鎌倉時代

道元禅師の生涯と逸話に迫る!曹洞宗を広め永平寺を開く

道元禅師

日本に仏教が伝えられたのは、お釈迦様の没後から1000年以上後。

中国へ伝来してからも600年以上経ってから、百済を通じてやっと日本まで伝わって来ました。

日本への伝来以後、信仰というよりは政治的に利用されることが多かった仏教が、民衆の間に広まるようになってきたのが平安時代末期から鎌倉時代にかけてです。

仏教が日本の民衆の信仰になっていく過程で、現在まで伝わる様々な仏教宗派が成立していきました。

その中の一つ、曹洞宗の日本での祖となったのが道元禅師です。

道元のプロフィール

道元(どうげん)の出生は、鎌倉時代が始まって間もない1200年だといわれています。

源頼朝が死んでから1年後です。

父親は源通親という説と堀川通具という説があります。

源通親は頼朝の清和源氏とは別系統の村上源氏で、朝廷で内大臣を務めた公家。

堀川通具はその息子です。

天台宗で出家したのち禅に出会う

14歳のときに、天台座主(天台宗の一番えらい人)公円の下で出家。

その後、現在一般には三井寺として知られる滋賀県の園城寺で公胤阿闍梨より天台宗について学びます。

17歳の時に公胤のすすめで禅宗の一派・臨済宗の明全禅師に師事。

明全は、天台宗出身で、中国で臨済宗を学んだ栄西の弟子です。

栄西は道元が15歳のときに亡くなっています。

中国へ禅の修行に行き曹洞宗に出会う

23歳になった道元は、中国(当時は宋)に修行に行く明全にともなって渡宋。

ただ、宋に渡って以降は明全とは別れ、自らの師を求めてまわりました。

現在の浙江省まで赴いた道元は、曹洞宗の僧・天童如浄禅師と出会い師事します。

如浄禅師のもとで修行し、悟りを開いた道元は、27歳で帰国。

その帰国の折に、宋で死去した明全の遺骨をたずさえていたといいます。

帰国後は京都で布教するも弾圧される

帰国後の道元は、明全のもとで修行した京都東山の建仁寺に間借りして、日本では新しい曹洞宗の布教を始めました。

後に建仁寺を出て草庵を結び、修行と布教につとめます。

そして33歳のとき、京都の宇治に、日本初めての曹洞宗の道場・興聖宝林寺を建立しました。

道元のもとへ、多くの弟子が集まり、曹洞宗は大きく育っていきます。

曹洞宗の勢力拡大に危機感をもった比叡山は道元を弾圧。

比叡山延暦寺は、高位の僧侶の下に僧兵を持ち、朝廷にまでゆすりたかりを行うような組織でした。

道元への弾圧も、僧兵による暴力という形で行われています。

永平寺を開く

そんな道元をみかねた越前の地頭・波多野義重は、道元を越前の吉峰寺に招き入れました。

その翌年、道元44歳のとき、道元は吉峰寺の近くに傘松峰大佛寺を開基。

2年後に大佛寺を永平寺と改めています。

北条時頼に禅を指導する

48歳ごろ、波多野義重の紹介で時の執権・北条時頼に仏法を教化するため鎌倉に赴いて、半年ほど滞在しました。

北条時頼の庇護を受けた曹洞宗は、これ以後鎌倉武士たちに広く信仰されるようになります。

53歳、病を得た道元は法統を弟子の懐奘に譲り、その翌年在家弟子の家で亡くなりました。

道元は何をした人?

