平安時代の貴族といえば、藤原氏に代表される私利私欲の塊というイメージがあります。
しかし、平安の初期には、私より公を尊び、清廉な生き方をした硬骨漢の貴族がいました。
それが、小野篁(おののたかむら)です。
小野篁は、一説には小野小町のおじいさんとも言われている人物です。
目次
小野篁のプロフィール
小野篁が生まれたのは802年。
平安京遷都が794年ですから、そのわずか8年後。
平安時代が始まったばかりのころです。
父親は、参議の小野岑守(おののみねもり)。
参議とは、朝廷の制作決定に関与することができるポストで、災害被害者を保護する続命院という施設を建てるなどしています。
東北で野生的に育つ
篁が13歳のとき、父が陸奥守になり、いっしょに陸奥国、つまり今の東北の太平洋側へ行きました。
その現地統治者に選ばれたというのは、朝廷の信頼が高かったということが推測されます。
13歳という元気の盛りに東北に行ったせいか、篁は学問をそっちのけで馬術や弓術に夢中になりました。
篁が東北にいたのは4年ほどだったようです。
皇太子の教師になる
岑守は、陸奥守に任じられる前は天皇の教師役である侍読で、勅撰漢詩集『凌雲集』の編纂にも携わるような、当時では最高峰のインテリでした。
ところが、その息子の篁は、東北で外で遊んでばかりだったため学問はさっぱり。
そこで篁は一念発起して勉強に励み、20歳のときに、中国の歴史と漢文を学ぶ文章生の試験に合格しました。
そして、31歳のときに仁明天皇の皇太子・恒貞親王付きの教師である東宮博士となっています。
その翌年、32歳のときに、遣唐使の副使になったものの、2回続けて渡航に失敗。
三度目は遣唐使の藤原常嗣と対立が生まれ、自ら船を降りました。
そして遣唐使を風刺する漢詩を詠んだため隠岐の島へ流罪になります。
司法長官になる
篁が38歳のときに赦免されて京都へ戻り、司法長官ともいえる刑部少輔になります。
40歳のときには、再び東宮博士になっています。
47歳の時に病気となって辞職し、51歳で病没しました。
小野篁は何をした人?
小野篁は高位の貴族でありながら、その地位を藤原氏のように自らの権益のために利用することはなく、よく言えば謹厳実直、悪く言えば融通がきかない頭の固い人だったようです。
清貧の政治家
篁が2度も東宮博士になっているのを見れば、どれだけ頭がいい人だったかわかります。
また、皇太子に直接学問を教えるというからには、皇室からの信頼も厚かったのでしょう。
実は小野篁は、聖徳太子時代の遣隋使・小野妹子の子孫ですから、家柄も確かでした。
律令に詳しく、律令の解説書である『令義解』の編纂にも関わっています。
このような人物が高給取りでないはずはありません。
その気になればかなり贅沢な生活もできたはず。
しかし、篁は収入のほとんどを友人に分け与えていたため、本人は貧乏暮らしだったといいます。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃ
32歳で、先祖の小野妹子と同様の朝貢使である遣唐使の副使となった篁。
当時の渡航技術というのはけして高くなく、遣唐使船が無事中国までたどり着ける確率は低かったです。
2度の渡航に失敗した後、3度目の渡航のとき、遣唐使である藤原常嗣と、篁の乗る船二隻が用意されました。
ところが、常嗣の船が出発前に水漏れして出航できなくなります。
そこで、篁のほうの船に乗っていくと、勝手に朝廷に上奏してしまいました。
本来自分が乗るべき船が奪われた形になった篁は、それを不服として役目をサボタージュ。
そのまま日本に残ってしまいます。
そして、『西道謡』という漢詩を作りました。
その内容は現在伝わっていないものの、遣唐使を批判する内容だったようです。
言霊なるものが本気で信じられていた時代、漢詩で行った批判は呪詛と受け取られても仕方ありません。
それでも、言いたいことを言わずにいられなかった反骨精神によって、篁は「野狂」と呼ばれました。
小野篁のエピソード・逸話
平安時代のインテリで皇太子の教師だった貴族。
というと、うりざね顔の生っ白い姿を想像するかもしれません。
ところが、小野篁は190cm近くある大男で、かなりの偉丈夫だったようです。
そんな篁には、貴族っぽくない伝説が残されています。
巨大イノシシを退治する
篁がまだ陸奥国にいた少年時代、近隣の村を背中に松や杉が生えている巨大なイノシシが荒らしていました。
弓術に優れた篁は、虚空蔵菩薩の力を借りて、この巨大イノシシを矢で射殺すことに成功しました。
そして、イノシシの皮をはいで貼り付けた巨岩が、今でも「皮張石」として残っており、それがまた川張という地名となりました。
その川張などを合併してできた宮城県の丸森町には、他に篁が鏃を研いだ「砥石」、イノシシの首を埋めた「猪が首」などの地名が残っているといいます。
地獄の裁判官になる
現実世界で司法を司る刑部少輔だった小野篁。
実は地獄でも裁判官だったという話があります。
しかもそれは、死後ではなく生前の話。
昼の内は朝廷で刑部少輔として働き、夜になると地獄に行って、閻魔大王の裁判団で裁判官をしていたというのです。
京都の東山にある六道珍皇寺には、篁が地獄へ出勤するときに使っていたという井戸があります。
井戸からは貞子が出てきたりするけれど、地獄へ行く入り口でもあったのですね。
5行でわかる小野篁のまとめ
平安時代初期の文人かつ豪傑であった小野篁のまとめです。
- 父親は天皇の教師
- 東北で野生児的に育つ
- 心を入れ替えて勉強し、皇太子の教師にまでなる
- 遣唐使の副使をボイコット、批判の漢詩を書いて流罪に
- 後に司法官となる
曲がったことが嫌いな巨漢・小野篁は、武士の時代に生まれていれば、英雄として活躍できたかもしれません。
百人一首に収録されている篁の歌
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
は、隠岐の島に流されるときに詠んだものだと言われています。
一般的には「流刑地の島に向けて私が漕ぎ出していったと都の人に告げておくれ漁師さん」という、ちょっとしょんぼりした雰囲気の歌だと解釈されています。
でも私には、「あいつ島に元気に漕ぎ出していったぜってあいつらに伝えてくれよな!」という、ポジティブな歌に思えてなりません。
恨みを持ったまま死んだわけではない篁は、たたりを起こさなかったので公式に神様として祀られたわけではありませんが、台東区下谷の小野照崎神社では、篁が主祭神とされ、近隣の信仰を集めています。