平安時代

空海(弘法大師)ってどんな人?伝説やしたことを簡単に解説

空海 弘法大師

空海(くうかい)といえば、日本に密教を伝え、真言宗を開いたことで有名ですが、どんな人物だったのでしょうか。

弘法大師(こうぼうだいし)という名前でも知られ、多くの才能を発揮したマルチ人間とされていますが、実際はどうだったのでしょう。

この記事では空海(弘法大師)についてどんな人物だったのか、簡単にわかりやすく紹介してみたいと思います。

空海(弘法大師)のプロフィール

  • 空海(くうかい)
  • 俗名:佐伯眞魚(さえきのまお)
  • 諡号:弘法大師(こうぼうだいし)
  • 父:佐伯直田公
  • 母:玉依御前
  • 享年62(774年6月15日~835年3月21日)

空海(弘法大師)は何した人?

平安時代初期、空海は高野山を中心に新たな教えである密教を広めましたが、空海は始め官僚を目指していました。

なぜ空海は官僚への道を捨てて唐に渡り、密教を極めたのでしょうか。

誕生と少年時代

774年、空海は讃岐国(香川県)多度郡屏風ヶ浦(善通寺市)で、地元の豪族・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)と阿刀(あと)氏の玉依御前(たまよりごぜん)の3男として生まれました。

幼名は真魚と言い、幼い頃から「貴物(とうともの)」と呼ばれるほど優秀だった空海は、将来は官僚になることを期待されて育てられます。

青年時代

当時、官僚になるためには都にある大学に入る必要がありましたが、大学に入学できたのは貴族の子弟がほとんどで、空海のような地方豪族の子どもが入学することはとても困難なことでした。

そのため789年、15歳のときに上京し、母方の叔父で学者の阿刀大足(あとのおおたり)から論語・孝経・史伝・文章などを学び、学問に励みます。

その結果792年、18歳のときに難関を突破して大学に入学することができました。

そして、明経道(儒学を研究・教授する学科)を専攻し、春秋左氏伝・毛詩・尚書などを必死で学びました。

しかし、どんなに成績が優秀でも、藤原氏を中心とする中央貴族が実権を握っているなかでは、地方豪族出身という立場では官僚として出世できないとういう現実に直面します。

また、出世を目的とした学問では幸せになれないと考えるようになった空海は、大学を中退してしまいました。

仏道修行

793年、苦悩を抱えていた空海は、一人の僧と出会い、「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という密教の修行の方法を教わります。

「虚空蔵求聞持法」とは1つの真言(仏の真実の言葉)を100万回繰り返して唱えるというもので、空海は山岳修行に励み、阿波国(徳島県)の大瀧岳や伊予国(愛媛県)の石鎚山などの霊地を経て、室戸岬に辿り着きました。

そこで、明けの明星が口の中に入るという神秘的な体験をします。

797年、空海は出家することを決意しますが、親族が反対したため、『三教指帰(さんごうしいき)』を著し、そのなかで仏教・儒教・道教を比較して、「儒教より道教の方が優れているが、その道教よりも仏教の方が優れている」と世間の教えが真実でないことを示しています。

大日経との出会い

「虚空蔵求聞持法」を習得した空海は各地の寺を訪ねて、様々な宗派の経典を読みあさりました。

そのなかで、大日経という密教の根本経典に出会います。

空海はこれこそが、自分が求めている仏教だと確信しましたが、分からないことが多かったので、大日経の教えを理解している人を探して回りました。

しかし、日本には一人もいなかったので、唐にわたる決心をします。

入唐と恵果和尚に師事

804年、遣唐使船に乗って唐へ出発しましたが、激しい嵐に遭遇したため、予定地から大きく逸れた福州に漂着しました。

そのため、海賊の嫌疑をかけられてしまいましたが、空海が格調高い文章で福州の長官へ嘆願書を書いたことで正式な遣唐使節と認められ、無事に唐の都である長安に入ることができました。

そして805年、密教の第一人者とされていた恵果(けいか)和尚のもとを訪ねます。

恵果と対面した空海は、「私はあなたがここに来ることを知っていて待っていた。私は寿命が尽きようとしているのに、法を伝えるべき人がいないことを残念に思っていた。急いで準備しなさい」という思いがけない言葉をかけられました。

1000人もの弟子を抱え、3代にわたる唐の皇帝まで弟子にしていながら、密教の継承者を見出せずにいた恵果にとって、空海は待ち望んでいた人物だったのです。

恵果から一対一の口伝によって密教の教えを授かり、わずか3ヶ月で密教の全てを学んだ空海は、密教の正統な継承者として「伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)」の位を授かりました。

