平安時代

坂上田村麻呂ってどんな人?わかりやすく簡単にまとめてみました

坂上田村麻呂

征夷大将軍といえば幕府を開いた源頼朝足利尊氏を思い浮かべる方が多いと思いますが、征夷大将軍とはもともと蝦夷(えみし)を討伐するために置かれた臨時の官職でした。

平安時代初期、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は征夷大将軍に任命されて蝦夷征討に大きな功績を残しました。

この記事では坂上田村麻呂についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

坂上田村麻呂のプロフィール

  • 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
  • 父:坂上苅田麻呂
  • 母:畝火浄永の娘
  • 享年54(758年~811年5月23日)

坂上田村麻呂は何をした人?

坂上田村麻呂は桓武天皇の命令で蝦夷を討伐し、陸奥国(岩手県)に胆沢城と志波城を築きました。

坂上田村麻呂の生い立ち

758年、坂上田村麻呂は坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の2男または3男として生まれました。

馳射(走る馬からの弓を射ること)を得意とする武門の一族として、朝廷内で力を増していた坂上氏の後継ぎとして期待されていた田村麻呂は、近衛府(宮中の警護を担当する組織)に出仕し、出世していきます。

東北事情

大化改新以降、中央集権化を目指す朝廷は支配地域の拡大に力を入れていましたが、東北地方に住み「蝦夷」と呼ばれていた人々は朝廷への服属を拒絶していました。

そのため、朝廷は日本海側に出羽国を新設し、さらに前進して秋田城を設置します。

一方、太平洋側には陸奥国府・鎮守府(軍政を司る役所)として多賀城を築き、東北地方の行政・軍事拠点としました。

また、城柵と呼ばれる役所を各地に設置し、関東地方などから農民(柵戸)を集めて周辺地域に住まわせ、東北地方の開拓を進めていきます。

その結果、朝廷による東北支配は進んでいきましたが、蝦夷たちにとってみれば、住み慣れた土地を奪われ、守り続けてきた生活を破壊される理不尽なことでした。

そのため、奈良時代末期になると蝦夷による大反乱が起こります。

780年、城柵の一つである伊治城で朝廷に服属していた蝦夷の豪族・伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こし、都から派遣されていた役人を殺害しました。

これを機に、各地の蝦夷たちの不満が爆発し、多賀城も襲撃されて炎上してしまいます。

蝦夷征討

鎮守府がある多賀城を襲撃するということは律令体制に対する反逆であり、崩壊の危機に直面していた律令体制を再建することに心血を注いでいた桓武天皇は、蝦夷征討を開始します。

789年、桓武天皇は紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とする5万の軍勢を胆沢に送りましたが、蝦夷の族長・アテルイ(阿弖流為)に打ち破られてしまいました。

無残な敗北に激怒した桓武天皇は田村麻呂を征東副使に任命します。

794年、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使、田村麻呂を副使とする10万の軍勢が蝦夷のもとに送り出され、田村麻呂は457人を討ち取り、75ヶ所の村を焼き払うなど大活躍しましたが、最大の敵であるアテルイを倒すことはできませんでした。

征夷大将軍として

この功績により、田村麻呂は796年に陸奥出羽按察使(東北地方の行政監督官)兼陸奥守に任命され、さらに鎮守将軍(鎮守府の長官)も兼任することになります。

そして797年、蝦夷討伐のために設けられた令外官(律令の規定にない新設の官職)である征夷大将軍に任じられ、801年に4万の軍勢を率いて陸奥へ出征しました。

東北地方の行政を指揮する官職を全て合わせることになった田村麻呂は、各地に多くの寺を建立し、仏教の教えによって蝦夷を同化しようとします。

さらに、最先端の農業技術を教えるなど、武力以外の方法で蝦夷を懐柔しようとしました。

その結果、今までアテルイに協力していた蝦夷の族長たちが戦線を離脱するようになります。

アテルイの降伏

802年、田村麻呂はアテルイの本拠地に、縦横680m、役人と兵士約2000人が常駐する巨大な胆沢城を築きました。

圧倒的な力の差を見せつけられたアテルイはモレ(磐具公母礼)とともに胆沢城に現れて降伏を申し出てきたため、田村麻呂は2人を伴って平安京に凱旋します。

このとき、アテルイの人望と気概に触れた田村麻呂は2人の助命を進言しましたが、公家たちに猛反対され、アテルイとモレは処刑されました。

その後803年、桓武天皇の命令で東北に赴き、胆沢城の北方に志波城を築いたことで、北上川北部にまで支配を及ぼすことが可能となりました。

徳政相論

804年、引き続き蝦夷征討を計画した桓武天皇は、田村麻呂を再び征夷大将軍に任命しました。

そして805年、田村麻呂は坂上氏として初の参議に任じられます。

しかし、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が、平安京造営と蝦夷征討が国家財政を圧迫し、民衆に大きな負担をかけていると建言し、桓武天皇がこれを受け入れたため、蝦夷征討は中止されました(徳政相論)

