昭和の時代『一休さん』というアニメがありました。
小坊主の一休さんが、トンチで大人たちを懲らしめるというような内容となっており、全296話、およそ7年間にわたって放送された大人気作品で、台湾や中国など外国にも輸出され、親しまれています。
もちろんアニメで描かれた一休さんのストーリーはフィクションであるけれど、実は一休さんのモデルとなった人物は実在します。
それが、一休宗純です。
この記事では、一休宗純という人はどんな人なのか、その経歴やエピソードをご紹介していきます。
目次
一休宗純のプロフィール
一休が生まれたのは、応永元年=西暦1394年。
室町時代の初期です。
この年は、ちょうど足利幕府第3代将軍・足利義満が、将軍位を子の義持に譲った年です。
時の天皇は後小松天皇。
一休は、後小松天皇を父に、藤原氏の女性を母に生まれたといわれています。
幼名は「千菊丸」でした。
しかし、その出生は不幸なものでした。
千菊丸の母は、皇后の讒言により宮中から追放され、都のかたすみの家屋で千菊丸を産んだのです。
6歳の時に出家
6歳のとき、千菊丸は安国寺へと預けられて出家します。
このときの戒名は「周建」でした。
ちなみに「戒名」とは、現在の寺が高額の収入を得るために販売している商品ではなく、仏弟子になった証として師匠から与えられるものです。
安国寺は禅寺ですが、将軍家の庇護を受けて腐敗し、正しい禅の修行をできるような寺ではなかったといいます。
17歳で和尚に弟子入り
17歳になり、本当の禅を求めた周建は、安国寺を出奔し、一心に純粋の禅を修行していたという西金寺の謙翁宗為和尚に弟子入り。
同時に「宗純」という新しい戒名を授かりました。
宗純は師匠と生活をともにして修行にあけくれます。
しかし、謙翁和尚は宗純が21歳の時に死去します。
行き場をなくした宗純は、山中で自殺未遂を起こしたともいわれています。
22歳で「一休」に
しかし翌年22歳のとき、京都大徳寺で修行した華叟宗曇和尚と出会い、弟子入りしました。
宗純は華叟和尚のもとで悟りを開き、一休という道号を授かりました。
道号は、簡単に言えば禅僧としての別名。
禅宗では、
- 一休=道号
- 宗純=戒名
というように続けて書く伝統があります。
その華叟和尚とも死別した一休は、それまでの戒律を守った禅の修行から一転、男女を問わず愛で、肉食もするという破戒僧となりました。
そして88歳の折、マラリアにかかって「死にとうない」と言い残してなくなりました。
一休宗純は何した人?
一休宗純は、日本の禅宗の中では特殊な存在です。
阿弥陀如来への帰依こそ重要だとして、妻帯まで許した浄土真宗はともかく、戒律を守って自力修行を行うことを旨とする禅宗には、一休ほどの破戒僧はいませんでした。
戒律を一切守らなかった?
