平安時代

嵯峨天皇ってどんな人?空海との関係や子子子エピソードなど

嵯峨天皇

嵯峨天皇(さがてんのう)といえば、能書家で空海・橘逸勢と並ぶ三筆の一人として有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

あまり注目されることがなく、地味な天皇とされていますが、実際はどうだったのでしょう。

この記事では嵯峨天皇についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

嵯峨天皇のプロフィール

  • 嵯峨天皇(さがてんのう)
  • 諱:神野(賀美能/かみの)
  • 父:桓武天皇(第50代天皇)
  • 母:藤原乙牟漏(藤原良継の娘)
  • 享年57(786年9月7日~842年7月15日)
  • 第52代天皇(在位:809年4月1日~823年4月16日)

嵯峨天皇は何した人?

平安時代初期、嵯峨天皇は『弘仁格式』を編纂させ、蔵人所や検非違使などを設けて律令制の補強を行いました。

嵯峨天皇の生い立ち

786年、嵯峨天皇は桓武天皇の第2皇子として生まれました。

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聡明で君主としての器量を持っていた嵯峨天皇は、803年に三品中務卿、806年には弾正尹となります。

そして806年、桓武天皇が崩御し、兄・平城天皇が即位したことに伴って皇太弟となりました。

その後、もともと病弱だった平城天皇の病状が悪化し、これを無実の罪で死んだ叔父・早良親王や異母弟・伊予親王の祟りだと考えた平城天皇は譲位することを決意します。

薬子の変

809年、平城天皇は譲位し、嵯峨天皇が即位しました。

しかし、平城上皇に寵愛されて権勢を得ていた藤原薬子(ふじわらのくすこ)と兄・藤原仲成(ふじわらのなかなり)が、平城京への遷都と平城上皇の重祚(退位した天皇が再び即位すること)を画策します。

その結果、平安京の嵯峨天皇と平城京の平城上皇の間で「二所朝廷」と呼ばれる対立が起こってしまいました。

そして810年、平城上皇が平城京に遷都する詔勅を出したため、嵯峨天皇は仲成を左遷して薬子の官位を剥奪する詔を発します。

これに激怒した平城上皇は薬子とともに東国に赴いて挙兵しようとしましたが、嵯峨天皇の命令を受けた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らが迎撃態勢をとっていたため、平城京に戻って出家し、薬子は自殺しました。

嵯峨天皇の政治改革

薬子の変を鎮圧した嵯峨天皇は政治改革に取り組み、今までの律令で対処しきれない問題を解決するため、新しい官職である令外官を設置します。

まず、天皇の秘書官である蔵人を設置し、蔵人が事務を司る役所である蔵人所を設け、その長官である蔵人頭に藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命しました。

そして、平安京の治安を守るために、検非違使(平安京内の警備・裁判を行う)を設置しました。

さらに、法令を整備します。

大宝律令や養老律令が制定されてから100年以上も経っていたため、律令そのものは悪くなくても現状と合わないことがあり、補足や修正が必要になっていました。

そのため、「格」(律令の補足・修正)と「式」(律令の施行細則)が作成されましたが、格や式が増え過ぎてしまい、施行の邪魔になることもあったので、『弘仁格式』を編纂し、今まで出されていた法令をまとめ直しました。