道元禅師は、中国で学んだ曹洞宗というそれまで日本になかった新しい禅の修行と布教に半生を捧げた人です。

日本に「只管打坐」の禅風を伝える

日本に初めて禅をもたらしたのは、道元の師の師である栄西です。

栄西の禅は臨済宗で、これは禅問答によって理屈を超えた悟りを得るという修行が主になります。

それに対して、道元が伝えた曹洞宗は「只管打坐(しかんたざ)」

お釈迦様は菩提樹の下で座禅をすることで悟りを開きました。

それに習い、ひたすら座禅に打ち込むというスタイルです。

ただ、道元は曹洞宗が「禅宗」にカテゴライズされるのを嫌い、この「只管打坐」こそが正統の仏教であると主張していました。

「日本人の習慣」を作る

朝起きたら顔を洗い、歯を磨く。

現代の日本でごく当然のように行われている習慣です。

でも、鎌倉時代にはそれは当然ではありませんでした。

特に、当時の日本人には洗顔という習慣はなかったようです。

中国で洗顔という文化を知った道元は、それを弟子にも行わせ、また、楊枝を使ったオーラルケアを広めました。

中国禅では日常生活を僧たちが自ら行い、その生活そのものも修行であると考えます。

曹洞宗でも、座禅のほかに掃除なども修行として行われました。

自らの生活空間は自ら清潔にする。

この思想は、学校の掃除は生徒が自ら行うという日本では当たり前の文化として広まっています。

まさむね
まさむね
現代日本人にとって普通になっている習慣の中には、このように道元を祖とするものがいろいろあります。

道元のエピソード・逸話

道元には、一休のような奇矯さもなければ、親鸞のような煩悩と信仰を結びつけて悩む人間臭さもありません。

一言で言うならただ真面目というのが道元です。

道元が説くのは当たり前のこと。

そこにはあまり面白みはありませんが、心には響きます。

奇跡を起こさない禅僧

宗教にまつわる奇跡譚は数多くあり、また人は宗教に奇跡を求めるものです。

しかし、曹洞宗はただ日常を修行として生き、ただ座禅を組んで仏に近づくという修行体系であり、奇跡とはまったく無縁です。

弾圧されたら相手に仏罰が下ったなどということもなく、道元は争いを避けて逃げるだけでした。

道元にこんなエピソードがあります。

越前に移った道元のもとに、病気の赤ん坊を抱えた女性が助けを求めてきました。

薬を飲ませてもよくならず、今にも命を落としそうな赤ん坊。

母親は、道元が宗教的な奇跡によって助けてくれることを願ったのです。

道元はその母親に「家族が一人も死んだことがない家を探し、豆をもらってきなさい」と告げます。

藁にもすがる思いで村の家々を周る母親。

しかし、家族が誰も死んだことがない家などあるはずがありません。

そうこうしているうちに赤ん坊は命を落とします。

道元は母親に、家族を失った悲しみは誰しも味わうことであり、その悲しみは事実として受け入れるしかないということを教えたのでした。

ご飯を作るのもまた修行

道元の著書に『典座教訓』があります。

典座というのはお寺の食事係。

その典座を通し、食事という日常がどれだけ大切かを説きました。

道元が典座の重要さを知ったきっかけは『典座教訓』に記してあります。

道元が如浄禅師のもとで修行していたおり、ある典座が仏殿の前で苔を干していました。

この苔というのは海藻だともきのこだとも考えられています。

まさむね
まさむね
要するに保存食を作っていたのですね。

どうやら暑い日だったようですが、笠もかぶらず、杖をつきながら汗だくになって苔を干していました。

道元が典座に歳を尋ねると68歳だといいます。

そこで、道元が「どうして使用人にやらせないのですか?」と聞くと、「他人は自分ではないではないか」と答えます。

さらに「こんなに暑いのだから日が落ちてからやればいいのでは?」と聞くと「今ではなくいつやればいいのか」との答え。

つまりこれは、修行とは人まかせではなく、また時期を見てするものでもないということで、そこに道元は禅の修行の真髄を見たのです。

食事係といういわば下働きに、禅の真理があることを知った道元は、「典座とは、悟りを求める志が高い人がなるものであり、また典座の仕事は修行そのものである」と書き記しています。

5行でわかる道元のまとめ

日本に新しい仏教体系をもたらした道元禅師のまとめです。

まとめ
  • 天台宗で出家したのち禅に出会う
  • 中国まで禅の修行へ行き曹洞宗に出会う
  • 帰国後京都で布教するが弾圧され、越前へ
  • 越前に永平寺を開く
  • 執権北条時頼に禅を指導する

道元禅師は表面的には真面目すぎて面白みがない人に思えます。

でも、その思想にふれるとだんだん魅力にひかれるようになり、今生きていたら教えを授かりたいと思わせられます。

多くの弟子が京都から越前まで付き従ったのも、道元禅師の人間的魅力あればこそだったかもしれません。

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