薬子の変と坂上田村麻呂の最期

806年、桓武天皇が崩御した後、平城天皇が即位すると、田村麻呂は中納言と中衛大将に任じられるなど、側近として重用されました。

そして807年、中衛府が右近衛府と改称されたことにあわせて中衛大将から右近衛大将となり、809年には父・苅田麻呂を超える正三位に昇進します。

しかし、病弱だった平城天皇は弟・嵯峨天皇に譲位して平城京へ移りましたが、体調が回復すると寵愛していた藤原薬子(ふじわらのくすこ)と兄・藤原仲成(ふじわらのなかなり)らとともに重祚(退位した天皇が再び即位すること)を企てます。

その結果、朝廷は嵯峨天皇と平城上皇による二所朝廷と呼ばれる状態に陥ってしまいました。

その中で、平城上皇が平安京から平城京への遷都の詔勅を出したため、嵯峨天皇は田村麻呂を造宮使として平城京に送ります。

平城京遷都を拒否することに決めた嵯峨天皇は田村麻呂を大納言に昇進させましたが、自らの詔勅に背く動きを知った平城上皇は激怒し、薬子とともに東国に向かって挙兵しようとしました。

そのため、嵯峨天皇は田村麻呂にこれを阻止するように命じ、進路を遮られた平城上皇は都に戻って出家し、薬子は服毒自殺して、薬子の変は終わりを告げました。

その後811年5月13日、病に伏せていた田村麻呂は54歳で亡くなりました。

坂上田村麻呂のエピソード・逸話

坂上田村麻呂の人物像

田村麻呂は身長が約176㎝、胸の厚さは約36㎝、赤ら顔で目は鷹のように鋭く、髭は黄金だったとされています。

まさむね
まさむね
当時としてはとても背が高く、立派な体格だったためか、田村麻呂は黒人だったという「坂上田村麻呂黒人説」まで存在しています。

目立つルックスで武勇に優れ、毘沙門天の生まれ変わりであると噂された田村麻呂のイメージは、“怖くて恐ろしい人”が強いかもしれませんが、「怒って目をめぐらせば猛獣もたちまち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」といわれていることから、怖いだけではなく、優しい人だったことが窺えます。

坂上田村麻呂と清水寺

清水寺は798年に法相宗の寺として建立されましたが、805年に増改築して現在の清水寺になりました。

780年、妻・高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めて音羽山に入り込んだ田村麻呂は、修行中の賢心(後の延鎮上人)に出会い、殺生の罪を説かれたことで観音に帰依し、観音像を祀るために自らの邸宅を本堂として寄進します

その後、征夷大将軍となり、蝦夷征討を命じられた田村麻呂は、自ら建立した清水寺に参拝し、無事に都に帰ることができました。

そのため、798年に田村麻呂は延鎮上人と協力して本堂を改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造って祀ったとされていることから、清水寺では延鎮を開山とし、田村麻呂を本願と位置づけています。

坂上田村麻呂のまとめ

まとめ
  • 758年:坂上苅田麻呂の2男または3男として生まれる
  • 794年:征東副使に任命され、蝦夷征討で活躍する
  • 797年:征夷大将軍に任命される
  • 802年:胆沢城を設置、アテルイが降伏する
  • 803年:志波城を設置
  • 810年:薬子の変を鎮圧
  • 811年:54歳で亡くなる

現在、京都市にある西野山古墓が田村麻呂の墓所とされていますが、そこからは金装大刀や金銀平脱双鳳文鏡など多くの副葬品が出土しており、重要な人物が埋葬されていることを示しています。

嵯峨天皇の勅命により、甲冑を身に着けて太刀を持ち、立った姿のまま棺に入れられた田村麻呂は、平安京を守護するため、東の方角に向けて埋葬されました。

死後も平安京を守る盾とされた田村麻呂は軍神として信仰の対象となり、現在では武芸の神として親しまれています。

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