また、平安時代初期は税を払えない農民が増加し、浮浪・逃亡に加えて、男子を女子と偽るなどの偽籍も横行して、班田収授が困難になっていました。

班田収授の実施が困難ということは税収の確保が困難ということであるため、直営田を経営して財政を確保しようとします。

そして、天皇が直営する勅旨田の他に、皇族には賜田が与えられ、九州の大宰府管内には公営田、畿内には官田が設けられました。

譲位と嵯峨天皇の最期

823年、嵯峨天皇は淳和天皇に譲位し、冷然院に移りました。

そして、833年には離宮・嵯峨院(現在の大覚寺)に御所を新造します。

嵯峨院の庭には大沢池と呼ばれる人口池が造られており、そこに咲いていた菊を嵯峨天皇が生けたことから「嵯峨御流」という華道の流派が誕生したとされています。

その後、842年7月15日に嵯峨天皇は57歳で崩御しました。

嵯峨天皇のエピソード・逸話

嵯峨天皇と花見

京都市東山区の清水寺は桜の名所として有名ですが、そのすぐ隣にある地主神社の境内には、八重と一重が同じ枝に咲く「地主桜」と呼ばれる珍しい桜があります。

平安時代初期、貴族の花見といえば桜よりも梅が一般的でした。

しかし、811年の春に地主神社へ行幸したとき、地主桜に心を奪われた嵯峨天皇が牛車を三度も牛車を引き返させたことで、事態は一気に急変します。

それ以後、嵯峨天皇は地主神社に桜の枝を宮中に献上させるように命じ、812年に初めて公式な桜の花見を行いました。

まさむね
まさむね
これをきっかけに、貴族の間で桜の花見が流行して、邸宅の庭には桜の木が植えられるようになり、平安京に桜が増えていったとされています。

嵯峨天皇と空海

嵯峨天皇は三筆の一人として有名ですが、もう一人の三筆である空海と親交がありました。

空海と書の巧拙を競っていた嵯峨天皇は、多数ある手本の中から特に優れた一巻を取り出し、「これは唐人の手になるものである。名は知らないが、どのように真似てみてもこのように書けるものではない。」と褒め称えると、空海が「これは私が書いたものです」と答えました。

しかし、嵯峨天皇が信じようとしなかったので、空海は軸を紙から外して下に隠れている所を見るように言います。

嵯峨天皇が空海の言う通りにすると、そこには空海の署名がありました。

これを見た嵯峨天皇はこれが空海の書であることを認めましたが、近頃の書と全く違っていたので、その理由を尋ねます。

空海は「その時にいる国によって書き換えているのです。唐は大国なのでそれに合わせてこのように強い筆勢を用いております。日本は小国なので弱い筆勢で書いています。」と答えました。

まさむね
まさむね
これに感服した嵯峨天皇は、空海と書で争うことはしなくなったそうです。

子子子子子子子子子子子子

ある時、内裏に「無悪善」と書かれた立て札が立てられました。

読み方が分からなかった嵯峨天皇が小野篁(おののたかむら)に読み方を尋ねると、「さが(悪)なくてよからむ」、つまり「嵯峨天皇がいなければよいのに」と読みました。

そのため、嵯峨天皇は意味が分かるということは、これは篁が書いたからに違いないと怒りましたが、篁が「私に読めぬものはありません」と弁明したので、「子子子子子子子子子子子子」と書いたものを差し出し、「これが読めるか」と問いました。

すると、篁は「ねこのここねこ ししのここじし」とすぐに読んだため、嵯峨天皇の怒りが解けたといわれています。

まさむね
まさむね
「子」という漢字には、「ね」(訓読み)、「こ」(訓読み)、「し」(音読み)と、「し」が変化した「じ」の4通りの読み方があるため、このような読み方が可能となります。

嵯峨天皇のまとめ

まとめ
  • 786年:桓武天皇の第2皇子として生まれる
  • 809年:第52代天皇に即位する
  • 810年:薬子の変を鎮圧する
  • 蔵人所と検非違使を設置し、『弘仁格式』を編纂する
  • 823年:淳和天皇に譲位する
  • 842年:57歳で崩御する

中央政治を強化し、華やかな平安時代の基盤を築いた嵯峨天皇は、亡くなる前に「人は天地に帰るもの。盛大な葬儀や祭祀は無用であり、墳丘も必要ない。草の茂るままにせよ。命令を違えると祟るぞ」と言い残し、薄葬を命じています。

あまり注目されることがない嵯峨天皇ですが、器量の大きい指導者だったといえるのではないでしょうか。

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