一切戒律を守らず、欲望の赴くまま美少年や遊女を抱き、肉食を行っていた一休。
このような行いは、禅宗では「風狂」と呼ばれます。
中国の禅僧で、一休が属する臨済宗の開祖でもある臨済義玄は「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺す」という言葉を残しています。
「祖」は、禅宗の開祖達磨大師から続く祖師のことです。
禅宗では、固定観念、思い込み、そして執着を徹底的に排除します。
だから、例えお釈迦様が目の前に立って教えをたれても、そんなものは否定して、自らの心の中にある悟りを求めろというのです。
「風狂」はその最たるもので、中国禅にはそのように風狂に生きた禅師が数人います。
破戒僧に見える一休は、風狂により禅を極めた数少ない人物であったのです。
民衆の中で暮らしていた
華叟和尚と死別した一休は、幾度か住居を変えていますが、多くの時期を一般の人々の中で暮らしていました。
それは、80歳のときに天皇の勅命により大徳寺の住持に任じられてからも同じで、80歳の高齢にもかかわらず、自宅から大徳寺に通っていたといいます。
禅の修行段階を示した「十牛図」というものがあります。
十牛図によれば、禅の修行者は自らと向き合い、悟りを得た後、最終的には民衆の中に入って仏教の救いへと導くことになるといいます。
自力修行で悟りを得た後に、救いをもたらすというのが禅が大乗仏教であるゆえんです。
一休もまた、悟りを得た後は民衆の中での布教に努めたのです。
2つの寺院を再建
63歳のとき、一休は戦乱によって失われていた妙勝寺跡地に庵を結びます。
江戸時代に前田利常が伽藍を再建してからは臨済宗の寺となっていますが、一応一休が再建の基礎をつくったと言っていいでしょう。
そして、86歳の折、応仁の乱で失われていた大徳寺の伽藍を再建しました。
これは、大阪の境で布教していたおりに得た在家信者からの寄進によるものです。
一休宗純のエピソード・逸話
一休には、虚実とりまぜて様々なエピソードが伝えられています。
そのどれもがいかにも一休らしいので、いくつか紹介します。
盲目の女性と死ぬまで同棲
一休が70代の半ばも過ぎたとき、「森」という盲目の女性と出会います。
その美しさに惹かれた一休は、彼女と生活をともにするようになりました。
そして、昼寝中の森美人超きれいとか、森ちゃんと知り合ってから若返っちゃって、その恩を忘れたら無量億劫(ものすごく長い間)畜生の身におちるだとかいう、デレデレの詩を残しています。
この関係は、一休が死去するまで続きました。
「淫乱天然少年を愛す」「風流愛す可し少年の前」とまで詠んでいた一休が、「勇巴興尽きて妻に対し淫す」。(勇巴=美少年とのエロエロはもう飽きたから嫁に欲情するわ!)とまで詠むほどでした。
和尚仏像を燃やしてしまう
ある寒い日、一休が逗留した寺に薪がなかったので、木彫りの仏像を燃やして暖を取っていました。
それを見たその寺の住職は当然怒ります。
「おまえ何してくれてんだよ」という住職に、一休は「いやぁ、仏舎利をとろうと思って」と答えたといいます。
仏舎利というのは仏様の骨ですね。
仏像が文化財として保護されている現在、このエピソードを聞くとなんてひどいことをしたと思う人のほうが多いかもしれません。
しかし、この話実は元ネタがあります。
中国の唐の時代、丹霞天然という禅師がいました。
この丹霞和尚が、まったく同じことをして、まったく同じ「仏舎利をとろうと思って」と答えています。
そして、これにはさらに「仏像に仏舎利があるはずがないだろう」と言われ、「だったら仏さまではなくただの木だから燃やしてもいいよね」と答えたというオチまでついています。
丹霞和尚は一休より数百年前の人物です。
一休が実際仏像を燃やしたとしたらこの話に沿って行ったのだろうと思います。
でも、実際には一休より後の人が、丹霞和尚の話をパクっただけでしょう。
このエピソードは、大切なのは自らの内に仏を見出す(見性成仏)ことで、木でできた仏像を拝むことに、仏教の本質はないと言外に訴えています。
4行でわかる一休宗純のまとめ
- 天皇のご落胤?
- 真剣に禅を追求した
- 禅修行の究極として、戒律を破る「風狂」を行う
- 戦乱で失われた妙勝寺、大徳寺を再建
一休宗純は、表面的に見れば「天皇の息子でありながら僧にされたため、グレて破戒僧になった人」です。
しかし、実際には一休ほど禅の追究に生涯をかけた禅僧は数えるほどしかいないと言えるほど、真剣に禅、仏教に向き合ってきた人ではないかと思います。
本当に仏像を燃やしてもおかしくないような人物でありながらも、失われていた寺を再建するという一見矛盾した人物像も、一休のことをよく知れば矛盾がないことがわかります。
禅には「不立文字」という言葉があります。
これは、本当のことは言葉や文字では表せないから、自ら悟るしかないということです。
一休を理解するためには、文章では限界があります。
それでも、深く知れば知るほど一休の魅力には惹きつけられるものがありますね。