そして、恵果は「急いで日本に帰り、この教えを国中に広めなさい」と空海に言った後になく亡くなります。

そのため、空海は本来20年唐に滞在しなければならない留学を2年で切り上げて帰国する決意をし、留学費用を使って、日本にはない経典・法具・曼荼羅など布教のために必要な物を買い集めました。

帰国と最澄との交流

806年、唐から帰国した空海は、20年間留学しなかった罪で大宰府に留め置かれます。

どうしても都に戻りたかった空海は、唐から持ち帰った経典や法具が貴重なものであることを記した『御請来目録』を朝廷に提出しましたが、誰も見向きもしませんでした。

ところが、最澄(さいちょう)だけがこの目録に驚きます。

全くの無名だった空海に比べ、仏教界のエリートだった最澄は、空海と同じ年の遣唐使として唐に渡り、天台宗の教えを修めた後、帰国直前の1ヶ月だけ密教を学んでいました。

最澄は日本に初めて密教を伝えた者として朝廷に歓迎されていましたが、空海が持ち帰って経典の目録を見て愕然としていたのです。

809年、空海は最澄の支援によって都へ戻ることができました。

そして、自分の密教が不完全なものであることを自覚した最澄は空海の弟子になり、密教への理解を深めていきました。

しかし4年後、最澄が「理趣釈経」を貸して欲しいと頼んだことで、二人の関係に亀裂が入ります。

欲を肯定し、男女の性愛でさえ清いものと説く「理趣釈経」は、読み間違えれば誤解を招く可能性があったので、空海は経典を貸すことを拒否し、最澄との交流は絶たれてしまいました。

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庶民の救済

即身成仏を真髄とする真言密教の教義を確立していった空海は、庶民を救済するために精力的に動き出しました。

唐で習得した薬に関する知識を生かして病気を治した他、生まれ故郷の満濃池(まんのういけ)の堤防の修復を自ら指揮し、当時としては最新の土木技術の知識を駆使して工事を完成させます。

一方、朝廷からも重用されるようになった空海は823年に東寺を賜り、教王護国寺と改名して、そこを拠点に国家護持のための仕事を遂行していきました。

さらに、828年には庶民のための教育施設である「綜芸種智院」を創立し、身分貧富に関わりなく、あらゆる思想・学芸を学べることができるようにしました。

高野山金剛峰寺と空海の最期

816年、空海は修禅の道場として高野山の下賜を朝廷に願い出ます。

かつて、自分が山野をわたり歩いて仏道修行に励んだように、自然に囲まれた環境で弟子たちが密教修行に励める道場を創建したいという思いから、高野山は開かれました。

空海は高野山で修行をする一方で、東寺で密教を広める生活を続けます。

832年、高野山において催された万燈万華会で、空海は

虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん

(この宇宙の生きとし生けるもの全てが悟りを得て仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終わる)

という誓願を立てました。

死への準備を始めたかのような誓願から3年後、空海は食事も水も断ち、835年3月21日、62歳で入定(永遠の禅定)しました。

空海(弘法大師)のエピソード・逸話

空海伝説

福島県には、水に乏しい地域で飲み水を求めた空海を少女が助けると、翌朝、少女の家の前に湖ができていました。

それが、猪苗代湖だとされています。

福岡県には、お金がなくて船に乗れない空海を渡し舟の船頭がタダで乗せたところ、空海は近くに生えていたヨシの葉を魚(エツ)に変えてしまいました。

エツは、日本では筑後川のみに生息しており、そのきっかけは空海だとされています。

この他にも、空海が杖で叩いて温泉を涌かせたとされる修善寺温泉や、食事の後に地面に挿した柄杓が成長した姿とされる高尾山の飯盛杉など、空海に関する伝説は多く、日本各地に残されています。

法事と空海

空海は貴族に密教を広めるため、供養することを勧めます。

当時、権力争いに敗れて死んだ者が呪いや祟りをもたらすと考えられていましたが、空海は供養することでそれを防げるとし、一周忌の際に加持祈祷を行いました。

そして、その場で密教を教えることで、貴族を信者としていきましたが、空海が行った供養は法事として現代にも受け継がれています。

空海(弘法大師)のまとめ

まとめ
  • 774年に讃岐国で地方豪族の3男として生まれる
  • 792年に大学に入り、明経道を専攻する
  • 804年、遣唐使として唐に渡り、恵果和尚に師事する
  • 806年、帰国し、朝廷に『請来目録』を提出する
  • 816年、朝廷から高野山を賜る
  • 835年、62歳で入定
  • 921年、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られる

空海の入定から86年後の921年、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう)を授けました。

高野山の僧が醍醐天皇から贈られた着物を納めるために御廟を開けたところ、空海は生前のときのままの姿をとどめていて、生き生きしていたといわれています。

そのため、空海は今でも生き続けて禅定を続けているとされており、高野山の奥の院では早朝6時と午前10時30分に空海の食事が運ばれています。

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