寺は日本天台宗の基礎を築いた円仁・円珍や、鎌倉仏教の開祖である法然・栄西・親鸞道元・日蓮などの名僧を輩出しており、最澄の教えは各宗派に受け継がれています。

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